土井利勝 憂慮する(第六話)

 寛永四年(1627年)一月中旬。年明けの行事や関係各所への挨拶がようやく一段落した頃、老中・酒井讃岐守忠勝は案内役の坊主の先導で江戸城内の廊下を歩いていた。

 忠勝はしんと冷える廊下を嫌うかように足早に進んでいたが、ふと先に見慣れた顔を見つけて坊主に待つようにと指示を出す。

「伊豆守殿、奇遇ですな。いかがなされたのですか、このようなところで?」

「讃岐守様。いえ、少し人を待っているところでして……」

 忠勝が見つけたのは伊豆守こと松平信綱のぶつなであった。

 松平信綱。御年数えで二十一歳と若輩ながら家光の御小姓組番頭を務め、官位も従五位下・伊豆守を叙任している若き俊英である。その優れた機才は噂に名高く、官位の伊豆守とかけて『知恵伊豆ちえいず(知恵いずる)』とも称されており、ゆくゆくは老中入りも間違いないとまで言われている。(のち寛永九年・1632年に信綱は老中格となる。)

 そんな信綱は人を待っているらしく、江戸城内の廊下の端で坊主と共に所在なさげに立っていた。こんな場所で彼を待たせるとはいったい何者なのだろうと忠勝が思っていると意外な顔がそこにやってくる。

「お待たせしました、伊豆守殿。おや、讃岐守殿も御一緒でしたか」

「これはこれは、大炊頭おおいのかみ様!?」

 忠勝と信綱の前に現れたのは江戸最高権力者の一人、老中・土井大炊頭利勝としかつであった。

「伊豆守殿を待たせていたのは貴君だったのですか?」

「ええ。彼にも『例の会合』に参加してもらおうと思いまして。讃岐守殿もこれから向かわれるのでしょう?『例の会合』に」

「それはその通りですが大丈夫なのですか?そんな勝手……」

「もちろん話は通してありますよ。危機感を持つ人が増えるのならばと金地院こんちいん殿も承認してくださいました。さぁそれでは改めて向かいましょうか」

 こうして彼らは合流して歩き出し、やがて江戸城内の一室へとたどり着いた。

 一行が入室すると中ではすでに数人が待機しており、その一番の上座には高齢の僧が瞑想しているかのように目を閉じたまま座していた。利勝は迷わずその隣に座り忠勝もそれに続く。逆に信綱は一番の下座に腰を下ろした。

 腰を落ち着けた利勝がざっと見渡すと事前に聞かされていた参加者はもう全員そろっているようだった。

「私たちが最後だったようですな。待たせてしまいましたかな?」

 それに隣の高齢の僧、金地院崇伝すうでんが答える。

「いえ、さほどは。讃岐守らと一緒でしたか」

「廊下で偶然出会いましてね。以前お話しした伊豆守も連れてまいりました。覚えておいでですよね?」

「白眉と評判の御小姓組番頭ですな。結構。若い世代に優秀な者が現れるのはいいことです。……さて、ではそろそろ始めましょうか」

 崇伝はちらと自分の後ろに控えさせていた武士を見た。おそらく今日の進行役なのだろう。彼は一礼すると低い落ち着いた声で会合の開始を宣言した。

「本日はお忙しい中お集まりいただきありがたい限りにございます。では早速ですが本題に入らさせていただきます。議題は御周知のとおり、朝廷が各種法度を無視して幾人かの僧に紫衣しえ着用の勅許をお出しになられた件についてです」


 現在江戸御公儀はちょっとした緊張状態にあった。原因は昨年末のこと、とある報告――『現天皇・後水尾ごみずのお天皇が法令を無視して紫衣の着用許可を出した』という話が江戸に入ってきたためである。

 この報告は文章だけを見れば単に色の付いた法衣を着る許可を出しただけの話に聞こえるだろう。だが事はそう単純ではない。ここでいう『紫衣』とは僧侶の最高権威のことであり、それを天皇が無許可で複数の僧に与えたのだ。

