柳生宗矩 金地院崇伝から呼び出しを受ける (第七話)

 寛永四年(1627年)五月某日。柳生三厳の父・柳生宗矩は緊張した面持ちで江戸城の敷地内を進んでいた。その表情は刀を握っている時とは同一人物とは思えぬほどに強張っている。

(あぁまったく、いったいなぜ私なんぞが呼ばれたのだろうか……)

 内心でぼやきながら案内役の坊主のあとをついていく宗矩。その足はずんずんと進み、やがて北の丸へと入った。

 『江戸城』と言うと真っ先にあの天守閣を思い浮かべるかもしれないが、実際はあの天守だけでなく二の丸や西の丸、この時期はまだ造られてはいないが吹上なども含めた範囲が江戸城の縄張りである。その中で北の丸は江戸城天守より北に位置する区域で、当時のこのあたりは関東代官や徳川家類縁の者が屋敷を連ねており、俗に『代官町』などとも呼ばれている場所であった。

 さて、宗矩は今日この区域に住むとある人物から呼び出しを受けていた。柄にもなく緊張していたのもそのためである。そして今、その者が住む建物の前まで案内されたところだった。

「お付きになりました、宗矩様。こちらにございます」

「おぉ、ここが……」

 案内された先は北の丸内に建てられていた寺院であり、その門前の石碑には『臨済宗南禅寺・金地院こんちいん』と彫られていた。

 宗矩を呼び出したのは幕府最高権力者の一人・金地院崇伝すうでんであった。


 金地院崇伝、あるいは以心崇伝。初代・家康の頃から徳川家に仕えている高僧で、その類まれなる才覚で幕府創成期から内政を支えてきた人物である。近年でこそ天海や林羅山などが台頭してきたが、それでも未だに外交、宗教関連の政策を一手に引き受けている、まさに幕府の頭脳とも言える人物であった。

 そんな人物が理由も告げずに宗矩を呼び出した。当然呼ばれた方としては気が気でない。

(左門(柳生家次男)が何か粗相でもしたのか?あるいは先日七郎が何かお役目を任されたと聞いたからそれ関係か?……くぅっ!駄目だ。見当もつかん!)

 宗矩は呼び出しを受けた時からその目的を考えていたが、結局最後まで納得できるような答えは見つけることはできなかった。一時はいっそ逃げてしまおうかとも思ったが、そんなことをすれば当然一族まとめて処罰されることは間違いない。つまり宗矩はもう何も知らぬまま虎口に飛び込むことしかできなかったというわけだ。

(ええい!こうなればもうままよ!必ずや柳生の家を守り切ってみせようぞ!)

 覚悟を決めた宗矩は金地院の敷居をまたぐ。そこから別の坊主の案内で奥座敷へと通される。

「師僧はまもなくいらっしゃいますので少々お待ちください」

 宗矩は「うむ」とだけ返し、背すじを伸ばして崇伝到着を待った。


 ここで少し寺院としての『金地院』について説明をしておこう。以心崇伝の俗称『金地院』とは、元は崇伝が京都時代に住していた寺院の名称である。彼のように起臥していた寺院の名が呼び名となることはさほど珍しいことではなかった。

 さて、では今しがた宗矩がたどり着いた江戸城の金地院とは何か。実はこれは秀忠が崇伝の居住区兼執務室として北の丸内に建てた寺院のことで、言ってしまえばもう一つの金地院であった。目的はもちろん幕府の頭脳である崇伝を常に近くに置いておくためである。崇伝が徳川政権下でどれだけ重要なポジションにいたかがわかる話であり、そしてそれはつまり宗矩程度の者ならば簡単に処分できるということでもあった。

(結局呼ばれた理由はわからずじまいか……。まさかいきなり改易なんてことは……いや、まさかな……)

 一人ごくりと唾を呑む宗矩。史実では柳生宗矩はのちに幕府内で大出世をすることとなっているがこれはそれ以前の話――つまり今現在、幕府の頭脳である崇伝に対し宗矩は一介の剣術指南役にすぎない。そのせいかどうしても卑屈な悪い予想ばかりしてしまう。

(万が一領地替えなど言い渡されたらどうすればいいのだろうか……。あるいは指南役の解任やもしれぬ……。もしそうだとしたら柳生家はどうなってしまうというのだ!?あぁっ、七郎が江戸にいないこんな時に!)

