柳生三厳 菊山保知と出会う 1
宗矩が江戸で苦悩していた頃、柳生庄の三厳もまた三厳である問題に頭を抱えていた。
「ではその
三厳が尋ねると報告に来ていた伊賀の若い忍びはこくりと頷いた。
「はい。ですがその剣筋は似ても似つかぬもの。おそらくはただの語りでしょう。町の者も本当に新陰流の門下が悪事を働いたとは思っておりませぬ」
「そうか、それならばまだいいが……。いや、いいとも言えぬか……」
三厳は悩ましげに目尻を押さえる。
「してその男はどのように名乗っていたのだ?」
「私も直接見たわけではありませんが、訊いたところによるとかなり芝居がかった口上を上げたようで。粉物屋の店主にこれ見よがしに刀を抜いて見せ、代金を踏み倒そうとしたそうです」
「はぁ……くだらん小物だな……」
「まったくです。ただ余罪を調べたところ以前より似たようなことをしていたらしく、現在名張の詰め所の方でかなり絞られていると聞いております。三厳様の方から声をかければさらに厳しく責めることもできましょうが……」
若い忍びからの提案を三厳は軽く手を振って退ける。
「よいよい。その者はただ新陰流を語っていただけで無関係なのだろう?ならば放っておけ。他所の沙汰にみだりに首を突っ込むべきではない。それにしても……」
そして三厳は心底憂鬱そうにため息をついた。
「最近本当によく聞くな。新陰流を語る牢人を……」
三厳の目下の悩み。それはここ最近新陰流の使い手を名乗る荒くれ者が増えてきたことであった。
家光政権初期のこの頃は各地の牢人問題が一つのピークを迎えようとしていた頃だった。
大きな戦がなくなったことで職にあぶれてしまった牢人たち。彼らの多くは武士の道をあきらめ農民や職人と言った健全な職に就いたのだが、中にはそんな道を選ばずに腰に刀を下げたままその日暮らしの生活を選んだ者たちも少なからずいた。彼らはどうせ程なくしてまた戦国の世が来ると信じていた者たちだった。
しかし気付けば大坂の役から十年以上が過ぎていた。もはや戦国の世には戻らないであろうことは牢人たちも察していたが、かと言って今更真面目に働くという道を選べるはずもない。こうして進む道を失くした彼らは毎日の糧を得るために安直で不埒な稼業に手を染めることとなる。暴力。
「やあやあ我こそは
そう言って刀をちらつかせれば大抵の町人は震えあがって金品を出してくる。元手のかからないボロい商売だ。
もちろんこの名乗りはハッタリなため実際に修めているかどうかは問題ではなく、相手をひるますことができればそれでいい。結果そこかしこに著名な流派を修めたと豪語する牢人たちがあふれ返った。よく聞かれたのが一刀流、新当流、宝蔵院流、そしてそこには柳生新陰流の名もあった。
「確かにたまに聞きますね、暴れていた牢人が新陰流を語っていたという話。ですが所詮は牢人の戯言。町人も同心らもそこは承知の上でしょう。三厳様がお気に病む必要はございませんよ」
実のところこの時代、この手のハッタリはもはや使い古された手法であった。町人たちが素直に従うのも流派の名前に怯えたのではなく単に刃物や相手の体格を恐れていただけであり、また当の牢人たちですら「言わないよりは言っておいた方がいいだろう」程度の感覚で名乗っているに過ぎない。
そのため若い忍びが言ったように、新陰流を名乗られたからといって三厳が気に掛けるようなことは何もない。三厳もまたそのことはきちんと理解している。しかし理解してなお「わかってはいるのだがな……」と消えぬ心のしこりを自覚していた。
「大事でないことはわかってはいるのだがな……」
この時三厳が思い浮かべていたのは先日再会した旧知・沢庵和尚のことであった。
沢庵は寺社界における重鎮の一人で、天皇や朝廷にも顔の利く超がつくほどの大物である。そのため幕府は彼の動向を注視しており、沢庵本人もまたその立場を理解して隙を見せないように行動していた。
そんな沢庵に対して自分はどうだろうか?柳生庄領主の嫡男として後ろ指を指されない振る舞いができているのだろうか?この時代、些細な失態でも改易や転封などがありうる時代である。そこを踏まえて自らを鑑みた時、その新陰流を名乗る牢人たちの存在がどうしても気になった。
(新陰流は今や将軍家の御用剣術。そんな流派が戯言とはいえ悪党に使われているというのは聞こえが悪い……)
もちろん先に述べた通り牢人らが勝手に流派を名乗ることは珍しいことではないし周囲の者も本気になどしていない。だがだからといって絶対に咎められないと断言することはできない。特に今ここ柳生庄には柳生家嫡男である三厳がいるのだ。
(我が家は行ってしまえば柳生新陰流の管理責任者だ。その嫡男である俺が近くで行われた自称新陰流の者による悪事を放っておけば、それは怠慢と見なされるのではないだろうか?)