 無許可で他者に権威を与える。これは朝廷の権威を背景にした支配体系を敷いている徳川政権にとっては、その根底を覆しかねないほどの大事件であった。そのためこの報告が入るや利勝らはすぐさま真偽を確かめるべく家臣らを京に派遣した。

 しかし折悪く年の瀬の忙しい時期であり、また江戸と京都という距離である。なかなか思うように情報を集められず、年を越してようやくこれが事実であると裏が取れたのだ。

「……では間違いないのだな?」

「はい。複数筋からの証言を精査した結果、やはり朝廷が紫衣着用の勅許を出したのは間違いない模様です。京周辺の家臣らには引き続きの情報収集および関係者の洗い出しをさせております」

「くぅ……厄介なことになったものだ……」

 進行役の報告に元から重かった部屋の雰囲気はより一層重苦しいものに変わった。

 これまではまだ誰かの勘違いという可能性もあった。だがもうそんな言い訳は通用しない。なにせ明日いきなり「私こそが真に認められた征夷大将軍である」と名乗り出る者が現れないとも限らないのだ。あるいはもうすでに朝廷の庇護を受けたどこかの誰かが挙兵しているかもしれない。これまで必死に守ってきた太平の世が一夜で消えてしまうかもしれない、その瀬戸際に彼らは立たされていた。

 夢であってほしかった。部屋に集まった皆がそう思ったことだろう。しかし彼らにも政治の中枢にいるという自負がある。願うだけでは平和などやってこない。彼らは重たい頭を振り問題解決のために話し合いを始めたのであった。


「……だが今のところ勅許を受けたのは僧侶のみで、武士あるいはそれに準ずる者に官位が与えられたという報告はないのだろう?」

「はい。現在無許可で紫衣を与えられた者は三名のみ。これはおそらく調査を進めることで増えるでしょうが、武家官位に関してはそれらしき報告はございません」

「不幸中の幸いと言うやつですね。あるいは向こうは初めから紫衣の勅許のみしか出すつもりがなかったのか……」

「それは楽観視しすぎではないでしょうか?この件に対してこちらがどう動くのか、こちらの出方をうかがっているという可能性もありますよ」

「どちらにせよ法度違反は揺るぎのない事実!勅許の撤回と関係者の処罰は絶対でしょう!」

「しかし下手に処罰しようとすれば逆に反発を招くのではないだろうか?ここは一度申し開きの場を用意するべきだろう」

「それこそ向こうの思う壺だ!法度違反を交渉材料にさせてどうする!?厳格な処分こそが将来のためになるというものだ!」

 喧々囂々、様々な意見が交わされる。しかし前例のない事件なだけに意見はなかなかまとまりそうになかった。


 会合に参加していた者は皆、今回の件が最悪の場合現政権を崩壊させかねないことを理解していた。

 しかしそれが実際に起こりうるかという点については意見が分かれていた。ある者はこれは政権発足以来最大の危機と称し朝廷に対して断固とした態度を取るべきだと主張し、また別の者は下手に追い詰めれば反発を招くため交渉による解決を目指すべきだと主張した。

 そんな中最も過激な解決策を主張したのは意外にも最年長の崇伝であった。

「こうなれば帝には退位していただき、上様の血縁であらせられる女一宮おんないちのみや様を新たな帝とすることも考える必要がありまするな」

 これを聞いた他の参加者たちは皆一様にぎょっとした。

 女一宮とは後水尾天皇と秀忠の五女・和子との間に生まれた女子のことで、現将軍・家光の姪に当たる人物である。なお年齢は今年数えで五つになる。

「無茶な!?女一宮様はまだ御年五つにございまするよ!?」

 そのあまりの極端な案に驚きの声が上がるが崇伝はそれを無視して熱弁する。

「それがどうしたというのだ!?法度違反は亡国にも通ずる!権威を悪用され今の太平の世がひっくり返されるよりははるかにましであろう!」

 まもなく六十とは思えぬ鋭い眼光で睨みつける崇伝。こうなってくると若い部下たちはすっかり縮こまって反論できなくなる。それを横で見ていた利勝は(やれやれ。損な役回りだな……)と思いながらやんわりと崇伝の主張を遮った。

