柳十兵衛 出石へと向かう 2

「出航するぞ!全員位置につけ!」

 十兵衛らが乗り込んでしばらくすると船頭の吉春は出航の号令を出した。それに合わせて船員たちが帆を張り、艪を掻き、船はゆっくりと動き出す。やがて風を捉えると帆はきれいな弧を描き船は一気に速度を上げた。

「おぉ。いよいよだな」

 船倉には艪を通すための穴がありそこから少しばかり外の様子を見ることができた。覗き込めば早朝の大坂の町が右手方向に流れて行く。

 以前同じように船に乗ったときは目的地が尾張だったため大坂湾沿岸を時計回りに南下したが、今回は西へと向かうため反時計回りで北部沿岸に沿って進む。目的地は播磨国・姫路。距離にして約二十里、おおよそ80キロメートルの船旅である。

 無事に出航できたと悟った十兵衛たちは船倉の隅でふぅと安堵のため息をついた。

「問題なく出航できたようだな。さて、到着は何時頃になるのだろうか?」

「某も船には詳しくないので何とも……。ただこの船は姫路まで直通らしいので他の船よりは早めに着けるでしょうね」

 大坂から姫路までは大坂湾を西に進み、本州と淡路島との境である明石海峡を抜け播磨灘に入るというルートで進む。その間通過する沿岸部には神戸や明石、播磨といった港町があったが今回十兵衛たちが乗る船はそれらには寄らずに姫路へと直行するそうだ。

「余計な港に泊まらないのはありがたい。与六郎はいい仕事をしてくれたな。あとは天候だが……」

 十兵衛がそうつぶやいた時、船はちょうど冬の高波に揺られて横に30度ほど傾いた。十兵衛と時直は思わず近くの柱に手を回す。

「……これは大丈夫なのか?よもや転覆などしないだろな?」

「……おそらくは。まぁ他の船員を見るに問題はないみたいですね」

 見れば船員たちも一瞬近くの柱などに寄りかかりはしたものの、すぐに何事もなかったかのような顔で業務に戻っていく。

「さすがは本職ですな。この程度の波なら日常茶飯事という顔だ」

 時直がそう言うと船はまた逆に30度ほど傾いた。二人は再度ガッと柱を掴み、その後顔を見合わせ苦笑した。

「やれやれ、慣れとはすごいな。俺は山育ちだからかこれに慣れる日が来るとは到底思えん」

「ははは。私も但馬の山奥で生まれましたからな。お気持ちはわかります」

 そう返した時直に十兵衛は「ほう」と反応した。そういえばこの時直という男について自分はまだほとんど何も知らない。これは彼を知る絶好の機会だと十兵衛は腰を据えて、時直から身の上話を引き出してみることにした。

「ほう、但馬に詳しいとは聞いていたが出身だったのか。どのあたりだ?まさか出石のあたりか?」

「いえ、私は尾ノ宮村……と言ってもわかりませんよね。但馬国の西の山奥にある村です。ちなみに出石は東にありますので真逆ですね。まぁとにかく何もない、雪ばかり降る村でしたよ」

「興味深いな。俺はあのあたりはよく知らないから詳しく訊いてもいいか?」

「面白い話ではありませんよ?」

 そう言いつつ時直は仏頂面に少しばかり郷愁をにじませながら話を続けた。


「話すといっても何もない村でしたからね……。代り映えのない畑仕事に何もできなくなる冬の雪。改めて振り返っても本当に何もない……。ただ生野の銀山が近かったためか妙に外の話は入ってきましたな。特にあの頃はまだ各地に戦火が灯っている頃でしたからね。やれどこぞで誰かが蜂起しただとか、戦で手柄を立てただとか。そして幼い頃の私はそんな噂話に惹かれましてね、十二の時に村を飛び出したんですよ」

