柳生利厳 天狗薬騒動を報告す(第五話 終)
師走某日。場所は尾張柳生屋敷の奥座敷。そこでは家長である柳生利厳が新田久助に幾つかの報告をしているところであった。
「……以上が天狗薬騒動の顛末となります」
利厳が一区切りできるところまで報告し終えると聞いていた久助は喉の奥でクックと笑った。
「どうやら清厳殿はなかなかの大立ち回りをしたようですな」
報告内ではまるで戦国時代の英雄譚のように清厳と牢人とが一戦交えていた。楽しげに笑う久助に利厳は少し恥ずかしそうにうつむいた。
「もっとうまくやれたことでしょうに、我が愚息ながらお恥ずかしい限りです」
「いやいや、面を上げてください、利厳殿。殿(久助の主・山根藤兵衛)もうまい具合に事が運んでいるとおっしゃっておりましたよ」
「ですが……」
なおも卑下しようとした利厳であったがそれを久助は手で止めた。
「気遣いでもなんでもなく実際よくやったと思われますよ。あれ以降不要な牢人の移動が目に見えて少なくなりました。そりゃあ多少運がよかったことは否めませんが、それにしても十二分の成果です」
天狗薬の一件後、宮宿周辺では門之助らの主導で先のような『牢人狩り』の噂が流された。
『御公儀はよほど牢人が嫌いらしい。また新たに牢人狩りを始めたそうだ』
『そのために牢人を集めるような噂を流したんだってな』
『天狗薬なる薬の噂もその一つだったそうだ。まったく容赦のないことだ』
これに清厳と定春の一戦を見ていた野次馬の噂も加わった。
『本当に見たんだ!名前は忘れたが名古屋の殿様の家来が牢人を切り伏せているところを!あれはとんでもない腕前だった。おそらく十人がかりで相手しても勝てないだろうよ』
そんなこんなで噂は(多少の尾ひれをつけつつ)急速に広まり、結果尾張周辺の牢人たちはいつ御公儀の手の者が自分たちを捕まえに来るのかと戦々恐々としているらしい。気の早い者はさっさと駿府や大坂の方に逃げ出したという話すらある。尾張からしてみれば偶然にも牢人除けのいいお札を手に入れたようなもので、久助の言った通り清厳らができる範囲ではかなり有能な結果と言えた。
「ではこの件はこれで一件落着ということでしょうか?」
「経過の観察は必要でしょうが、とりあえずは放っておいてもよろしいかと。他の噂との比較検討もしなければなりませんしね」
「比較……『
利厳がそう尋ねると久助の表情が少しだけ険しいものに変わった。
『件の噂』――『江戸が尾張を貶めるために裏で幾つもの策を弄している』。それが現在尾張御公儀内でまことしやかに囁かれている噂であった。
現在この噂は噂の域を出ていない。明確な証拠があるわけでもないし、そもそも江戸と尾張の関係上このような噂が流れるのは今回が初めてではない。そのため「こんな噂、疑心暗鬼が生んだ幻覚だ」と言う者がいる一方で内容が内容だけにこの噂を真剣に憂いている家臣も少なくなかった。そして利厳や久助は後者に属していた。
「やはり天狗薬の噂も江戸の手によるものだったのでしょうか?」
天狗薬の噂――これもまた江戸からの搦め手ではないかと思われていた。それらしい噂を流して職に困っている牢人たちを尾張に集め、それを謀反の兆しとして追求する。あるいは集まった牢人が事件を起こすだけでも統治をおろそかにしたと糾弾することもできる。尾張にとっては百害あって一利なしの噂だ。得する者がいるとすればそれは唯一江戸ばかりである。
ただこれは回りくどい上に即効性もないからと懐疑的な意見も多かった。仮に本当に江戸の仕業だったとしても決して本命の策ではないだろう。故にその調査はあまり重要だとはみなされず、それが巡り巡って清厳の元へと回ってきたというわけだ。
「現状では何とも言えませんね。清厳殿の調査でもそれらしい報告はなされませんでしたし、噂の内容から自然発生したものであってもおかしくない」
「むぅ……左様ですか」
「そんな心配しなくても大丈夫ですよ。確かに本命の噂ではありませんでしたがそれで清厳殿の評価が落ちるということはありません」
久助は利厳が、今回の事件が要度の低いものだったために息子・清厳の手柄にならないことを危惧しているのだと思った。だが利厳はそうではないと首を振る。
「いえ、そこは気にしておりません。私が気に掛けているのは件の噂に江戸の叔父上らが関わっているのかどうかというところです」
「叔父上?……あぁ江戸の柳生家のことですか」
「ええ。例の伊賀の忍びも調査では無関係だと結論付けられましたが、それもどこまで信じていいものかと……」
今二人の話題に上がった伊賀の忍びとは江戸柳生・柳生三厳の側近である与六郎のことであった。
実は数十日前、この与六郎なる忍びが大坂の鴻池山中屋と密かに協定を結び、彼らの所有する廻船に乗船して尾張・宮宿までやってきていたのだ。さらに調べたところによるとこれには柳生三厳本人も乗り込んでいたらしい。三厳は伊勢・津の港で下船したとのことだったが件の噂のこともあって尾張御公儀内は少しばかりざわついた。
当然早急な調査が行われた結果、三厳と与六郎が廻船に乗っていた理由は山中屋の船を賊から守るためであり江戸の暗躍とは無関係であるという結論が出された。この報告を受けた利厳はほっと胸をなでおろしつつ、(いや、叔父上ならば裏の一つや二つ仕込んでいるやもしれない)と以後もひとり気を揉んでいたのであった。
「うぅん……。私はその調査には直接かかわっておりませんので何とも言い難いのですが、関係ないという結果が出たのなら無関係なのではないでしょうか?」
「はぁ。私もそうだと思いたいのですが、もしこの尾張の地で柳生の血の者が何か狼藉を働いたならば私は殿に顔向けできなくなってしまいますので……」
