柳新左衛門 正通、定春と手を組む 3
翌朝、新左衛門は小さな衣擦れの音で目を覚ました。起きたことを感づかれないように慎重に薄目を開けて周囲を確認すると、牢人の一人・正通が正面入り口の格子戸から外を眺めているのが見える。
続けて定春の方を見るとこちらはまだいびきをかいて眠っていた。
(これは……正通殿だけと会話できる機会かもしれぬな……)
思えば昨日は正通の警戒を解いてすぐのところで定春がやってきたため、正通個人の話を聞きだすような暇がなかった。しばらく近くにいた感じ定春ほど警戒する必要はなさそうであったが、だからこそ今のうちに話を聞いてどのような者なのかを見極めておきたい。
そう思い新左衛門はちょうど今起きた風を装って小さく伸びをした。
「ん……おはようございます、正通殿」
「おはよう、新左衛門殿。だがまだ六つの鐘も鳴っていないぞ。もう少し寝ていたらどうだ?」
「いえ、屋敷ではもっと早くに起きておりましたから。……外に何かあるのですか?」
「あぁいや、空を眺めていただけだ。今日は少し雲が出ていると思ってな」
新左衛門は正通に並ぶように格子戸に近寄り同じように空を見上げる。正通の言う通り空には灰色の薄雲が広がっていた。
「確かに雲が出てますね。ですがこのくらいなら雨や雪の心配はないでしょう」
「俺もそう思う。だが陽までは照りそうにないから今日は日中でも寒いだろうな。……お前も食うか?」
横に並んだ新左衛門に正通は小さな麻袋を持ち上げて見せ、そこから豆を数粒取り出した。
「それは……豆ですか?」
「ああ、炒った豆だ。特別うまいわけでもないが、まぁ空腹を紛らわせるくらいにはなる。ほら、手を出せ」
言われるまま手を出すと正通はそこに十数粒ほどの豆を流し込んだ。
「おっと……いえ、こんなにいただくわけには……」
「気にするな。あって困るものでもないだろう。それより食ってみろ」
「はぁ。では失礼して……」
新左衛門は一粒手に取り口の中に放り込む。どうやら本当にただ炒めただけのようで味らしい味はなく、しかも堅い。奥歯で挟み力を込めることでようやく砕けたのだが、砕けると今度は豆特有の青臭い風味が口の中に広がった。
「どうだ?」
「……まぁ空腹を紛らわすことはできそうですね」
「ふふっ、正直者め」
そう言って正通はもう数粒手に取り口の中に放り込んだ。味を楽しむためではない、腹を満たすためにである。新左衛門ももう一粒食んでみる。やはり味の方は評価できるものではない。
確かに牢人には安定した収入なんてものはない。そのため食事が質素になるのも当然ではあるのだが、それにしてもこの味のしない豆は新左衛門にとってはなかなかの衝撃だった。
(これが牢人の食い物か……)
新左衛門の家はそれほど金持ちの家ではないが、それでももう少しマシなものは出る。思わぬところで牢人の懐事情を垣間見た新左衛門。それが顔に出ていたのだろうか、正通が新左衛門に対し口を開いた。
「……新左衛門殿は家に帰る気はないのか?」
「な、なんですか急に。昨日も言ったでしょう。私は手ぶらで帰れば出家させられてしまうんです。帰れるわけないじゃないですか」
「だがもう少し上手い豆も食える。隠れて魚や酒を嗜む坊主も珍しくはない」
「……何がおっしゃりたいのですか?」
「牢人稼業など儲からないという話だ。お上には目を付けられるし戦が起こる気配もない。武士を捨てた家というのも今じゃもう珍しくもない。戻れる家があるのなら戻るのも一つの手だろうよ」
どうやら正通はこれからの新左衛門の行く末を気に掛けているようだった。言葉は端々からは人の良さがにじみ出している。
(なるほど、年長者故の老婆心というところか。だがこれは好機だな)
相手が踏み込んだ話をしてきたということは、それだけ自分からの距離が近くなったということだ。相手の親切心に漬け込むようで少しばかり気は引けたが、それでも新左衛門はこれを好機と逆に尋ねてみた。
「そういう正通殿はどうなのですか?私ほどではないですが綺麗な小袖。根っからの牢人のようには思えませんよ」
「それは……」
正通は目を泳がし話を逸らそうとする。しかし新左衛門はそれを逃さない。
「あぁ、『故郷は捨てた』などとおっしゃるのはナシですよ?私だってつまびらかにしたのですから言ってもらわなければ釣り合いが取れません。ご安心ください。他人に話したりなどはいたしませんので」
「ぐぅ……」
先んじて言い訳を潰された正通は苦い顔をしたが、やがてあきらめたのかため息を一つついてから自らの過去をぽつりぽつりと話し始めた。
「……俺の故郷は美濃の山間にある小さな村だ。うちの家は代々その地に住む地侍でな、名のある将から褒美をもらったこともあるそうだ。だが関ヶ原で父上が戦働きができなくなるほどの怪我を負ってしまってな。それを機に資産を整理し直して、他の村で言うところの『
「名主とは!結構な御身分ではないですか!」
新左衛門は正通の思わぬ背景に驚いた。名主とは村落の代表のような役職で、村の開墾や土木作業の音頭を取ったり年貢や賦役について為政者と交渉したりする村政治の要職の一つである。だが正通はそれをくだらないという風に首を振った。
「馬鹿を言うな。あえて言えば名主のようなものというだけあって所詮は小さな村だ。持っていた田畑もたかが知れている。そんなものよりも俺は武士の方に憧れた……」
正通は薄雲がかかる空を見上げながら続ける。
「俺が幼い頃はまだ家には武家としての気風が残っていた。家の者や村の大人たちもお前の家は武士の家だった、戦場で華々しい活躍をしたのだと聞かされていた。幼かった俺はいつか自分も御先祖らのように槍を持って戦場を駆け名を挙げるのだと思っていたものだ」
「ん……。ですが御父上は……」
「ああそうだ。俺はよくわかっていなかったんだ。戦が始まれば勝手に皆――父上も俺も、他の家臣らも武士になれるものだと思っていたんだ。そんな中起こったのが大坂の役だった」
大坂の役。約十二年前の1614年から1615年に起こった大阪冬の陣・夏の陣のことである。
「大坂での決戦の噂に多くの武士が自前の槍を持って西へと向かった。近くの村々からも結構な数が向かったと聞いている。しかし父上は動こうとはしなかった。『もう戦の時代ではない』とか何とか言ってな。父上だけではない、家臣らもまるで判を押したかのように誰も動こうとしなかった。ならば私一人でもと意気込んだもののその頃俺はまだ幼く、結局父上らの反対を押し切ることができなかった。しばらくして大坂が落ちたという報を聞いた時、俺は自分が武士でも何でもないということを突き付けられた。胸にぽっかりと穴が開いたかのような気分だったよ」
「それで村を出たのですか?」
「正確にはその数年後だな。数年待てばまた戦の一つや二つ起こるかと思っていた。だがそうはならなかった。父上の言った通りになってしまった……。俺はそれを認めたくなかった……」
炒り豆の入った袋を強く握りしめる正通。彼はしばらくそうしていたがやがて新左衛門の視線に気付くと無理に笑ってみせた。
「そうして時代を見誤ったから今こうしてこんなマズイ豆を食っているというわけだ。お前はまだ若いんだから無理に視野を狭めることもない。今は口うるさく聞こえるかもしれないが実家に帰るという道も考えておいてくれ」
「……一応覚えてはおきます」
神妙に頭を下げる新左衛門。正通の話にはいくつか感じ入るところもあった。だが今は感傷に浸るよりも本来の目的――御公儀側としての牢人の観察を優先させる。
(この感じだと正通殿を尾張から遠ざけることは難しくなさそうだな。だとすると問題は……)
「うぅ……なんだ、もう朝か……。水臭いな。起こしてくれてもよかっただろうに」
お堂の一角でのっそりと体を起こしたのは定春であった。彼は寝起きに早速酒を一口煽り機嫌よさそうににやりと笑った。
「さぁて、それじゃあ噂の薬とやらを探しに行くか」
(問題はこいつをどうするかだ……)
正通とは異なり根っからの牢人である定春。この男に関しては半端に逃がすのではなく捕らえて然るべきところに突き出した方が今後のためだろう。
(だがそれも天狗薬探しを手伝わせてからだ)
新左衛門はそんな内心を見破られないように冷めた表情で小さく一礼をした。
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