なるほど、とある牢人が誰とも知らぬ地で新陰流の名を名乗ったところでそれはよくある牢人のハッタリである。しかし三厳の手の届く範囲でやられてしまうとそれはまた別の意味を持ってしまう。最悪柳生家が牢人らの元締めと噂されるかもしれない。
(考えすぎかもしれないが元より牢人らの存在は百害あって一利なしだ。今は丁度時間もあるし、早めに手を打っておくのもいいかもしれないな)
後日、そんな考えを代官の小沢頼元や新陰流高弟の木村友重に話すと、二人は思っていた以上に三厳の案に賛同した。
「素晴らしいお考えにございます、三厳様!是非ともおやりになりましょう!」
「ええ。三厳様のお働き、きっと殿やお爺様らもお喜びになることでしょう!」
どうやら二人は三厳が柳生庄や新陰流の将来について案じたことにひどく感動したようだった。三厳は小恥ずかしさを覚えつつ二人に落ち着くように促す。
「す、少し待ってくれないか。俺はただ少し気になると言っただけで、具体的に何をするかなどはまだ何も決まってはいないんだぞ」
だが二人の目は相変わらず感動と期待で輝いていた。どうやら年長者にとって年若い者の成長はよほど嬉しいものなのらしい。
「……とりあえず反対はしないのだな?」
「無論にございます。こんなご時世です。悪評の矛先がこちらに来る前に火消しに走るのも一つの立派な領主の務めでしょう」
「そうか。ならよかった」
抱いていた懸念が自分一人の先走りではないとわかると三厳は小さく安堵の息を吐いた。方向性は間違ってない。ならばあとは手段である。三厳は「ではいかがいたそうか?」と二人に尋ねてみるのであった。
三厳からの問いかけにまず口を開いたのは友重だった。
「そうですな、『新陰流の名を語ったら報復に向かう』という噂を流すのはいかがでしょうか?牢人の数自体は減りませんが、新陰流の名を語る者の数は少なくなることでしょう」
牢人たちが新陰流の名を語るのはそこに何かしらのメリットを感じてのことである。ならば明確なデメリットを提示することで抑止しようというのが友重の考えだ。
だがこれに頼元が異を唱える。
「お待ちになってください。友重殿の案ですとこちらが常に報復の用意をする必要が出てしまいます。ですがこのご時世に過分に兵力を用意すれば、それだけであらぬ疑いをかけられてしまいまするぞ」
「むぅ、ならば目立たぬ伊賀者の手を借りれば……」
しかし今度は三厳が首を振る。
「それもあまりいい手ではないですな。我が家と伊賀の忍びたちとはあくまで対等な関係。下手に頼み事をすれば借りを返せなくなってしまう。それに……」
「それに?」
「あ、いや、何でもありません。それよりも俺としては牢人について調べたい反面まだ大事にはしたくはないのです。できる限り波風を立てない方向で何かありませんか?」
三厳がそう指示を出すと少し考えたのち再度友重が答えた。
「……でしたらやはり直接町まで言って情報を仕入れる他ないでしょう。もしかしたら実際牢人が我らが流派を語っているところに出くわせるかもしれませんし」
「やはりそれが確実ですか。だとしたら候補に上がるのは上野、加茂、木津、それから最近牢人が出たという名張……」
今しがた三厳が挙げたのはどれも柳生庄からそう遠くない宿場町である。そして友重はその中から伊賀・上野を推した。
「その中ならば上野でしょうな。一番土地勘がありますし、伊賀国内のため万が一があってもすぐに救援を呼べる。上野城のお膝元という点は少し面倒ですが、まぁ大暴れでもしなければ問題はないでしょう」
「まぁ妥当ですな。でしたら案内役は……」
とここで友重がバンと床を叩いて声を上げた。
「水臭いことをおっしゃらないでください、三厳様!御流儀のためにお働きになられるというのならば私に同行させてくださいませ!」
「それは……友重殿が御一緒ならば確かに百人力だが、しかし大丈夫ですか?父上に情報を送るというのも大事なお役目ですぞ」
現在友重は江戸と伊賀忍者との情報交換の仲介役を担っていた。もう少し正確に言うならば伊賀の忍びたちが集めた西国諸国の情報をまとめて江戸の宗矩に送る役をこなしていた。こうして送られた情報は宗矩経由で江戸中枢へと届けられる。西国の情報網はこれ以外にも数多くあるため今はまだ特別評価は高くはないが、それでも幕府における柳生家の地位を高める重要なお役目であった。
ただ友重によると幸いにもそのお役目も今は軌道に乗ってきたらしい。
「問題ありません。最近ようやく下の者たちも塩梅を把握してきたところ。のちのことを考えたらそろそろ私なしでも動けるようにしておくべきですので」
「なるほど。むしろ留守にする方が都合がいいと……」
ここで三厳は代官・頼元の方をちらと見た。反対意見などはないかという目配せだ。これに対し頼元は恭しく頭を下げた。
「里のことならばお気になさらないでくださいませ。いつものように万事つつがなくこなしてみせましょうぞ」
どうやら異論はないようで、また留守の間はいつも通りしっかりと里を守ってくれるようだ。これに三厳は満足そうに頷いた。
「うむ、頼りにしている。では少しばかり上野まで足を伸ばしてみるか」
こうして三厳は牢人調査のために友重を連れて上野まで向かうことにしたのであった。
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