「十二の時に!?それはまた……意外というか……」

 十兵衛の前に座る仏頂面の男はそんな無茶をするような男には到底見えなかった。そんな視線を察してか時直は少し恥ずかしそうに笑う。

「ふふふ。私にも若い頃はあったんです。ただあの頃は本当に若すぎた。伝手も何もない子供でしたからね、当然戦仕事なんぞできるはずもなく、仕方なく山道の案内なんぞをして日銭を稼いでいたというわけです」

「それが但馬街道ですか?」

「そこ以外もいろいろとですよ。当時はまだどの街道も整備がおろそかで案内役の需要がありましたからな。雪なんぞが降れば特に」

「なるほど。年季の入った案内人なんですな」

「ええ。ですので向こうでの案内はお任せください」

 そう言うと時直はにやりと笑った。それは自負心か、あるいは地元に戻ることから気が大きくなっているのかもしれない。

(こやつ、こんな表情もするのだな)

 そしてまた船はぐらんと揺れた。


 それから一刻ほどが経った。相変わらず船旅は順調で、時折船体が大きく傾くこともあったがこの頃にはもう十兵衛らも慣れたもので、ほんの少し尻に力を入れて踏ん張ればなんてことないと学んでいた。しいて不満を述べるなら船倉から出ることができないため世間話くらいしかすることがないということだろうか。

 というわけで十兵衛と時直は船倉の片隅でだらだらと当たり障りのない世間話をしていた。船から見える景色。幼少期の思い出。好きな食べ物。訪れた町や村……。そんなことをしているうちに話題は船の積み荷のことになった。

「そういえば聞くのを忘れていたが、この船は何を運んでいるんだろうな?何やら魚の干物のような匂いがしているが……」

 十兵衛は今更ながら船倉を見渡した。船は百石ほどの弁才船。その船倉には粗雑な麻袋が山のように積まれており、またその中からは十兵衛の言う通り乾いた魚のような匂いがした。食用の干物にしては少々扱いが雑なので不思議に思っていると時直がそれについて答えてくれた。

「ああ、あれは肥料用の干物ですよ」

「肥料用?」

「ええ。油を搾り取った後の鰯を乾かしたもので、砕いて粉末にすることで綿花のいい肥料になるそうです。数年前に大坂の永代浜の一画に干場が出来て以降、こうしてまとまった量が取引されるようになったそうです」

「なにっ!?ということはこれが全部それだというのか!?」

 生物に由来する肥料は古来よりあり十兵衛もその存在は知ってはいたが、それにしても量が量である。船は中型の弁才船であったが満杯というほどではない。それでも積まれた麻袋は米俵換算で150個以上はあった。

「これ全部が肥料か……。もちろんどこぞの商家が小売りするんだろうが、それにしても一体何畝分になるのか見当もつかないぞ……」

「こういった肥料は金で買えることから『金肥』とも呼ばれております。保存も流通も簡単なのでこれからどんどん普及していくと言われておりますよ」

「ほぉ。俺の知らない所でもいろいろと進歩しているんだな」

 思わぬところで時代の進歩を感じる十兵衛。そんな折、船員の大きな声が十兵衛らの耳に入った。

「気を付けろー!明石の大門に入るぞー!」

「……時直殿、あれは?」

「明石の大門……。明石と淡路との間にある海峡(明石海峡)に入るということでしょうな。お気を付けなさいませ、十兵衛様。明石の海峡は尋常じゃなく潮が早いと聞いております」

 間もなくして時直の忠告を裏付けるかのように、これまでの比ではないほどに船が揺れ始めた。


 明石海峡。現在でいう本州と淡路島との間にある海峡で幅は平均4キロメートル、最大水深も130メートルほどしかない非常に狭い海峡である。また入り組んだ地形のためその潮流は早く平均時速は10キロメートル以上、大潮時には13キロメートルを超えるとされている。ほかにも渦潮ができたりサメが生息していたりととにかく危険な海域であった。

 そして今そんな海域に十兵衛たちの乗る船が入ったわけだが……。

(こ、これは想像以上だな……!俺の知っている海とは大違いだ……!)

