柳十兵衛 出石へと向かう 4

 吉春らと別れ波止場から姫路の大通りへと出た十兵衛たち。時刻はまもなく日の入りという頃で、通りには帰宅する奉公人や最後に一売りしようとする棒手振りなどでにぎわっていた。十兵衛にとっては初めての姫路であったためいろいろと興味はあったものの残念ながら諸々の事情から観光しているような余裕はなく、二人は最低限の食料だけを買って適当な安宿に入って部屋を借りた。

 二人が借りたのは四畳一間の素泊まり部屋だった。検討して入った宿ではなかったが部屋に隙間風などはなく、また小さいながらも火鉢を貸し出してくれたりとなかなかに気の利いたいい宿だった。十兵衛は早速買ってきた地酒を火鉢横で温めながらこれからの予定を時直に尋ねた。

「さて、無事に姫路までは来れたがこれからどうするのだ?」

 もちろん大まかな予定は既に決まっている。十兵衛たちはここ姫路から但馬街道を北上し但馬国へと向かうつもりだ。

 だがそれは中国山地の山々を越える街道でありその道中の標高は500メートルをゆうに越えている。これが夏場なら少し険しい程度の峠道だったのだが折しも時期は晩冬の頃。半端な準備で挑めばそれは自殺行為に他ならない。故に改めて十兵衛は時直にこれからのことを尋ねたのだ。

 これに時直は冷えた手を火鉢で温めながら答えた。

「明日はとりあえず旅具の調達と天候についての情報を集めようと思います。先に申しておきますが天候次第ではここで数日待つこともあるやもしれません。もどかしいかもしれませぬがそこはあらかじめご了承ください」

「まぁ山の天気は変わりやすいからな。命には代えられまい。それで旅具についての当てはあるのか?」

「そちらの方もお任せください。町の北の方に馴染みの店がございます。質のいいものが安くで借りれますし、何より店主の口が堅い」

「それは重畳だ。しかし冬の山越えか。俺も山奥育ちだから多少の心得はあるが何か特別気を付けるようなことはあるか?」

 十兵衛の質問に時直は少し考えてから首を振った。

「笠置の冬を知っておいででしたら某の方からわざわざ言うようなこともないでしょう。しいて言うなら草鞋わらじは予備を用意しておいた方がいいということくらいでしょうか」

「ほう、草鞋の予備か。但馬街道とやらはそんなに険しい道なのか?」

「いえ、そうではなく途中の村々で入手できなかったときのためです。時期が時期ですから売ってなかったり、あってもふっかけられる恐れがありますからね」

 これに十兵衛はくくくと笑う。

「なるほど確かにな。さすがに裸足で冬山越えは俺もしたくはない」

 当時の基本的な履物である草鞋――これは現代のゴム底靴とは違い草を編んで作られているため履くたびに小石などで擦り切れてしまう実質消耗品であった。もちろん市中で履くだけならば数か月は持つが、これが旅に出て舗装されていない街道などを歩くと一日で駄目になってしまうことも珍しくはない。故に一般的な旅人はその日の宿場に着くたびに、くたびれかけた草鞋を新しいものに買い換えて旅を続けるのが普通であった。またその需要を見越して街道沿いの各宿場には多くの草履売りおよび草履職人が存在していた。

 しかしこの需要と供給のサイクルはあくまでオンシーズンだけの話である。オフシーズン、つまり真冬のような旅人の見込みがない時期に草鞋の在庫を抱えているところはそう多くはない。あっても文字通り足元を見られる恐れもある。先の時直の提案はそれを防ぐための、ちょっとした玄人の知恵だったというわけだ。

「それとこのあたりの物資は銀山関係者が採掘夫のために買い占めることがあるそうですからね。やはり予備は自前で用意しておいた方が無難でしょう」

「冬の山で『足りない』というのは致命傷になりかんからな。そのあたりは頼りにしているぞ」

 時直はいつもの感情に乏しい顔で「お任せください」と頷いた。

 その後幾つかの事項を確認したのち十兵衛たちは少し早いが横になることにした。二人は遠くに播磨灘の波音を聞きながら姫路一日目を終えた。


 翌日――姫路二日目、天気は晴れ。十兵衛と時直が宿を出たのは四つの鐘が鳴る頃(午前九時頃)だった。冬とはいえこの時刻になるともう日は十分に昇っており、穏やかな陽気に十兵衛も思わず気持ちよく伸びをした。