 世に名高い剣豪・柳生宗矩も一皮むければ一家を背負う家長である。俗な悩みについつい背中も丸くなる。

 そんな折、廊下からこちらに近付く足音を耳にする。宗矩は慌てて背すじを伸ばし居住まいを正す。やがてふすまが開くと六十代くらいの小柄な老僧が現れた。

「いやぁ待たせてしまい申し訳ない。お忙しい中ようこそおいでくださいました、宗矩殿」

 しわの多い顔に愛想笑いを浮かべて上座についたこの老僧――彼こそが『黒衣の宰相』とまで呼ばれた幕府の重鎮・金地院崇伝であった。


「すまないなぁ、宗矩殿。急に呼び出してしまって」

「いえ。私程度の者がお役に立てるのならば光栄の極みにございます」

 親し気な雰囲気で部屋に入ってきた崇伝に対し宗矩は額が畳につくくらいに頭を下げた。

 宗矩も家格の割には将軍と直接話せる立場にいたりと特殊な存在であったが、崇伝はまた次元の違う地位にいる。ほんの少し顰蹙を買うだけで一族郎党が路頭に迷いかねないだけに宗矩も心から平身低頭するほかない。

 対し崇伝はそんな態度は慣れているという風にあしらうと、時間が惜しいとでも言いたげにさっさと本題を切り出した。

「さて宗矩殿、早速だが本題に入ろう。今回呼んだのは他でもない、貴殿には上様の弟君――駿河の大納言殿(徳川忠長)に新陰流の指南役を見繕ってほしいのだ」

「ええっ!?大納言様にですか?」

「左様。……何か問題でもあったか?」

「い、いえ。そのようなことは……」

 早速切り出された崇伝からの依頼。それは家光の実弟・忠長に新陰流を教えてやってほしいというものであった。

 なるほど新陰流は初代・家康から秀忠、家光と徳川歴代将軍が学んできた、いわば御用剣術である。ならば徳川本家の血が流れる忠長に新陰流伝授の話が出るのはさほどおかしな話ではない。

 だが話はそう単純ではない。現将軍・家光の実弟・忠長。彼は今現在非常に厄介な立場におり、宗矩はそのことを重々承知していた。

(これはまた厄介な話になりそうだ……)


 徳川忠長、あるいは松平忠長。二代将軍・秀忠の実子にして現将軍・家光の同母実弟に当たる人物である。

 家光との年齢差は二歳。しかしその年齢差以上に現在の二人を取り巻く環境には大きな隔たりがあった。片や日本全国を手中に収める幕府の将軍である家光に対し、忠長はあくまで将軍の臣下の一人に過ぎず、幕政に参加できないのは当然としてその領地も駿河・甲斐・遠江の一部に過ぎない。

 この明確な格差の原因は当時の幕府の方針――将軍に権力を一元化させるという考えにあった。当時の御公儀は幕府以外の勢力が台頭・対立し、日本全土が再度戦国時代に戻ることを恐れていた。それを阻止するために幕府はそうなる可能性のある勢力に対して先んじて手を打つことに決める。例えば有力な武将に対しては改易や転封あるいは賦役を課すことで力を削ぎ、朝廷や寺院に対しては各種法令を敷くことで行動に制限をかける。こうすることで他の勢力を弱体化させ、相対的に将軍一強となることで反乱の芽が芽吹かないようにしていたのだ。

