柳新左衛門 天狗薬騒動を終える

 刀を納めた新左衛門はまず自分の周囲を確認する。周囲には呆然とする正通に興奮した野次馬たちが数人。そしてそれに紛れて門之助の家来・猿之助が立っていた。目が合うと猿之助はすすすと寄ってくる。

「新左衛門様。見事な腕前でした」

「たいしたことではない。それよりお主、いつから見ていた?」

「はい?お堂にいた時より監視しておりましたが……」

 これに新左衛門は「そうか」と言いつつ(また気配に気付けなかったな……)と自分の力不足を自覚した。やはり忍び対策は当面の問題となるのだろうか?

「いかがなされましたか、新左衛門様?」

「……いや、なんでもない。とにかく見ての通りだ。すまないがこちらは私が見ておくから宮宿まで行って報告と人手を連れてきてくれるか?」

「承知いたしました」

 一礼し駆けていく猿之助を見送ると新左衛門も早速後始末に取り掛かった。

 まずは定春を道の脇にまで運ぶ。足を掴み乱暴に引っ張ると定春はしきりに痛みを訴えるが新左衛門はそれを適当に流す。

「そりゃあ鎖骨を折ったんだ。痛みなど当然だろう。先に言っておくがこれ以上手間をかけさせるというのなら反対側も折るからな」

 そう言うと定春は「ひぃっ」と言って虫のように丸くなった。どうやら完全に力の差を理解したようだ。続けて新左衛門は野次馬を散らす。

「さぁ散った散った。見世物は終わりだ。残りたいというのなら残っても構わぬが、その場合は間もなくやってくるお上から取り調べを受けることになるぞ」

 野次馬は何かしらの目的で街道を歩んでいた者たちだ。お上に捕まってこれ以上時間を取られてはかなわないと彼らは足早に宮宿あるいは名古屋方面へと散っていく。ただ彼らの興奮した様子を見るに、彼らが向かった先で今回の件が噂になるのは避けられないことだろう。

(しまったな。公衆の面前で名乗ったのは安直だったか?だがそれくらいしなければ逃げられていたかもしれないし……)

 そんなことを考えながら周囲を見渡すと、道の脇で困ったように立ち尽くしている正通と目が合った。

(あぁそうだった。あまりに無害であったためにすっかり忘れてしまっていた)

 新左衛門は正通にまだ何の説明もしていないことを思い出した。


「正通殿……」

 とりあえず声をかける新左衛門。すると正通はハッとしてぎこちない愛想笑いを浮かべた。

「新左衛門殿……。いや、新左衛門様、あるいは清厳様とでも言った方がいいのかな?」

 どうにか平静を装おうとしている返事。そんな態度をさせてしまったことを申し訳ないと思いつつ、新左衛門もあまり身分を感じさせないように返答する。

「どうとでも構いませんよ。まぁその……見ての通りです。騙すような真似をして申し訳ありませんでした」

「いやいや、お役目とあらば仕方がないだろう。気にしないでくれ。それよりも……私も捕らえられるのだろうか?」

 不安そうな表情で尋ねる正通。正通も牢人である以上牢人狩りの対象である。心配するのも無理はない。だからこそ新左衛門はこれに、はははと笑った。

「ははは、心配なさらないでください。私の本来の目的は『天狗薬』についての調査で牢人狩りではありません。あやつ……定春の場合はあやつががあまりに無法者で野放しにはできないということで制圧に踏み切ったまでです。まぁこれだけ大事になってしまった以上は正通殿も取り調べくらいはすることになるでしょうが下手な真似さえしなければ重い罰が下るということはまずないでしょう。……あぁもちろん正通殿に何かひどい前科があれば話は別ですが、そこのところは大丈夫でしたか?」

「む、無論だ。人に恨まれるような真似はしてはおらん。……はぁ、我ながら小者だな。長いこと牢人ぶっていたつもりだったが悪事の一つもできずにいた男だ」

「それでいいじゃないですか。私にとっては朗報ですよ。これで無理に正通殿を捕まえる必要がなくなったのですから」

「ははっ、ならば私にとっても朗報だな。新左衛門殿が敵に回れば私には万に一つも勝ち目がないからな」

 これに二人は顔を見合わせ笑いあった。どうやら正通は軽く笑えるくらいには落ち着いたようだ。


「そういえば正通殿はこれからいかがなされるおつもりですか?」

 宮宿からの増援を待つ間、新左衛門と正通の二人は話を続けていた。これは正通が逃げ出さないように監視の意味合いもあったのだが、当の正通に逃げ出す様子がないことからいつの間にか普通の世間話のような雰囲気になっていた。