「まぁとりあえず落ち着きましょう、金地院殿。いくらなんでもその案は性急すぎです」

「何を言うか、大炊頭殿!これは太平の世を脅かす所業であるぞ!ならば迅速果断な対処こそが必要なのだ!」

「わかっておりますとも。私も早期の鎮火には異論ありません。しかし鎮火を急いで余計な延焼を招いては意味がない」

「ほう。では大炊頭殿はどのような解決法を考えておられるのかな?」

 ここで利勝は参加者たちの視線が自分に集中していることに気付いた。皆が私の意見を待っている。

(……やられたか)

 利勝はあきらめたようにため息をついてから胸中の案を語り始めた。


「……まずは我々が最も恐れていることを、阻止すべきことを確認しましょう。それは朝廷から正式に叙任された征夷大将軍や太政大臣が現れ、自らが正当な武家の棟梁だと主張してくることです。そしてそのためには何が必要か。まぁいろいろと必要なものはあるでしょうが、まず何より持っておきたいのは兵力でしょう。仮に名乗ったところで我々に武力で制圧されては意味がない。つまり我々が恐れなければならないことは朝廷に兵力が集まることですが、幸い聞けばそのような兆候はない様子。そうですな、讃岐守殿?」

 急に話を振られてどきりとする忠勝であったが咳払いを一つして気を静めると利勝の言葉にうなずいた。

「はい。私の手の者が調査をした結果、朝廷・京周辺に明確な兵力およびそれらを集めている様子は見受けられませんでした。どこかと連絡を取り合っている形跡もございません」

「聞いての通りです。ならば我々がまずしなければならないことは謀反を起こしかねない国に監視を送り挙兵させないことでしょう。それさえ押さえれば朝廷が我々の現体制を崩壊させることはできますまい。その後勅許の取り消しを求め、最後に関わった者たちを処分するというのが最も穏便な解決法でしょう」

 利勝の案を聞いた他の参加者たちは「まぁそれが妥当か……」「冷静な意見。さすがは大炊頭様だ」と肯定的な感想を漏らす。

 しかし当の利勝は内心で言いようのない気持ち悪さを感じていた。

(あぁまったく、上手く乗せられてしまった自分が情けない……!)

 利勝は自分がこの案を『言わされた』ことに気付いていた。その黒幕は隣でわざとらしく眉間にしわを寄せている崇伝その人である。彼はあえて天皇の退位という無理難題を主張することで利勝に穏便かつ現実的な解決案を出させたのだ。

(これくらいの対処法など金地院殿ならばすぐに見つけていたはず。だがあえて自分からは言わずに私に言わせた。まったく、いったい何を考えていらっしゃるのだ?)

 崇伝の意図が見えずに不安になる利勝。しかしこの紫衣事件も手を抜くわけにはいかない。結局利勝は自らが思う最善案を主張し、最終的にそれはそのまま採用され幕府の方針となった。

「では大炊頭様の案通り駿府に配下の者を向かわせます。挙兵の兆候があればすぐに報告いたします」

「私も西国を監視している者に連絡の頻度を上げるようにと指示を出しましょう」

「尾張の方はお任せください。すでに何人か潜り込ませております故怪しい動きを見逃すことはないでしょう」

「うむ。皆の者、頼んだぞ。私も所司代や伝奏から密に情報を集めておこう」

 こうして利勝の不安とは裏腹に、江戸御公儀は事態収束に向けて一丸となって動き出したのであった。


 会合後、利勝はその意図を知るために崇伝を呼び止めようとした。

 しかし当の崇伝はそれをわかっていたかのように、閉会するや否やするすると部屋を出ていきどこかに消えてしまった。残された利勝は座したまま、これでよかったのかと自問する。

(……これで本当によかったのだろうか。確かに朝廷に対しては的確な一手を打てたと思う。しかし金地院殿のあの態度、彼には別の絵図が見えているようだ。いったい何が目的だ?私は何を見逃している?)

 しかしこれに答えてくれる者はいない。気付けば部屋には利勝一人になっており、部屋の外からは案内役の坊主が心配そうに中をのぞき込んでいた。

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