 そんな政策下で忠長はあまりにも将軍に近すぎた。秀忠の実子。家光とも同母で歳は二歳しか違わない。そんな彼に過剰に権力を与えてしまえば現将軍・家光に対抗できるだけの勢力に成長するかもしれない。仮に本人にその気がなくとも周りの人間が彼を担ぎ出す恐れがある。

 故に江戸御公儀は忠長が過度な権力を持たないように――はっきりと言ってしまえば将軍の実子とは思えぬほどに冷遇していたのだ。


(それがなぜ今になって大納言様を気に掛けておられるのだ……)

 手前味噌な話になるが今や柳生新陰流は三代にわたって将軍の御用剣術となっている流派であり、有象無象のそれとは一線を画すものとなっている。そんな流派を修めさせればそれは忠長の格を上げることになるのではないだろうか?

「どうかしたのかね、宗矩殿?急に押し黙ったりなどして?」

「あ、いえ、その……本当に大納言様にご指南してもよろしいのかと思いまして……」

「ほう?宗矩殿は大納言殿が新陰流を修めるに値しないと申すのか?」

「い、いえ!そのようなことは!その……大納言様はここ最近は心身ともにお疲れになられていたと聞いておりましたので……!」

「ん?……あぁ、ご乱心の話か。それならば気にすることはない。確かに一時はそのようなこともあったとのことだが、今はだいぶ落ち着かれているそうだ」

 宗矩が誤魔化したのは忠長がここ最近家臣や領地の者に乱暴狼藉を働いているという噂であった。原因は家光との待遇の差に苛立ってだとか実母・ごうが亡くなったショックのためだとか言われていたが、崇伝はこれを特に気にすることではないと捨て置いた。

「大納言殿もまだお若いから血が有り余っているのだろう。暖かくもなってきたし、余計なことを考えぬよう新たに武芸に励んでもらおうと思ったわけだ」

「それで私めに声をかけてくださったと……」

「ああ。宗矩殿は初代神君様の頃より仕えし忠臣。加えて剣の腕前は言わずもがな。これほどまでの適役もいないだろう」

「……過分なお褒めの言葉、恐悦至極にございます」

 崇伝からの高い評価に頭を下げる宗矩。しかし伏せられた宗矩の顔に笑みはなく、その内心ではしっかりと(心にもないことを……)と崇伝を警戒していた。


 武芸者にとって高貴な者の指南役に就くことは一つの出世の到達点である。ましてや忠長は冷遇されているとはいえ将軍の血縁だ。並の武芸者なら喉から手が出るほど羨ましい話であったが、宗矩はただひたすらに警戒していた。その原因はひとえに崇伝の人となりにあった。

(この程度の話ならわざわざ私をここまで呼ぶ必要はない。特に金地院様は元より武術に対して何の関心も抱いていないお方。必ずや何か裏があるに違いない……!)

 崇伝は今でも幕府の外交・宗教政策を一手に引き受けている多忙の身である。加えて彼は武士ではなく僧侶であり、ガチガチの文治主義の人間だ。そんな彼がただこれだけの話で宗矩のために時間を取るとは思えない。

(いったい何が目的だ?本題は本当にこれなのか?)

 一歩間違えれば大事になりかねない状況。故に慎重に出方を伺いたい宗矩であったが、そんな宗矩の想いをよそに崇伝はどんどん話を進めていく。

「そういえば御子息の……三厳殿だったかな?たしか彼は今手が空いているのではなかったか?どうだ、やれそうか?」

 三厳の名が出てきたことでドキリとする宗矩。どうやら崇伝は既に彼なりの話の筋を用意しているようだ。

(元より金地院様から来た話、当然といえば当然か。しかしこのまま主導権を握られるわけにはいかない……!こうなれば少しでもいいように転がす他ない……!)

