柳十兵衛 出石へと向かう 6
某日夕刻頃、時直は心配そうな顔で分厚い雲が覆う天を仰ぎ見た。
(明日の天気は半々といったところか。参ったな。そろそろいい加減に村を出たいところなのだが……)
十兵衛たちが生野銀山の南の玄関口・弓垣村にて足止めをくらってから二日が経っていた。原因は降雪による視界不良。冬山を登る以上覚悟していたことではあったが、ただそれでも生野を越える前に二日も浪費してしまったのは少々計算違いではあった。本格的に雪が降るのは本来生野を越えてからである。
加えて今回のルートが一本道であることも時直の焦りの原因だった。別の道への変更ができない以上今できることはただただ天候の回復を祈るだけである。普段はそのような神頼みはしない時直であったが、この日ばかりはほんの少しだけ天に祈った。
(これ以上立ち往生すると十兵衛様の機嫌も悪くなりかねないからな。まったく、あの旅人も面倒なものを残していったものだ……)
そんな焦れる中での三日目の朝、時直の願いが通じたのか分厚い雲は夜のうちにどこかに流れ薄雲の間からは久しぶりの晴天が顔を出していた。時直はこれで進めるとほっと胸をなでおろす。
「ようやくの出立日和ですな、十兵衛様」
しかし当の十兵衛はどこか上の空で「ああ、そうだな……」と返すばかりであった。
「十兵衛様……大丈夫ですか?」
「ん?あぁどうかしたか?」
「いえ、どこか心ここにあらずという風でしたので」
時直の指摘に十兵衛は少し驚く。どうやら自覚がなかったようだ。
「そうか、心配かけたな。問題ない。ちょっと考え事をしていたんだ」
「それならいいのですが……」
十兵衛の放心――そのきっかけは二日前、但馬方面からやってきた旅人が語ったとある噂にあった。
「ご存じですか、お二方?実は最近、出石周辺の山中で落ち武者の霊が出るらしいんですよ」
二日前の弓垣村・仮宿内。十兵衛たちが雪で足止めをくらう中、偶然やってきた他の旅人が語ったのがこの噂であった。
「ほ、ほぅ、落ち武者の霊ですか。それはまた穏やかではないですな……」
これを聞いて珍しく動揺する十兵衛。しかしそれもそのはず、出石とは沢庵が住む町であり十兵衛の今回の旅の最終的な目的地でもある。ここまできな臭い話が続いたが出石という土地自体には不穏な話は出ていなかったため、この噂はまさに寝耳に水の話であった。
何とかして情報を聞き出そうとする十兵衛。しかし旅の男も噂以上のことは知らないとのことだった。
「興味深いですな。その落ち武者の霊とやらは一体どのような悪さをなさるのですか?」
「いやぁすまないねぇ。俺も詳しくは知らないんだ。ただ結構有名な噂だったからおそらく何か自体はあったんじゃないかな?」
「そうですか、それは……やっかいですね……」
唐突に入ってきた不穏な噂。ここでさっさと出石へと向かってその真偽を確かめられれば良かったのだが、あいにく但馬方面の雪は激しいままで二人は立ち往生を続けるしかなかった。そして余計なことを考えるだけの余計な時間が出来てしまったせいで十兵衛はいろいろと考え込んでしまう。
(もしやこの噂があったから上は俺を指名したのか?……いや、違うな。それならば指令書の方で一言あってもよかったはずだ。ではこの噂は和尚とはまったく関係がないということなのか?だがしかし無関係にしてはあまりに都合がよすぎる気もする……)
十兵衛がここまで考えるのは彼が沢庵の近況について幕府に報告するという任務を受けていたからだ。そしてその報告次第では沢庵やその他関係者の今後は大きく変わってしまうことだろう。十兵衛と沢庵は父・宗矩を通じての友人関係である。手心を加えてやりたい反面幕臣としての立場もある。板挟みの情況となまじ時間が生まれてしまったせいで十兵衛はこの数日ひたすら悶々としていたというわけだ。
そしてそのせいだろうか、弓垣村から出てしばらくしたところで十兵衛は雪に足を取られてほんの少しだけではあったが滑ってバランスを崩してしまった。
「おっと……!」
「大丈夫ですか、十兵衛様!?」
「ああ、問題ない。少し足を取られただけだ。……いや、情けないな。雪道には慣れているつもりだったのだが……」
時直は十兵衛の心情を慮りつつ忠告する。
「十兵衛様。いろいろと気にかかることもございましょうが今は冬の山に挑んでいるところです。心に隙があればそれは命にもかかわります。お悩みの答えも向こうに着けば自然とわかること。どうか今はこの道を踏破することに気を遣ってくださいまし」