「ん……いい日和だ。もう少し早く出てもよかったかもな」

 二人が朝一で宿を出なかった理由は人通りの少ない時間に出歩いて目立つのを避けるためであった。しかし今日のこの気持ちのいい晴れ具合からすると別に気にしなくともよかっただろう。さすがに江戸や大阪とは比べるまでもないものの姫路もまた交通の要所にして一城の城下町である。大通りはすでに二人の男が歩いていても目立たないくらいには賑わっていた。

「それで今日は昨日話していた旅具を借りることのできる店に行くんだったな?」

「はい。店は町の北の方にございます」

 時直は人の流れに乗りながら店まで真っすぐ案内した。そこは看板こそ出ていなかったが笠や蓑といった旅装束を扱っている小さな店であった。時直はその敷居を馴染み顔で跨ぐ。

継八つぐはち殿、いるか?」

「いらっしゃいませ。おや、時直様ではありませんか。これはまたご無沙汰しております」

 店の奥で出迎えたのは背の曲がった気弱そうな初老の男であった。どうやらこの男が時直馴染みの店主のようだ。

「うむ、そちらも元気そうで何よりだ。ところで早速で悪いのだがいつも通り山越えの装備を頼みたい。私とこちらのお方、二人分を見繕ってくれるか?」

「山越え……生野の銀山までですか?」

 店主は十兵衛の方をちらと見てそう言った。おそらく十兵衛を銀山で一攫千金を狙う牢人か何かだと思い、時直がそこまでの案内役を頼まれたのだと考えたのだろう。だがそれを時直は訂正する。

「いや違う。生野までではなく、その先の豊岡まで行きたいんだ」

「なんと但馬まで!?この時期に但馬を目指すとは、また酔狂なことで……!」

 驚き、そして難色を示す店主・継八。この反応について時直は十兵衛に軽く耳打ちで説明をした。

「生野の銀山を越えたあたりから雪がひどくなるんです。それこそ普通の人は近づかないほどにね」

 時直が言っているのはいわゆる『日本海側は雪が降りやすい』という気象的な法則のことであった。この時代に現代のような気象学があったわけではなかったが、彼らは経験則としてそのことを知っていたのだ。

「だが例年通りならそろそろ雪解けも始まる頃だろう。それとも今年は天候が悪いのか?」

「いえ、そこはあまり変わりありませんが……。ですが今でも寒い日は大雪になることも珍しくないと聞いております。せめて半月ほど待ってはいかがでしょうか?」

 やはりあの地方の雪を知る者にとってこの時期の山越えはあまり推奨できるものではないようだ。しかしそれは時直も承知の上。そこも踏まえて改めて店主に頼み込む。

「継八殿。私は但馬の出だ。あのあたりの雪がひどいことは知っている。だがどうしても向かわなければならないんだ。すまないがいつものように見繕ってくれるか?」

 店主は変わらず渋い顔をしていたが、他ならぬ時直からの依頼ということで最後にため息を一つして折れた。

「はぁ、わかりました。今すぐ用意いたしますので少々お待ちください」

「うむ。すまないな、急な話で」

「いえいえ。もう慣れましたから」

 その言葉通り店主は無駄のない動きで二人の体格に見合った冬山装備を畳の上に並べていった。


 時直馴染みの旅具店の店主・継八。彼は時直の依頼通り但馬の冬山を越えられるだけの装備を並べていく。笠や蓑は当然のこと、脚絆や皮足袋。また何も言わずとも草鞋の予備も二足ずつ用意してくれた。

「こんなところでよろしかったでしょうか?」

「さすがだな。ここで着ていっても構わないか?」

「どうぞどうぞ。お連れ様も荷物はこちらにおいてくださいませ」

「ん。ではお言葉に甘えよう」

 こうして十兵衛と時直は用意された冬山装備を着込んでいく。とここで十兵衛に嬉しい誤算が起きた。

「ほぉ、これは……!」

 思いがけず感嘆の声を上げる十兵衛。

「何か問題でもありましたか、十兵衛様?」

「いや、問題はない。むしろ逆だ。想像以上の質に驚いた。さすがは時直殿が贔屓にしているだけのことはある!」

 十兵衛の嬉しい誤算。それは用意された旅具が軒並み高品質だったことだ。

 それらは保温や防風は言うまでもなく完璧で、それでいて動きを阻害しないだけの柔軟性も残してあった。特に蓑や皮足袋は硬くて無駄に肌をこするような粗悪なものも多い中、それらはまるで長年愛用していたかのように体に馴染んでいた。

