柳生宗矩 坂崎事件を思い出す 1 (第八話)

 寛永四年(1627年)十月某日の夜。場所は江戸は竜閑堀りゅうかんぼり道三河岸どうさんがしの柳生屋敷。その当主である柳生宗矩は不意に感じた足元の寒さに目を覚ました。

(寒いな……朝か……?部屋には……誰もいないようだな……)

 宗矩は唐突な自身の目覚めに周囲を警戒するが、部屋の内にも外にも特に異変は見受けられない。どうやら自分が目を覚ましたのは単に思わぬ冷え込みのせいだったようだ。

(……しまったな。変な時間に起きてしまったようだ。仕方がない、ここはもう一眠りでもするか)

 外の暗さと腹の減り具合から、おそらく夜明けまではまだ一刻以上あるだろう。宗矩は掛け布団代わりの薄手の夜着・掻巻かいまき掻巻かいまきをかぶり直し目を閉じる。しかし一度覚醒した目はなかなかまどろんではくれなかった。

 それからしばらく横になっていた宗矩であったが結局眠気はやってこず、また口寂しさも覚えてきた。宗矩は「仕方がない」と誰に向けてでもなく呟くと近くに掛けておいた小袖を着流しで羽織り、静かに部屋の戸を開けた。


 廊下に出た宗矩は外の寒さに思わず腕をさすった。

「ふぅむ。本当に今晩はよく冷えるな」

 確かに暦の上では十月に入っているため朝晩が冷え込んでもおかしくはないのだが、ここ数日が残暑が厳しかったためか異様に寒く感じてしまう。

「いよいよ秋が本格的に始まるのかもな……。うぅ、いかんいかん。こんなところでじっとしていては体に悪い。さっさと貰うものを貰いに行かなければ……」

 宗矩はわずかな月明かりを頼りに暗い廊下をそろそろと進む。彼が向かおうとしていたのは玄関横の小さな部屋・つぎであった。

 次の間と呼ばれる部屋はいくつかあるが、今回の場合は一般的な武家屋敷の玄関横に設置されている小部屋のことである。その大きさは二畳から四畳ほどで、名前の由来は玄関のの部屋だからだとか来客を取りぐための部屋だからなどと言われている。宗矩がそこに向かっている理由は、柳生家ではそこが寝ずの番の待機場所として使われていたためであった。おそらく今日も当番の者が大口を開けてあくびをしながら夜明けを待っていることだろう。

 宗矩が足音を立てぬように近付くと、不意に次の間の戸が開き中から声をかけられた。

「……誰かいるのか?」

 どうやら寝ずの番をしていた者が廊下を歩く宗矩に気付いたようだ。当番の下男は警戒しながらちらと廊下に顔を出すが、暗さのため相手の顔までは確認できない。そのため宗矩は驚かせない程度の声で返答した。

「案ずるな。私だ」

「その声は……えっ、殿っ!?」

「おいおい、そう大きい声を出すな。皆が起きてしまうぞ。なに、ちょっと寒さで目が覚めてしまってな」

「あ、あぁそうですね。今宵はとみに冷えますね。……それで殿は何故このようなところに?」

「ちょっと早いが火を貰いに来た。寝ようと思ったのだが少し口寂しくてな」

 宗矩の言葉に下男は「あぁなるほど」と納得すると部屋の奥をごそごそと漁り、陶器製の壺を取り出した。蓋を開けると中には灰が詰められており、それを少し掘ると赤く熱せられた炭が出てくる。下男はその横にまだ火のついていない宗矩の煙草用の炭を置いた。

「少々お待ちください。すぐに火は移りますので」

 下男の取り出した壺は火種を維持するための壺だった。この時代はガスもライターもないため一度作った火種はできる限り維持をする。その一方で木造建築がほとんどで防火設備も未熟なこの時代、火の取り扱いには細心の注意が払われていた。

 柳生家の場合は一日が終わると一つの火種を残してすべての火を消し、残した炭火は灰が詰められた壺の中にうずめられた。灰の中に入れることで低酸素状態となり炭が長時間低温で燃え続ける燃えさし状態になるのだ。

 そしてこの唯一の火種は寝ずの番の者が管理することになっていた。当番の者は一晩炭火を維持し、翌日日が明ける頃になると火のついていない別の炭を壺の中に入れ火を移す。起きてきた家人はこの火の移った炭を受け取り、それを炊事や明かりなどに利用した。宗矩の煙草用の炭も普段はこうして用意されていた。

「殿。火が着きましたよ」

 しばらくすると宗矩用の炭にも火が移った。赤い光は割れた炭の表皮からほのかに見える程度であったが煙草に火を着ける程度ならばこれで十分である。下男は火入れ壺に炭を入れて宗矩に手渡した。