「それは……まぁ不運な関係ではありますがそれに関しては江戸も同じこと。そうそう不都合なことなど起こしやしませんし、あまり考えすぎてもかえって毒ですよ」
「それはわかってはいるのですが……」
柳生家は宗矩と利厳が、それぞれ対立する家光と義直を主君としている。このような同族の者が対立する家に仕えるということは戦国時代ならばよく見られたことであったが昨今ではかなり珍しい。
加えて両者とも剣術指南役という政治的地位は低いものの名誉ある職に就いている。これは言い換えれば江戸と尾張との間で不祥事が起こったとき真っ先に疑われるような地位であり、そしてその疑惑の目から身を守れるほどの地位ではないということだ。
幸いにも利厳は政治的な活動からは距離を置いていたため御公儀内での風当たりはさほど強くはないが、それもいつまで続くかはわからない。
(早急に我が家の地位を安定させる手を思いつかねばならぬな……)
「ん?どうかなされましたか、利厳殿?」
「いえ、何も。世知辛い時代になってしまいましたなと思いましてね」
「まったくですな。ですが江戸もなんだかんだで安定してきた様子。しばらくは無理に地位を固めようと動くこともないでしょう」
「そう願いたいものですな」
その後二三近況を報告し合って利厳と久助の会合はお開きとなった。
――――――――――――――――――――――――――――――
さて、先に話したように現在尾張御公儀内には一つの不穏な噂があった。彼らが俗に『件の噂』と称する、『江戸御公儀が尾張を貶めるために幾つもの策を弄している』という噂である。
それに対する反応は様々で、ある者は「所詮は噂であり、たいしたことはないだろう」と強がり、またある者は「いや、江戸を舐めるべきではない」と危惧していた。
だがどのような考えの者であっても暗黙の内に共通している一つの考えがあった。それは江戸の搦め手はあくまで表沙汰にならない範囲でのものだろうという考えであった。
江戸と尾張の不仲の原因は三代将軍に誰がなるか、つまりは跡継ぎ争いが契機である。片や二代将軍・秀忠の長男である家光。片や初代・家康の実子・義直。どちらが跡を継いでもおかしくはなかったが最後は家康の采配で家光が三代将軍に選ばれ、そして将軍職に就いてからもう三年が経っていた。
未定だった頃や代替わりしてから間もなくの頃ならまだしも、ようやく政権運営を掴みかけてきたこの時期に江戸側が無理に手を打ってくるとは思えない。
故に江戸からの搦め手はせいぜい変な噂を流したり事務手続きをわざと遅らせるといった嫌がらせ程度のものに留まるだろうと尾張の者たちは予想していた。
しかしこの考えは甘かった。江戸の御公儀――正確には江戸御公儀内の一部強硬派は尾張に対してすでに多種多様な策を張り巡らしていた。
短期的な策。長期的な策。周囲の他の国を巻き込んだものや名古屋城下町を直接狙ったもの。本当に効果があるのかわからないようなものもあれば一歩間違えれば軍事的衝突も起こりかねないような策も進行されていた。利厳らは懐疑的であったが『天狗薬』の噂すら、(もちろん本命ではないものの)その計画の一つであった。
おそらくこのうち尾張側が把握しているのは三分の一にも満たないだろう。尾張の現状は想像以上に危機的状況にあった。
しかし幸いにもこれらの計画は現在すべて凍結されている。理由は江戸の黒幕たちに尾張なんぞに気を掛ける余裕がなくなったためであった。
寛永三年十二月。江戸御公儀は京に派遣していた内偵からの急報を受けた。
報告の内容は時の天皇・後水尾天皇が、御公儀が定めた法令に背き勝手に複数の高僧に紫衣着用の許可を与えているというものであった。紫衣とは高位の僧に与えられる法衣であり、その着用の許可を与えたということはその僧を権威ある者であると朝廷が認めたことと同義である。この報により江戸城内に激震が走った。
現代人の感覚からすればこの報は時の天皇が幕府に無許可で法衣を着る権利を与えただけに聞こえるかもしれない。しかし話はそう単純ではない。というのもそもそも現在の江戸幕府もまた朝廷からの権威の裏付けによって成立していたためだ。
本来戦国大名とは自由気ままに自らの地位や権威を主張するものである。そのような者たちを一律に支配するには武力だけでは足りようがない。征夷大将軍。『武家の棟梁』。その他多くの官職や位階制度。そういった権威ある上下関係を利用することで江戸幕府は安定した統治構造を作り、そしてその権威を頒布する朝廷を法で縛ることによりその安定を恒久化させようとしていた。
しかし今回後水尾天皇はその権威の発布を江戸に無許可で行った。これは幕府が思い描いている支配構造を破壊しかねないものである。
極端な例を挙げれば、もし彼らが尾張の義直や駿府の忠長に家光と同等の権威を与えたらどうなるだろうか?権威を与えられた彼らがそれぞれの地で「私こそが正当な後継者である」とでも宣言したらどうなるだろうか?
もしそうなれば江戸と彼らとの間で争いは避けられず、またその隙をついて燻っていた牢人や野心ある他大名が新たな勢力として名乗りを上げるだろう。そうなれば長き戦乱の末に手に入れた泰平の世界はすぐに戦国の世へと逆戻りしてしまう。
江戸御公儀としては(保身という意味でも)そんなもの到底認められるはずがない。こうして彼らは尾張その他勢力に対する干渉を中断し、朝廷の監視に全力を傾けざるを得なくなったというわけだ。
江戸時代初期における最も著名な幕府と朝廷の対立、いわゆる『
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます