柳生清厳 『天狗薬』の噂を聞く 3
利厳から調査の命を受けた翌日、清厳と儀信は名古屋城から見て南西の方を流れる川・堀川の川沿いを歩いていた。もちろんただの散歩ではない。このあたりに目的の人物、清厳に天狗薬の話をした善政がいると聞いてのことだった。
「屋敷の位置は知らないが、聞いたところによると善政殿は小姓仕事のない日は友人らと堀川のあたりで釣りをしているらしい」
「釣りですか。最近増えてきましたよね、やっている人」
「存外いい暇つぶしになるそうだ。まったく、暇だというのなら素振りの一つでもすればいいものを……」
愚痴る清厳であったが堀川沿いには評判通り暇そうな武士やその家来たちが多くたむろしていた。またそれを当てにしての棒手振りまでいる始末である。
「思ったよりも集まってるな。これは少々骨を折るかもな」
面倒な予感にげんなりする清厳たち。しかしどうやら善政はこのあたりでは顔が知られているらしく、数人に声をかけるとあっさりとその居場所はわかった。聞けば善政は堀川にかかる橋の一つ、日置橋のやや上流辺りによくいるそうだ。
言われた通り日置橋近くを探してみれば清厳らはやがて退屈そうに釣り糸を垂らしている善政を見つけた。清厳が「善政殿!」と呼ぶと気付いた善政は「おぉ」と手を上げて返した。
「善政殿!」
「ん?おぉ清厳殿か。こんなところで奇遇だな」
「いえ、偶然というわけではないのですが……」
「……何かあったのか?」
太公望をしていたとはいえさすがは小姓衆。清厳が用事を匂わすと善政はすぐに仕事の顔に切り替えた。だが今回の訪問は小姓仕事とは関係ない。清厳は慌ててその誤解を解く。
「あ、いえ、お役目とは関係ありませぬ。ただちょっと個人的な用でして……先日お話しされた天狗薬のことについて訊きたいのです」
仕事が関係ないとわかると善政はまた気だるげな気配に戻り、改めて釣り糸を垂らした。
「天狗薬?あぁそういえば先日そんな話もしましたな。ですがなぜ今になってそのことを?」
「うっ、それは……」
よもや利厳からの依頼とは言えず、清厳は恥を承知で誤魔化した。
「い、いやぁ、やはり強くなるというのは武士の本懐。それならば頭ごなしに否定するのではなく、どのようなものかを確認してから評価しても遅くないと思いましてね」
清厳は苦しい言い訳ではないかと内心ひやひやとしていたが、善政は特に気にすることなく「なるほど、そういう考えもあるやもな」と軽く竿をしゃくっただけであった。
「だがそれなら申しわけない。俺も噂以上のことは知らないんだ」
「そう、ですか……」
予想していたとはいえ一番してほしくなかった返答に清厳の顔が曇る。これで完全に調査の手がかりがなくなったからだ。だが善政はそんな清厳を見てこう続けた。
「まぁどうしても知りたいというのなら俺ではなく
「門之助?」
ふいに出てきた名前に清厳がピンとこないという顔をすると、善政は信じられないという目で清厳を見た。
「おいおい!同じ小姓衆の
「え?……あ、あー門之助殿ですね。あはは、忘れていたわけではありませんよ」
慌てて思い出す清厳。言われてみれば確かに門之助という名前の同僚はいた。だが記憶にあるのは数歳年上の地味な小姓であり、何故この流れで彼の名が出てきたのかまではわからない。
「えっと、その、門之助殿が今回の件にお詳しいのですか?」
「……本当に知らないんだな。門之助は確かに目立たぬ奴だが一方でかなりの噂好きの奴でな。市井の与太話が知りたければあいつに聞けと言われているくらいだ。天狗薬についても俺が知っているくらいだ。当然向こうも耳にしているだろう」
「そうだったんですか……」
驚く清厳。門之助の存在自体は思い出したがこの噂好き云々に関しては本当に初耳だった。
「まぁそういうわけで門之助の所に行くといい。丁度あやつも今日は休みだったはず。どれ、ちょっと待て。地図と紹介の一筆を書いてやるから」
「あ、ありがとうございます。ですが私用でいきなりお屋敷に行くというのはちょっと……。いずれ共に出仕することもあるでしょうからその時にでも……」
「安心しろ。あいつは休みの日は知り合いの長屋で手習いの内職をしているから、いるとしたらそっちのはずだ」