「お待たせいたしました。言うまでもありませんが気を付けてお使いください」

 宗矩はそれに「わかっているさ。お前も励むのだぞ」と返して次の間を後にした。


 火入れ壺を手に戻った宗矩は自室前の広縁に腰を下ろした。ここならば火が布団や紙に燃え移ることはないし月明かりで手元がよく見えるからだ。今日の月は十三夜か十四夜のやや欠けた月であったが煙草を吸うくらいなら十分な光源だろう。宗矩は愛用の煙草盆たばこぼんを手元に寄せ、愛用の煙管と刻んだ煙草の葉を取り出した。

 煙草盆とはその名の通り喫煙のための道具や煙草の葉などをまとめて収納してある盆で、宗矩のそれは装飾の少ない簡素な箱状のものであった。宗矩は月明かりの下、慣れた手つきで刻んだ煙草の葉を丸め火皿に置く。続けて先端に硫黄を塗った薄い木片を取り出すとそれを先程貰った炭火に近付けて火を着ける。その火を火皿の葉に移すとチチチと火が灯り、葉が燃える初期特有の湿気が飛ぶ香りがわずかに宗矩の鼻を突いた。あとは息を吸って燃焼を促進してやればいい。

(そろそろか……)

 葉にしっかりと火がついたことを確認すると宗矩はそれを味わうようにゆっくりと、深く息を吸い込んだ。冷えた肺腑に熱を帯びた煙がよく沁みる。

「美味い……」

 それは心からの呟きだった。宗矩は日に何度も煙をたしなむような愛煙家であったが、今日のこの一服は何故かここ数か月で一番の美味さであった。理由を考えてみたところ、パッと思いついたのはこの肌寒さのせいだった。どういう原理かは知らないが寒い日の煙草は何故か普段よりおいしく感じるものである。

(ついこの前夏が来たと思ったのに、もうそんな季節になったのか。まったく、年を取ると時が経つのが早いな……)

 あるいは雑務にとらわれず気が楽な状態で吸っているせいかもしれない。思えばここ数か月の喫煙は書類仕事中に集中力を回復させるためにしたものばかりであった。なるほどそれでは煙草の味などわかるはずもない。

(そういえば何時ぶりだろうか、こんなにしみじみと煙をくゆらせたのは。ふふっ、『早起きは得をする』などと言うがこれもまたそうなのかもな)

 口端に楽な笑みを浮かべながら宗矩は再度吸い口に口を付けた。深夜の広縁に火皿の煙草葉がカッと赤く輝いた。


 この頃の宗矩は着実に幕府内での評価を上げていた一方で、それ故の苦悩も多く抱えていた時期だった。特に顕著なのが書類仕事の量だろう。宗矩はちらと自室の書き物机の方を見た。そこには月明かりに照らされて積み上げられた書状の山が白く浮かび上がっている。宗矩は嫌なものを見たとでも言いたげに溜め息を一つ吐いてから改めて大きく煙を吸った。それらは彼の配下の者が集めた西国の近況報告であった。

 一剣術家でありながら宗矩が幕府内で相応の地位を獲得したのは、ひとえに彼が持つ諜報網のおかげであった。今より通信網や交通網が発達していないこの時代、江戸にとって大坂、尾張、京都の情勢は喉から手が出るほどに欲しいものであった。そんな中柳生庄は偶然にもその三か所を結ぶ三角形の中心に位置しており、また宗矩はそこを調べるだけの諜報網も持っていた。先代の頃から付き合いのある周辺領主や伊賀の忍びたち。三厳が新たに切り開いた廻船問屋経由の諜報網。そして最近では駿府に門下筆頭である友重を送り込んだ。彼らから集められた情報は随時宗矩の元へと届き、宗矩はそれを精査・資料化して幕府に渡す。これらの資料は、もちろん政策を決定するほどの力はなかったが、それでもかなり信用度の高い資料として重宝されていた。この点が宗矩が他の武術家と一線を画すところであった

 ただ宗矩本人としては今の評判に悩むところもあった。なにせ彼は本来は単なる剣術指南役であり、また彼自身それに誇りを持っていた。しかし今ではもう剣を握る時間と筆を握る時間は同じくらいになっている。

(果たして私は何時までこのようなことを続けるのだろうか……)

 もはや武術だけで食っていける時代ではないことは重々承知している。だが柳生家は剣の家である。息子たちにも門下たちにもそればかり教えてきた。今は偶然にも幕府の要望に応えられているが、次の世代になったときに果たして柳生家は生き残ることができるのだろうか?