「まだ『天狗薬』を探すおつもりで?」

「うっ、それは……」

「私としてはお薦めしかねます。天狗薬はあるかどうかもわからない薬です。それを探して町中をうろついた結果同心らに目を付けられたなんて笑えない話ですよ」

「……ということは貴君が見つけた『天狗薬を作った老人』というのも嘘か」

「……すいません。あの話はあのとき二人の喧嘩を止めるために急遽でっち上げたものです。手掛かりは相変わらず何もなし。もうあきらめた方が正通殿のためかと」

 これに正通はしばらく道に迷った幼子のように冬の空を見上げ、そしてぽつりとつぶやいた。

「……それはつまり、私に田舎に戻れと言いたいのか?」

「……」

 新左衛門は肯定も否定もしなかった。その代わりつとめて明るい声でこのように提案した。

「ところでどうです、正通殿。ただ待っているだけというのも退屈ですし、これも何かの縁です。折角ですから少し手合わせでもしてみますか?」

「えっ、それは……」

「ご安心ください。あくまで手合わせ。後に残るような怪我はさせませんので」

 そう言った新左衛門の手は柄頭に添えられている。刀はまだ抜かれていないがいつでも抜ける態勢である。その気迫に正通はごくりと唾を呑みこんだ。

 実はこの提案は趣味の悪い暇つぶしでもなければ嫌がらせでもない――新左衛門からの一種の『温情』あるいは『好機』であった。

 というのもこの時代、牢人が雇ってもらうために自分の腕前を披露するような場はほとんどなくなっていた。戦が起こらないのはもちろんのこと、各地の大名も謀反の疑いをかけられることを恐れて大々的な武士の雇用を控えていた。だからこのような有力者の前で自分の力を見せる機会は上手くいけば下男として雇ってもらえるかもしれない、まさに千載一遇の機会と言えた。

 しかし正通は一瞬考えこんだのち、穏やかな表情で首を横に振った。

「よしておこう。怪我をして鎌やくわが持てなくなったらそれこそ役立たずだからな」

 それは武士として生きる道をあきらめた男の回答であった。新左衛門はただ「そうですか」と言ってこれ以上その話を続けなかった。


 まもなくして猿之助に連れられて門之助と数人の同心がやってきた。新左衛門は彼らに定春と正通を引き渡す。その後現場検証と新左衛門への事情聴取が行われたが、おそらく先に門之助が話を付けていたのだろう、形式ばかりの返答をしたのち新左衛門はすぐに解放された。

「お疲れ様でした、清厳殿」

「門之助殿。いえ、こちらこそ急に予定と違えてしまい申し訳ありませんでした。ところで二人の処遇の件ですが……」

「それはこちらにお任せください。宮宿の与力には顔見知りがおりますので、まぁ上手くやりますよ。……それとも情でも湧きましたか?」

「……いえ、そんなことは。ただあまり無理な沙汰にはしないでほしいと思っただけですよ」

「覚えておきます。さぁ我らも一度宮宿へと帰りましょう。宿を取っておりますので清厳殿は休まれた方がいいでしょう」

「ではお言葉に甘えさせていただきます」

 宮宿ではもう野次馬たちが噂を広めたのか、一行は遠巻きの好奇の目で迎えられた。新左衛門は極力無関心を装いながら宿へと入り、そのままこの日を終えた。


 それから数日後、儀信経由で沙汰の結果が届いた。まず定春は年明け後に浜松へと引き渡されることとなった。その後向こうで改めて裁かれるとのことだ。定春の過去の罪状からすればかなりの重い罰、最悪極刑もありうるとのことだったがそれは彼の自業自得だろう。

 対し正通は宮宿からの即日退去および名古屋への侵入不可が言い渡された。要は地元に帰るのであるのならば罪は問わないということだ。近年の牢人政策においてこれはかなり軽い判決であるがこれには新左衛門の口利きだけでなく、元より正通が大きな犯罪を犯していなかったことも関係していたのだろう。沙汰を受けて正通が宮宿から出るとき、彼は担当役人に「清厳様に『世話になりました』と伝えてくれ」と言って地元に帰っていったという。 

 こうして一区切りついた天狗薬の調査は今は一時凍結され再開の目途は立っていない。なお凍結の理由は噂がどうこうというのではなく、清厳たちがまた忙しくなりこのような噂に構う余裕がなくなったためである。

「おっと、そろそろ頃合いか」

 清厳は呼んでいた報告書を近くの棚に収め自室を出た。

「それでは行ってまいります」

 この日も清厳は小姓仕事で城に出ることになっていた。小姓仕事の後はまたよくわからない会合に出席することになっており、さらに家に帰ってからは利厳の名代でお使いにも出なければならない。

 そんな目まぐるしい年の瀬の中でいつしか天狗薬の噂は忘れ去られたものとなっていた。

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