柳生清厳 『天狗薬』の噂を聞く 2

 尾張柳生家嫡男・柳生清厳。彼が『天狗薬』の噂を耳にしたのはある日の小姓仕事の合間のことだった。

 主の義直は読書中。その間警備という名目で暇をしていると、同じく配置についていた同僚の一人・善政よしまさという男が話しかけてきた。

「なぁ清厳殿。そなたは『天狗薬』なる薬の噂を聞いたことがあるか?」

「……なんですか急に。一応まだ役儀中ですよ」

「堅いことを言うな。無駄に肩ひじ張っても仕方がないだろう。それで聞いたことはあるか、『天狗薬』。最近町の方で話題になっているのだが……」

 清厳は仕方なく記憶を探るがそのような名の薬に覚えはない。

「……すみませんが聞いたこともありませんね」

「そうか。清厳殿なら知っているかと思ったのだが」

 善政の妙な言い回しに清厳が引っかかる。

「私ならば?名前からして薬のようですが、どういったものなのですか?」

「俺も詳しいことは知らないのだが、何でも飲めばたちまち力がみなぎり百戦錬磨の武神がごとき力を得られる薬だそうだ。武術関連のことならば耳にしていると思ったのだがな」

 だがこれに清厳は不愉快そうに鼻を鳴らした。

「馬鹿馬鹿しい。薬一つで強くなるなんてことあるわけないじゃないですか。大事なのは日々の鍛錬です。そんな薬、ある意味私どもには最も縁遠いものですよ」

「ははは、そう言われればそうかもな。いやすまない、失礼したよ」

 善政は謝りこの話はこれで仕舞いとなったのだが、その後も一日清厳はむすっとしたままだった。これは善政に怒っているのではなく、そんな与太話を信じるような軟弱者が多いことに腹が立ってのことだ。

(まったく情けない。楽して力が手に入るわけなどないであろうが。あぁ根性のない者ばかりで嫌になる!)

 なるほど確かに日夜厳しい鍛錬を行っている清厳からしてみれば、そんな噂が信じられていること自体が侮辱とも言える話である。

 とはいっても噂話は噂話。一日機嫌を悪くしていた清厳も寝て起きると薬のことなどすっかり忘れていた。清厳が再度『天狗薬』の噂を耳にするのはそれから数日後のことであった。


 その日清厳は昼過ぎ頃に目を覚ました。これは寝坊ではなく、前日が小姓の宿直当番で寝ずの番をしていたためである。名古屋城内で一夜を過ごし、明け六つの開門時に昼番の小姓に引継ぎをして下城。その後屋敷に戻り床について今起きたというわけだ。

 部屋の戸を開けてみれば日は相当高い。おそらく昼の八つ(午後一時前後)頃だろうが宿直明けならばこんなものだ。清厳は生あくびを一つしてから適当に庭に出た。この時間ならば家臣の一人や二人くらいいるだろうと思ってのことで、そしてその目論見通り近くにいた一人の下男が気付いて寄ってきた。

「おはようございます、若様。何か御用でしょうか?」

 下男らも宿直明けということは承知していたため話が早い。

「すまないが食べるものを適当に見繕って部屋に持ってきてくれるか。小腹を満たせる程度でいい」

「はっ。少々お待ちください」

 走り去る下男を見送ってから清厳は大きく伸びをした。天気は晴れで師走にしては寒くもない。また遠くからは門下たちの稽古の声も聞こえてくる。

(のどかだな……。さて今日の残りの時間はどうして過ごそうか。稽古をするには少々遅い時間な気もするが……読みかけの書もあったし、どうしたものかな)

 そんなことを考えながら日を浴びていると、ふと背後から「清厳様!」と声がかかった。見れば廊下には膳を持った儀信が待っている。どうやら思ったよりもぼうっとしていたらしい。

「おはようございます、清厳様。お食事をお持ちいたしました」

「儀信か。すまないな。しかしわざわざ代わってくるということは何かあったのか」

「はい、それがですね……あ、まずはこれを中にいれますね」

 儀信は運んできた膳を部屋に置き、そしてこそりと耳打ちをした。

「清厳様。ただいま新田久助ひさすけ様がお見えになられてますよ」

「何!本当か!?」

 清厳は眠たげだった目をぱちりと開けた。

 新田久助。二十代後半の尾張の武士で尾張国附家老・成瀬正虎に関わる人物である。正確に言えば正虎の家来に山根藤兵衛なる者がおり、その藤兵衛の家来の一人がこの久助であった。家来の家来と書くと縁遠く感じるかもしれないが、正虎が藤兵衛に出した内密の指令、久助はその実行役によく選ばれていた。最近で言えば今切の渡しの監視、そして清厳・三厳らと共に三ケ日に向かったのもこの久助である。