手習いとは下級武士の子息相手に文字の読み書きや簡単な礼節を教えることである。若い武士が休日にこのような内職をすることはさほど珍しいことではない。ただ門之助がそれをしているというのはやはり初耳だった。
(そんなことまで知っているのか。……いや、私が今まで他の同僚らに興味を持っていたかったからか)
清厳は今まで年齢差や剣の稽古、あるいは秘密のお役目と何かと理由を付けて城下で同僚らと縁を深めずにいた。しかしいざこうして自らの無知を知らされると清厳にも(もう少し興味を持っておくべきだったかもな)と感じ入るところはあった。
そんな思いを知ってか知らずか、善政はさっさと地図と紹介状を書き、特に恩着せがましくすることもなくそれを清厳に持たせた。
「ほら、地図と紹介状だ。門之助はおそらくここにいるはずだ。まぁ紹介状なんて堅っ苦しいもんなどなくてもいいのだが、お前もきっかけがあった方が話しやすいだろ?」
「重ね重ねありがとうございます。このご恩はいつか必ずお返しいたします」
「ははは。気にするな。まぁ何かあったときはよろしく頼むよ」
こうして善政から地図と紹介状をもらい受けた清厳は丁寧に礼を述べてその場を後にし、そして気を利かせて離れていた儀信に合流した。
「いかがでしたか、清厳様?」
「薬自体は存じていなかったが、代わりにもっと詳しいであろう人の居場所を教えてもらった。それにしても……」
「何かあったのですか?」
「いや、ちょっと自分の世間知らずさが恥ずかしくなっただけだ」
「?」
「気にするな。ひとり言だ」
意味が分からないという風に首を傾げた儀信をよそにもらった地図を広げる清厳。そこには町の東の方にある、とある長屋が指し示られていた。
「ここら辺のはずなんだが……あっているよな?」
「はい。この通りの長屋のはずです」
善政からもらった簡素な地図を頼りに噂好きの小姓・小栗門之助を探す清厳と儀信。話によると門之助は小姓仕事のない日は知人の長屋にて手習いの内職をしているという。
やがて教えてもらった裏長屋にたどり着きさてどの家かと探していると、とある家から子供らの賑やかな声が聞こえてきた。二人は顔を見合わせ中を覗けば、そこには善政が言った通り幼い子供らに字を教えている門之助がいた。
「門之助殿!」
「はい?……えっ、清厳殿ではないですか!?なぜここに!?」
突然の清厳の訪問に驚く門之助。場所が場所だけにさすがに偶然出会ったとは思わなかったようだ。門之助は子供らに少し待つように言いつけ、すぐに表に出てきてくれた。
「お待たせいたしました。それで何かあったのですか?まさか城の方で何か……?」
こちらも小姓なだけあってまずは城の心配をするが、清厳はそれをすぐに否定する。
「いえ、今回は私の私用で訪ねさせていただきました。実は善政殿から門之助殿が噂話にお詳しいと聞いたもので」
そう言って清厳は善政が念のためにと書いてくれた紹介状を手渡した。
「ほう善政殿が。ふむ……なるほど、『天狗薬』についてですか……」
さすがは噂好きと評されるだけあって門之助は天狗薬についても知っているようだった。ようやく調査が進みそうだとほっと胸をなでおろす清厳であったが、ここで門之助は意味深に目を細めた。
「……清厳殿。どうして天狗薬のことをお調べになっているのですか?」
「えっ?どうしてって……」
「新陰流の教えを受けている清厳殿だ。こんな薬なんぞに頼らなくてもいいでしょうに」
先程まで子供たちに見せていた柔和な笑みから一転、警戒するような、品定めするかのような眼差しを向ける門之助。善政の言いぶりから門之助は簡単にしゃべってくれると思っていただけにその意外な態度の変化に清厳は困惑した。
「えっと、その、もちろん安易に強くなれるなどとは思っておりませぬ。ですが手段として一度調べてみるのもいいと思いまして……」
慌てて善政にしたのと同じような言い訳を述べるも門之助の目は変わらず厳しい。
(何だ、何か間違ったのか!?手土産でも必要だったのか?しかし善政殿は特に何もおっしゃってなかったし……)
窮する清厳であったが、ここで門之助はふと自分が必要以上にプレッシャーをかけていたことに気付き表情を和らげる。
「……おっと、失礼しました。別に疑っているわけではありませんよ。ですがこの噂は少々厄介な代物でしてね」