 船倉の柱にしがみつきながら十兵衛は上下左右の不規則な揺れに必死に耐えていた。船に関しては全くの素人だがそれでも船が並々ならぬ力でぐいぐいと流されていることが分かった。

(潮の流れとはこれほどまでに強いものなのか!?くうっ、こんなところ人が通る道ではないだろう!?)

 船は中型船であったが明石の海流の前ではまるで急流に流される一枚の落ち葉のようであった。なす術もなく右に左に揺れる。十兵衛が思わずひれ伏しそうになるくらいの大自然の傍若無人さ。しかしその揺れはあるところより急に治まった。

 急流を抜けたのだろうか?いや、違う。揺れ自体は治まったが船底からはまだ力強い潮の流れを感じる。十兵衛は思わず隣の時直に尋ねた。

「これは……どうしたんでしょうか……?」

「おそらくですが潮をつかまえたのでしょう。聞いた話ですがこの海域で難破するのは潮の流れに逆らうせいであって、流れを読み切りそれに乗れば安定して通り抜けられるそうです。もちろん簡単なことではないですが、さすがは熟練の船乗りといったところでしょうか」

 時直の言った通り海流に乗った船は気持ちいいくらいにぐんぐんと進んでいく。そこからしばらくすると甲板から「大門を超えたぞー」という勝どきが聞こえてきた。これにほっと胸をなでおろす十兵衛。この明石海峡が今回の航路一の難所だったためそこを抜けた今、あとはもう姫路まで一直線である。

 そんな中、艪搔き用の隙間から外を見ていた時直が十兵衛を呼ぶ。

「十兵衛様。今ちょうど明石の町が見えますよ」

「明石か。初めて見るな……」

 時直に譲ってもらい外を覗くと、海岸沿いによく発展した街並みと真新しい明石城が目に入った。


 播磨国・明石。現在で言う兵庫県明石市を中心とした町で現在の領主は小笠原忠真ただざねが務めている。

「ほう。思ったよりも栄えているようだな」

 明石は以前より交通の要所であったが、忠真入封以降は新たに明石城が建築されたりと改めて開発が進められていた。

(そういえば山中屋との縁も明石がきっかけだったな……)

 開発が進められている明石。町が発達するとその治安維持のために武力が必要となってくる。そこで呼ばれた者の一人に、以前興福寺で出会った槍の名手・高田吉次がいた。彼経由で山中屋に柳生庄に三厳が帰ってきていることを知られ、そしてそこから山中屋との縁が始まったのであった。

(そして今こうして俺が明石の町を眺める、か。縁とはわからんもんだな)

 運命の妙に感じ入る十兵衛。そこに時直が割って入る。

「そういえば十兵衛様はあの柳生新陰流の宗家であらせられるのですよね?」

「ああそうだ。しかしなぜ急にそんな話を?」

 十兵衛が尋ねると時直は遠い明石の町を指差した。

「私も噂で聞いた程度なのですが、実は今明石にはあの宮本武蔵様もいらっしゃるそうですよ」

「なに、それは本当か……!」

 時直から出た意外な名前に十兵衛は驚いた。

 宮本武蔵。江戸時代初期の著名な剣豪で、巌流島での佐々木小次郎との決闘などで知られるあの武蔵である。宗矩のように幕府中枢にまで出世することはなかったが、その武名と放浪の旅で培った知識から多くの大名に一目置かれている人物であった。

 当然十兵衛も一人の剣豪としてぜひ一度相対してみたいと思っていた相手である。

「なんでも町の整備に一役買ったとかなんとか。いかがですか?やはり会ってみたいものですか?」

「それは……」

 正直に言えば今すぐ船頭・吉春に掛け合って船を下ろしてほしかった。だがそれを選ぶほど十兵衛も子供ではない。十兵衛はぐっとこらえてから残念そうに首を振った。

「一剣豪としてはお会いしてみたくはあります。しかし明石には停まらない以上どうしようもありませんよ。まぁいつか出会う機会もあるでしょう」

 そう言った十兵衛の視界の横を明石の町が過ぎ去っていった。姫路まではもう目と鼻の先であった。

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