 また久助は手が足りない時や荒事に発展しそうなときはよく新陰流に協力を仰いでいた。これは柳生家と成瀬家との間に縁があるためで、清厳も何度か助力あるいは経験を積むという名目で同行したことがある。それこそ先の今切・三ケ日の例が顕著だろう。

 そんな久助がわざわざ屋敷に顔を出したのだ。また何か指令を受け、その協力者を募りに来たのは明白であった。

(ここのところ文官じみたお役目ばかりだったからな。是非とも呼ばれたいものだ……)

 自室でそわそわと待つ清厳。すると下男がやってきて奥座敷に来るようにと伝えられた。

「若様。殿がお呼びです。奥座敷へとお向かいください」

(よし、来た!これは間違いない!久しぶりに武士らしいお役目ができるぞ!)

「……うむ、わかった。すぐに行く」

 清厳ははやる気持ちを抑え、粛々とした顔で利厳の待つ奥座敷へと向かった。


「父上。清厳、参りました」

「うむ。入れ」

「はっ」

 奥座敷に入るとそこには報告通り新田久助が控えていた。清厳はにやけそうになる顔を気合いで押さえ、深く頭を下げたのち下座に着く。それを見届けると利厳は普通の親子の会話のような口調で話を切り出した。

「すまないな、宿直明けだというのに。体の方は問題ないか?」

「はい。良く寝ましたのでもう万全です。朝食、もとい昼食も先程いただきました」

「うむ。食えるのはいいことだ。それでは少しばかりお前に頼みたいことがあるんだが、大丈夫だな」

「はっ。何なりと仰せつかってください」

 (来た!)と身構える清厳。しかし利厳から告げられた依頼は清厳が想像したものとは少し異なるものであった。

「早速だが清厳。お主、『天狗薬』という名に覚えはあるか?」

「『天狗薬』ですか?」

 この時清厳はこの薬――『天狗薬』のことをきれいさっぱり忘れていた。ただ何となく文字の響きは聞いた覚えがあったため記憶を探り、そういえば同僚の一人がそんな話をしていたなと思い出す。するとそれに感づいた利厳が「知っているのか?」と訊いてくる。

「知っているというほどではないですが……市井にて噂になっているくらいの話は聞いております」

「うむ。おそらくそれで間違いないだろう。それでだ、清厳。お前にはその『天狗薬』とやらについて調べてきてほしいのだ」

「えっ、この薬についてですか?」

 思わぬ調査対象につい素で反応してしまった清厳は、誤魔化すように小さく咳払いをしてから改めて聞き直す。

「えと、調べると言いますと、入手してこいということでしょうか?」

 これに利厳は少し考えるようなそぶりを見せた。

「そう、だな。入手できればそれに越したことはない。だがそもそもそれが実際に存在しているかどうかすらまだ定かではないのだ。故に無理に手に入れようとはしなくてよい。無理せず噂の信憑性、出どころ、それを聞いたものの感想など……そういったものを広く浅く調べてきてほしいのだ」

「広く浅く、ですか……」

 このあたりで清厳は微妙な違和感を感じ取っていた。

(単なる噂の調査。だが何故それを私に頼むのだ?この程度の噂なら他の下男でも使えばいいだろうに。……何か裏でもあるのだろうか?)

 清厳はちらと久助の顔を覗き見たが、その久助は目を閉じ静かに座っているだけであった。

(久助様は関係ない?しかし父上個人からの頼みだとしてもやはりどこか不可解だ……)

「どうした。何か問題でもあったか?」

「いえ……。その調査に出るのは私一人でしょうか?」

「たかが噂の調査だ。人手を割くほどのことでもないだろう。適当に下男一人でも連れて調べてこい」

「……」

 不信に思う清厳であったが依頼自体に関しては元より断るという選択肢はない。

「承知いたしました。では明日より早速調査に向かいます」

 清厳は深く頭を下げ、そして座敷を辞した。この間久助は一言も発してはいなかった。


 奥座敷から自室へと戻った清厳は先の話について考える。

(あるかどうかもわからない薬、『天狗薬』についての調査か。やはり少し妙だな)

 利厳あるいは正虎からの依頼で市中に流れる噂の調査を行うことは何度かあった。しかしそれらは尾張近辺で何かしらの大きな転機があったとき――過去の例で言えば家光の上洛時や領内の重要人物が亡くなったときといった、わかりやすいきっかけがあった。

 だが今回は違う。今回の調査対象は噂で名前が出てくるだけの、あるかどうかもわからない薬。しかも無理に入手する必要もなく、噂の出どころやその周囲の人々の様子を探るだけでも良いときている。

 どこか真剣みのない依頼。その真意を考察する清厳はやがてある可能性にたどり着いた。

(まさか私の機嫌取りなんかではないだろうな!?)