(今一度戦の世になれば……。いや、皆が苦労して手に入れた太平の世を否定することはできない。だがそれでは剣の価値はただ落ちていくのみだ……)

 いつの間にか宗矩の眉間にはしわが寄っていた。もはや悩むのが癖になっているのだろう。そこに冷えが重なったためか、腹もちくりと痛んだ。

(いかんな。医者にも考えすぎは体に毒だと言われていたのに。そろそろ床に就くか)

 余談だが宗矩は同じ医者に『煙草の吸いすぎも体に毒だ』と言われていた。だが宗矩はそれは無視して目一杯に煙草の煙を吸う。脳を打つ快感に酔いしれながら宗矩は満足げに夜空を見上げた。

(……いい心地だ。これなら仮眠くらいはできそうだ)

 体の温まった宗矩は丁寧に火の始末をしたのち再度布団の中に身をうずめた。今度は瞼は素直に落ちてくれた。


 時は少し流れ十月が終わろうかという頃。宗矩は江戸城内にて唐突に土井利勝の使いの者に呼び止められた。

「宗矩様。大炊頭様が少々お話したいことがあるとのことですが、お時間はよろしかったでしょうか?」

「大炊頭様がですか!?承知いたしました。すぐに向かわせていただきます」

 幸いにも今日の家光への稽古は終えておりあとは帰るだけだったので宗矩はすぐさま使いの者に取り次ぎを頼んだ。いや、仮に何か予定があったとしてもそれを放り投げてでも利勝の方へと向かっただろう。なにせ向こうは幕府最高権力者の一人、土井大炊頭利勝である。そんな人物からの呼び出しに宗矩は(大炊頭様が何の用だ!?)と必死に考えながら廊下を進んでいった。

 なお宗矩は家格こそ低いものの家光とよく接する立場にあるためにこのように老中たちに呼び出されることはままあった。ただここまで急に呼び出されるのは珍しい。よほどの火急か、それとも誰にも知られたくないか……。

(あるいはその両方か……。いや、まさかな。行けばわかるのだ。変なことを考えるのはよそう)

 しかし悲しいかな、宗矩の予感は当たってしまうこととなる。


「大炊頭様。宗矩様をお連れ致しました」

 案内の坊主に連れられて城内のとある一室に入ると、そこにはすでに利勝が座しており何かの手紙を読んでいるところであった。利勝は宗矩を一瞥すると「少し待っててくれ」と言って手紙を読み続ける。

 やがて切りのいいところまで来たのだろう、利勝は手紙を懐にしまい改めて宗矩に非礼を詫びた。

「呼び出したのに待たせてしまって済まなかった、宗矩殿」

「いえ、問題ありませぬ。して御用とのことでしたが、先の手紙が関係しているのでしょうか?」

「いや、これは別件だ。貴殿には関係ない」

 どうやら利勝は来客を待たせてでも手紙を確認しなければいけないほどに忙しいようだ。だからこそ宗矩のためにわざわざ時間を取った今回はよほどのことが起きたということだろう。状況を察した宗矩に利勝は満足そうに頷いて話を切り出した。

「宗矩殿、察しておられるようだが火急の問題だ。時間がないので要点だけ述べるが、どうやら出羽守でわのかみの……坂崎家の元家臣らが動き始めたらしい」

 これに宗矩の顔が一瞬で険しくなる。

「それは……誠でしょうか?あ、いえ、疑っているとかではなく……」

「わかっている。私だって信じたくはない。だが、覚えていらっしゃるかな?かの家の右筆ゆうひつだった小平なにがしという者を?その者が先日亡くなってな。その葬式に古い家臣らが集まったことで昔話に火が着いたそうだ。……来年はちょうど出羽守の十三回忌だからな」

 利勝が最後に呟いた言葉に宗矩は感じ入る。

「十三回忌……。そうですか、もうそれほどの時が経ったのですね……」

「時が経つのは早いものだ。だが恨みを持つ者からすれば時間など何の意味も持たない。奴らが狙うとすれば上様か某か、あるいは飛騨守(立花宗茂むねしげ)か……」

「某、でしょうね……」

 おそらくこれが利勝の言いたかったことだろう。家光や利勝は厳重な警備に守られているため襲撃するのは難しい。ならば彼らが狙うのは比較的防備の薄い宗矩になるはずだ。

 一瞬部屋に重い空気が漂ったが、利勝はそんなもの無駄だと言わんばかりにすぐに口を開いた。

「宗矩殿。一応言っておくがよもや討たれてやろうなどとは思うなよ?上様らに弓を引いた時点で彼らは逆賊だ。……十一年前からな」

「……承知しております。某もまだ死ぬわけにはいきませんので」

 宗矩は硬い表情で頭を下げた。

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