「驚いたな。蓑や脚絆でこれほどまでの性能の差がでるとは……」

「それは何より。では装備はこれら一式でよろしかったですか?」

「構わぬ、が……しかしこれほどの一品だと借りるのではなく買い取ってしまいたくなるな」

 但馬の雪がどれほどかは知らないが柳生庄もまたそれなりに雪の積もる地域である。この冬山装備があればきっと里での仕事も楽になることだろう。

 しかしこれに時直は同意をしつつもそれは無理だろうと苦笑した。

「お気持ちはわかりますが結構な値段ですよ?」

「ほう、いくらほどだ?」

「全部合わせればざっとこれほどかと……」

 時直が手で数字を表すと十兵衛は思わず目を丸くした。

「それはなかなかだな。まぁ納得できる額でもあるが……ん?では借り賃はどのくらいなのだ?借りてそのまま持っていかれることもあるだろうに」

「ええ。ですから今申し上げた額が借り賃なんですよ。借りるときに購入するのと同額の金を預け、返却するときに返却料としてその一部を返してくれるのがこの店の仕組みです」

「なるほど。戻ってこなかったら売ったとみなすというわけか。よくできている」

「まったくです。特にこのあたりは銀山があるせいか羽振りがよかったり、あるいはそう見せたがる人も多いそうですからね。まったく上手い商売ですよ」

 時直がからかうようにそう言って店主を見ると、彼は「いやぁ勘弁してくださいませ」と言って少し気恥ずかしそうに頭を掻いた。どうやら気弱そうな外見の割に商魂は逞しいようだ。

「まぁだからこそこれだけの品を実質格安で使うことができるのですがね」

「そうだな。今は素直にこの恩恵にあずかろうか。では店主、これを借りていくぞ」

「はい、ご契約ありがとうございます。道中の無事を心よりお祈りいたします」

 こうして十兵衛たちは冬の山を越えるだけの装備を手に入れて店を出た。


 冬山越えの装備を整えて継八の店を出た十兵衛たち。これで準備は万端となったわけだが、通りに出た時直は少し困ったような顔をして空を見上げた。

「さて、これからいかがいたしましょうか?」

 時直がそう言ったのは時刻がまだ九つの鐘が鳴ったばかり(午前十一時ごろ)だったからだ。

「思ったよりも早く準備ができてしまいましたね……」

 いくら冬とはいえ日が落ちるまでにはまだ五時間以上はある。仮にのんびりと昼食を食べたとしても退屈の上にさらに退屈を乗せるくらいの時間は残っていた。だからこそ時直はここで姫路を出るという選択肢を提示した。

「半端な時間ですがもう出立いたしましょうか?」

「出立……。まぁここでできることはもうほとんどないわけだからその案に異論はないが、こんな時間に出て宿場はあるのか?」

 準備が整った以上姫路を出ること自体には十兵衛も異論はない。問題は宿泊する場所である。当たり前だが朝晩まだまだ冷えるこの時期に野宿などはできない。街道というからにはその道中には宿場があるのだろうが、十兵衛はこのあたりの地理に明るくない。それに対し時直はそこは問題ないと返した。

「宿場ならもちろんありますし、それに宿場でなくとも交渉次第で一泊できる村は結構ありますよ。いわゆる隠れ宿というやつです。このあたりは生野の銀山を目指す奴らがうろちょろしてますからね」

「それは……俺の立場からすれば何とも言えないやつだな」

 苦笑する十兵衛。隠れ宿とは御公儀からの許可を得ずに旅人を泊めている宿のことで、それらは厳密に言えば違法である。今更口うるさく言うつもりはないが一応安全かどうかは確認する。

「それはうっかり同心らにしょっ引かれたりはしないだろうな?」

「大丈夫ですよ。生野周りに関してはお上もあまり手を出してはこないんです。もちろん目に見えて問題が起こったら迅速に介入してくるんですがね」

「ならいいが……。それで今出ればどのあたりで宿を取ることになるんだ?」

 時直は「そうですね……」と言って頭の中で旅程を考える。

「少し速足で歩けば福田村という村で一泊できるはずです。ちょうど道が険しくなる手前の村ですので明日以降の具合もよろしいかと」

「福田村か……」

 十兵衛は空を見上げた。天気は晴天で、やはり日はまだまだ高い。

(ならば少しでも距離を稼いでおくのも一つの手か……)

「わかった。行けるところまで行ってみようか」

 その後十兵衛と時直は途中で食べる用の団子を買ってから、半端な時間であったものの姫路の町を後にしたのであった。

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