時直の指摘はぐうの音も出ないほどの正論で、それ故に十兵衛は苦笑して頷く他なかった。
「あぁわかっている、すまなかったな。これからはきちんと集中して歩こうぞ」
こうして十兵衛は気持ちを立て直して但馬街道後半の道を歩き出した。
思いがけぬ心労を増やしてしまった十兵衛であったが但馬街道後半の道のりはとても順調に進んだ。道には雪こそ積もっていたが元よりそれを前提として作られた街道のため変に滑るようなこともなく、円山川に沿った一本道のため迷う様子もない。宿も短い間隔で取れるようになっているため急な天候の変化にも安心して対応できる。
十兵衛らはここ二日の遅れを取り戻すかのように
「ほぉここが豊岡か。今まで山に囲まれていたせいか、いやに広く見えるな」
但馬国・豊岡。現在で言う兵庫県北部に位置する豊岡市に当たる町で、この時代では豊岡城の城下町として栄えていた。地理的には山地の多い但馬において希少な平野部である豊岡盆地に位置しており、また近くには円山川も流れていたりと交通の要所として人の集まる但馬有数の町でもあった。
十兵衛たちにとって何より重要な点はここ豊岡が但馬街道上にある町で最も出石に近い町であるという点である。出石はここから南東に二里ほどのところにあり、それは十兵衛が本気で走れば一時間とかからない距離である。だが十兵衛はここ豊岡で一泊し出石に向かうのは明日以降にすることに決めた。これは単なる時間的理由だけでなく、やはり先の噂が気になってのことだった。
「少しここで出石や和尚についての情報を集めておきたいのだが構わないか?」
「某に異論はございません。十兵衛様のお心のままに」
宿を取り、日没までの短い時間ではあったものの調査を行った十兵衛たち。その結果やはり『出石周辺にあやかしが出る』という噂は存在した。
「どうやらあの旅人の与太話ではなかったようですな」
「ああ。だが噂が色々ありすぎてどう解釈すればいいのか判断に困るな」
出石に関する不穏な噂は存在した。しかしその内容はバラバラで実際に何が起こっているのかを見極めるには少々一貫性がなかった。
例えば十兵衛らが最初に旅人から聞いた噂は『出石周辺の山中に落ち武者の幽霊が出る』というものだった。しかしその『落ち武者』のところが人によって天狗や鵺、雪女などに変わっており、またそれら怪異が出現する場所も『出石山中』だけでなく深夜の出石市中、出石と豊岡との道中、果てには但馬の山中ならばどこにでも現れるという風にバリエーションが多々あった。
「噂が伝わるうちに変化するのは仕方がないですが、これでは出石で何が起こったのか――噂の元になった話が見えてきませんな」
「そうだな。うぅん、どうしたものか。ここはもう噂など無視して和尚に会いに行った方がいいのだろうか?」
「大丈夫でしょうか。この噂の黒幕が本当に沢庵和尚だという可能性もまだ残されておりますが……」
「あぁわかってる。わかってるさ」
十兵衛たちが聞いた噂の中にはそのままズバリ『出石にいる偉い僧侶の方が江戸の侍を遠ざけるために落ち武者の霊を呼び出した』というものもあった。これを聞いた当初十兵衛はあり得ないと鼻で笑ったがよくよく考えると権力嫌いの沢庵ならやりかねない気もする。それくらいの力や人脈が彼にはある。
だがもしそうならば自分は何と報告すればいいのだろうか?ありのままに報告するのか。それともどうにかして一度宗矩に相談した方がいいのか。十兵衛の眉間に再度しわが寄る。
「はぁ……本当に面倒だ……」
「いかがなされます?明日も一日情報を集めますか?」
時直の提案に十兵衛は少し考えてから首を振った。
「いや。この調子では確信を持てる情報など手に入らないだろう。こうなればもう直接和尚に話を聞きに行くのが一番早いはずだ。……鬼が出るか蛇が出るかだがな」
十兵衛は豊岡での情報収集をあきらめて明日直接沢庵に会いに行くことに決めた。それは覚悟というよりは沢庵周辺の複雑な関係性に辟易しての、半ば捨て鉢の決断であった。
「やはり俺にこういった役儀は似合わないな……」
十兵衛はそうつぶやき畳の上にごろんと寝転がった。
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