「厄介な代物?」
「ええ。なので興味本位程度ならば首を突っ込まない方が賢明だと思いますよ」
門之助は顔こそ微笑みを浮かべていたが、その口調には突き放すかのような冷たさがあった。それは間合いに入るなという警告か、それとも年長者としての老婆心か。だがどちらにせよ清厳も引くわけにはいかない。
「それは、そうかもしれませんが……。ですが私もその薬についてぜひとも知りたいところでして……」
「……」
しどろもどろながらも引かぬ意思を見せる清厳。それを受けて門之助は少し考えたのち、清厳にこう尋ねてきた。
「清厳殿。思い切って尋ねますが、その薬について知りたいという考え……もしや隼人正様(成瀬正虎)からのお役目ですか?」
「な!?ど……!?」
「どうして隼人正様とのことを知っているのか」という言葉は寸でのところで止めることができた。しかし驚いた反応までは隠すことはできず、そんな清厳に門之助はくくくと笑う。
「『何故自分と隼人正様のつながりを知っているのか』という顔ですね。くくく。どうしても何も、清厳殿がよく隼人正様の命で動いているというのは小姓仲間の内ではもう周知のことなんですよ」
驚く清厳。正虎からの依頼は非公式のものが多かったため、そのつながりは清厳だけではなく柳生家一同もれなく堅く口を閉ざしていたからだ。にもかかわらず皆が知るところになっていたとは……。恥ずかしいような情けないような、そんな感情で清厳の表情も渋くなる。
「そう、だったんですか……まさかそのようなことになっていただとは……」
「まぁ狭い世界ですからね。意味深に数日休めば注目されますし、そこから調べれば裏に誰がいるかもすぐわかる。あぁ勘違いはしないでくださいね。別に責めているわけではないんですよ。実のところ内々のお役目なんて皆大なり小なりやってるものですからね。ただもし隼人正様からの正式なお役目だというのなら私も半端な情報を出すわけにはいかない。故に尋ねたんです。それでどうなんですか、清厳殿。単なる興味本位で天狗薬について調べているのか、それとも隼人正様のご指示なのか……」
そう言ってスッと目を細めた門之助は一流の武芸者のような凄みがあった。清厳はその気配に(これは単なる噂好きではないな)と察する。先程門之助自身が言っていたように、彼もまた何か内々の理由で情報の収集に誇りを持っている、そんな者の目であった。
(どうやら無礼を働いたのはこちらだったようだ……)
そんな門之助から半端な態度で情報を聞き出そうとするのは失礼に価するだろう。清厳は襟を正し、ここに至るまでの経緯をさらけ出すことに決めた。
「わかりました、白状しましょう。確かに私は時折隼人正様に連なるお方から密命を受けて動くこともあります。ですが……今回に関しては私もよくわかっていないのです」
「と言いますと?」
「私は今回の調査の依頼を父から言い渡されました」
清厳は話しても問題なさそうな範囲で事情を話し始めた。
ここに至るまでの経緯を説明する清厳。利厳に奥座敷に呼ばれたこと。久助の様子がいつもと少し違ったこと。さらにはつまらないお務めに苦言を呈したことまで……。門之助はそれを時折相槌を打ちながら耳を傾け、そして聞き終えると納得したかのように頷いた。
「なるほど。隼人正様につながるお方はいらしたが直接命令されたわけではないと」
「ええ。いつもは事件の背景や調査の期限、あるいは単に激励の一言でもかけてくれるのですがあの日はそれもなく……。本当にただ偶然あの場にいたのか、それとも先ほど言ったように私の機嫌取りのためだったのかと思いまして……」
「うーん。そこらへんの利厳様の思惑はわかりませんが、おそらくは普通に『天狗薬』を警戒して清厳殿に調査を命じたのだと思いますよ」
「警戒?先ほども申しておられましたがその『天狗薬』とやらはそんなに危険な薬なのですか?」
これに門之助は首を振る。
「いえ。実は噂が先行するばかりで、まだ誰も『天狗薬』の実物を見てはいないんですよ」
「そうなんですか!?」
「ええ。飲んだだとか塗っただとか言っている者は何名かおりますが、噂にあるような一騎当千の力を得たという者はまだ出てきておりません」
「塗った?私は飲み薬だと聞いているのですが……」
「おそらく人づてに伝播するうちに根や葉がついてしまったのでしょう。先ほど言った通りまだ誰も本物を手に入れてないんですからね。私が仕入れた噂の中には薬を刀の方に振りかけるなんてものもありましたよ」
門之助の推察に納得する清厳。なるほど確かに噂というものはそういうものなのかもしれない。しかしそれならそれで疑問が湧いてくる。
「ですがそれなら尚更警戒の理由がわかりません。まだ実物の見つかっていない薬の何が問題なのですか?」
当然の疑問。それに門之助は「それが肝だ」と言いたげににやりと笑って続きを話す。
「そう、確かに『天狗薬』はまだ見つかっていない噂だけの薬です。でも実は本当に問題なのはこれではなく別の噂なんです」
「別の噂?」
「ええ。実はですね、市中にはまだ流れていませんが少し郊外に行くとこんな噂を耳にするようになるんです。『天狗薬という妙薬を手に入れて一騎当千の力を得れば、名古屋の城の殿様が雇ってくれる』という噂をね」
「そんな馬鹿な!?」
思わず叫んだ清厳であったがそれも当然だろう。噂に出てきた名古屋の殿様とは清厳の主君・徳川義直のことであり、義直および尾張御公儀がそんな適当な理由で人を雇ったりなどしないということを清厳は良く知っていたからだ。同じく小姓の門之助ももちろんだといわんばかりに頷く。
「私も馬鹿げた噂だと思いますよ。ですが信じる者もいるんです。例えば食いっぱぐれている牢人なんかがね」
「牢人!」
その言葉に清厳の眉間にしわが寄る。主君を持たぬ武士――牢人はこの時代、常に為政者側を悩ませる社会問題の中心であった。清厳も御公儀側として何度か彼らを追い払う仕事をしており、当然いい印象など持ってはいない。
「彼らの考えは想像に難くありません。合戦がなくなった今の時代、新たに雇ってもらえる牢人などほとんどいない。しかし武士という身分には未練がある。そんな折に耳に入った『天狗薬』の噂……」
「奴らにとっては薬一本で雇ってもらえるという、またとない好機。多少怪しいとは思ってももしかしたら……と信じてしまう者もいる、ということですか」
「いかにも。しかも名古屋の殿は大樹公(徳川家康)に連なるお方(徳川義直)。他の国より懐も厚いかもしれないし、少なくとも今いるところよりは仕事もあるだろう。そう考えれば名古屋に向かわぬ理由がない。多くの牢人がそんな考えに至れば……」
「尾張に牢人が集結してしまう……!」
衝撃を受ける清厳。ここにきてようやく門之助が強く警戒していた理由を理解した。
「なんとしても阻止すべきことです。ですが必要以上に事を荒立ててしまえばそれはそれで問題になってしまう。自暴自棄になった牢人が町で暴れただけで私たちにとっては『負け』のようなものですからね」
「なるほど……確かに慎重な対処が求められる案件ですね……」
「ええ。だからこそ清厳殿。あなたは一度屋敷に戻り、御父上らに今回の調査の真意を聞いてくるべきかと思われます」
門之助はびしりと指を立ててそう指示を出した。
「真意ですか」
「ええ。清厳殿も調査の依頼に何か裏があるような気はしていたのでしょう?それが気のせいなのか、それとも本当に何か意図があるのか。これ以上の調査はそこら辺をはっきりとさせてからでも遅くはないと思いますよ。場合によっては隼人正様の判断を仰ぐ必要も出て来るやもしれませんね」
なるほど確かに本格的な牢人追放活動など一小姓の権限を大きく上回っている。
「わかりました。私は一度父上らに判断を仰ごうかと思います。それでですね、門之助殿。万が一また情報が必要になったときはお話を聞きに来てもよろしいでしょうか?」
清厳がこう頼むと門之助はどんと胸を叩きにこりと笑った。
「水臭いですね。同じ小姓のよしみです。当然手助けいたしますよ」
「誠ありがとうございます」
清厳は深々と頭を下げて感謝の意を表した。
その後清厳は門之助と別れ長屋を後にする。通りに出るとすぐに儀信が隣に並んだ。
「よき方たちばかりですね」
「ああ。私も彼らに恥じぬ働きをしなくてはな。そのためにはまずは父上に真意を問いただすことからだ」
こうして現状できるだけの調査を終えた清厳たちは柳生屋敷へと戻るのであった。
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