「……いえ、あの愚息では大納言様の指南役には不適切でしょう」

「ほう。と言うと?腕前に問題でも?」

「いえ、単純な剣の腕ならば三厳に並ぶ者はいないでしょう。ですが立ち合いと指導は別物にございます。あやつにはまだ言葉や思想で新陰流を表現する方法を心得ておりません。そのような者に大納言様の指南役はあまりに荷が勝ちすぎております。加えて……」

「加えて?」

「……加えて三厳は将来新陰流を継ぐ者にございます。つまり私に万が一のことがあれば上様に剣を教えるのは三厳となります。その三厳が上様に先んじて大納言様に直接剣を教えていたというのはあまり耳にいい話ではないでしょう」

 宗矩のこの指摘に崇伝はにんまりと笑みを浮かべる。

「ほっほっほ。なるほど確かに、いかに大納言殿といえども臣下は臣下。上様と同等あるいはそれ以上の扱いを受けるのはよろしくない。いやぁさすがは宗矩殿。細かいところまでよく気が付く」

「もったいなきお言葉にございます」

 深く頭を下げつつ(くうっ!この古狸め!)と悪態をつく宗矩。家光と忠長との間には明確な差をつけるというのが現幕府の方針だ。あの崇伝がそのあたりの機微を見逃すはずがない。

(私を試しているのか?まったく油断も隙も無い……!次は何が来る……!?)

 しかし相変わらず崇伝は素知らぬ顔で話を進める。

「ふむ。では他に誰か適任者はいるかな?」

「適任者ですか。でしたら……」

 宗矩は慎重に考えたのち返答する。

「でしたら私は木村友重ともしげを推挙いたします。父の代から新陰流を学んでおりその腕は家の中でも随一。きっとご要望にお応えできるかと」

 宗矩が改めて推薦したのは木村友重であった。この木村友重とは宗矩の家臣の一人であり、新陰流に対する理解・実力共に家臣筆頭格とも目されている人物だ。またそれなりに世間を知っているため多少の姦計くらいならどうにかしてくれるだろうという期待を込めての推薦である。

(さぁどう返す……?)

 崇伝の次の一手を待つ宗矩。しかしここで崇伝は急に興味を失くしたかのように緊張を解いた。

「うむ、宗矩殿が推すというのならその者で確かなのだろう。ではその者に話を付けておいてくれ。駿河との調整役はまた後日改めてそちらに送る」

「は、はぁ……。よろしかったのですか、私の一存で決めてしまって?」

「その者はお役目に足る者なのだろう?餅は餅屋につかせろだ。それよりもだな……」

 崇伝は宗矩に近くに寄れと手招きする。それに従い宗矩が体を寄せると崇伝は決して外には漏れえぬような声でこう付け足した。

「その友重とやらには大納言殿の御近況を細かく報告するようにと言っておくようにな」

 宗矩の胸中に季節外れの寒風が吹いたような気がした。

(……あぁ、それが狙いか。誰でもよかったのだな)

 しかし宗矩がここで返せる答えは一つしかない。宗矩は不満の色を一切顔に出さずに、ただただ神妙に「承知いたしました」と頭を下げた。


 崇伝による指南役の打診。それは決して新陰流やその他武術を評価してのことではなく、単に忠長の動向を探るのに適当な人材が欲しかっただけという話であった。

 それは柳生家に対する、新陰流に対する、武術に対する侮辱に他ならない。しかし宗矩はぐっと奥歯を噛み締めそれに耐える。もはや剣士が刀一本で成り上がるという時代は終わったのだ。

(そうだ、時代の波に飲み込まれないためにはこういったお役目も必要なのだ。むしろ柳生家がそういったお役目を任せてもらえるだけの立場になったということではないか!)

 宗矩は自分を納得させるかのように今の自分の情況を肯定する。しかしそれでもなお胸中にぽっかりと空いた穴の寒さは治まらない。

 やがて宗矩は立ち止まり空を見上げた。その空はかつて柳生の里で見たそれと変わらぬ青さをしていたが、今ではまるで別の色のようにも見える。

「ままならぬものだな……」

 宗矩は重い疲労をその両肩に覚えながら金地院を後にした。

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