 清厳は数日前、利厳が出すつまらないお役目に文句を言っていた。それを受けて機嫌を直してもらうために、まるで幼子に飴でも与えるかのように、隠密らしいそれっぽい仕事を斡旋してきたのではないだろうか。

 もちろんこれはただの清厳の妄想だ。だがもし本当にそうならばそれは屈辱以外の何物でもない。

(くぅっ!もしこれが本当だとすれば、父上は私がこのようなことで喜ぶとでも思っておられるのですか!?)

 自らの妄想に歯ぎしりする清厳。そんな折にふと部屋の戸が叩かれた。

「清厳様。儀信、参りました」

「……来たか。入れ」

「はい。……どうかなされましたか?眉間にしわが寄っておられますが」

「ん。いや何でもない。それよりすまなかったな、急に呼んで」

「いえ、清厳様の命とあらば」

 部屋にやってきたのは儀信であった。実は「下男一人でも連れていけ」という言葉を受けて、奥座敷から戻るときに呼びつけておいたのだ。やってきた儀信は新たなお役目に期待しているのか、気持ち鼻息が荒かった。

「それで今回はどのようなお役目でしょうか。久助様も御同行なされるのですか?」

「うむ。それなのだがな……」

 清厳は与えられたお役目の内容、先程の奥座敷での会話、そして感じた違和感やそれに対する考えの一切を話した。聞いた儀信もどうやら同じような違和感を感じてくれたようだった。

「つまりは噂調査ですか。確かに、うまくは言えませんが清厳様が行うにしては少しおかしなお役目ですね」

「わかってくれるか。これはやはり父上が寄こした飴なのだろうか?」

「それに関しては私の方からは何とも……。ですが久助様もいらしたのですよね?そのような場で家の内のことをするでしょうか?」

「うぅん……父上ならばあえてすることも考えられなくもないが……」

 こうしてしばらくもやもやとした感情を愚痴っていた清厳であったが、やがて気が晴れたのか大きく諦めたかのようなため息をついて話を本題に戻した。

「……はぁ、まぁこれ以上は考えても仕方がないか。違和感こそあれどお役目はお役目。狭い部屋で中身のない話を聞かされるよりははるかにマシな仕事だ。ところでお前は聞いたことがあるか?『天狗薬』なる薬について」

 これに儀信は首を振る。

「申し訳ございませんが私も初耳です。一応後で他の者たちにも訊いてみますが、あまり期待はしないでください」

「そうだな。薬の効能的にもし誰かが噂をしていれば私たちの耳にも届いていたはずだ」

 武術に熱心な柳生家。そこで聞いた覚えがないということは家中からは情報は出てこないということだ。

「だがそうなるとどこから手を付けたものか……。実際にあるかわからないというのなら正規の薬ではないのだろうし……」

 この時代医師免許や薬剤師免許と言ったものはなく、また薬にしても認証制度のようなものもない。もちろん実績のある医者や経験則から有用とされている薬もあったがその逆、もぐりの医者や偽薬の類も多かった。おそらく『天狗薬』は後者に類する薬だろう。

「他に当てがないのならば、一番初めに清厳様に尋ねてきた御小姓仲間のお方に話を訊いてみるのはいかがでしょうか?」

「善政殿だな。向こうもさほど知らなさそうではあったが……まぁやはりそこから手繰るしかないか。だが、うぅむ……」

「……何か問題でも?」

 渋る様子の清厳に儀信は何かあるのかと身構える。だがこれに清厳は小さく笑って返した。

「いや、実は前に天狗薬の話を聞いた時に興味がないと啖呵を切ってしまってな。そうした手前今更薬について訊くのは少し気恥ずかしくて……」

「……心中察しますが、お役目のためと割り切りましょう」

 二人は顔を見合わせ苦笑し合った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る