柳生三厳 船を降りる 2(第四話 終)

 今回の件の裏話を語る三厳。その始まりは鹿之助と出会ったあの日であった。

 あの日三厳は山中屋に訪問し、正成と船を見に行き、鹿之助と出会い、そして夕刻頃に熊之助を見つけていた。

「ええっ!?ということは三厳様たちはあの日すでに熊兄を発見していたのですか!?」

「ああ。全くの偶然だったがな」

 あの日、宿に戻った三厳たちは偶然にも同じ宿に泊まろうとしていた熊之助を目に留めた。この時はまだ鹿之助の兄かどうかはわからない段階ではあるが、あの馬面を見れば無関係だと思うことの方が難しいだろう。

 ただ三厳らの目を引いた理由は他にもあった。その馬面の男がまとっていた気配が異質なものだったからだ。道行く町人たちとは一線を画す、まるで抜き身の刃物のようなピリピリとした雰囲気。それこそ人と共存して生きている鹿之助とは似ても似つかぬ気配である。

「……与六郎。探ってくれるか?」

 場違いな雰囲気には与六郎も気付いていたのだろう、一二もなく頷き与六郎は熊之助の部屋に近付いた。宿の構造は把握済みの上に相手も油断していたため接近は容易であった。

 しばらく物陰から聞き耳を立てていると、やがて一人の怪しい男が熊之助の部屋を訪ねてきた。服装から見るに地元の者のようだ。

「よう、早かったな。やはり弟に早く会いたかったのか?」

「冗談を言うな。向こうでの打ち合わせが存外早く終わっただけだ。……それで?本当にここにいるのか?」

「もちろんだとも。名前は鹿之助。お前と同じように本物の馬と見間違えるほどの馬面だそうだ」

 男はにやりと口角を上げるがこれに熊之助は無言で返す。男は反応の薄い熊之助に肩をすくめてから話を続けた。

「仕事は情報通り最近上り調子の廻船問屋・山中屋の上荷差し。波止場の方ではよく働くと評判らしい。まぁ馬人だからな、引く手は数多だろうよ。長屋は島之内にあるそうだ。だが詳しい位置はまだ不明。あそこらへんは随分と様変わりしちまったからな」

「……俺も少し歩いたが別の町になったようだったな」

「お前さん、最後に来たのはいつ頃だ?」

「……十年ほど前だ」

「おいおい。ほぼほぼ江戸と争っていた頃じゃねぇか。そりゃあ別の町に感じて当然だろうよ」

 笑う男。これに熊之助はちょっとむっとし口をへの字に曲げるが、男はそれすらも面白くなり再度笑った。

「はーやれやれ。でも大丈夫か?弟と会うのもそれくらいぶりなんだろ?」

「村を出たのが大坂の堀を埋めていた頃だから、まぁそのくらいだな。下手をしたら俺の顔など忘れているやもしれん」

「おいおい、しっかりしてくれよ。完全に引きこむまではとは行かなくとも、せめて情報を流すくらいはやってもらわんと……」

「わかっている。まぁそこはどうにかするさ……」

 その後熊之助たちは二三情報の確認をし合ってからこの会合を終えた。

 これらの会話は当然与六郎がすべて聞いており、そしてそのまま三厳の耳にも入る。

「ふむ。健全な話ではないようだな……。その訪ねてきた男とやらはどうしている?」

「宿を出ましたので勝手ながら尾行いたしました。寝床は町の北の方にある長屋にございます」

「よくやった。では明日からはその男が何者なのかを調べてくれ。あの馬面の男は俺が見ておく」

「はっ」

 両者の会話からただ事ではないと感じ取った三厳たちは帰郷の予定を変更してこの二人の調査を開始する。

 そして翌日。終日の調査の結果三厳たちは熊之助たちが近江のあたりでよろしくやっている盗賊一味だと知り、そして彼らの次の獲物が『どこか』の廻船であることろまで突き止めた。

 この『どこか』というのは掴めなかったという意味ではなく、彼ら自身もどの船を襲うかはまだ決めかねているという意味である。

「彼らの仲間は紀州の南の方に集結しているようです。ここにいる者は船の情報を集める係のようですな。自分たちでも襲撃可能な船を見極めるつもりかと」

「なるほど。ではもしそんな折に山中屋の様子を教えてくれる情報提供者が現れたら……」

「ええ。彼らの目標は山中屋の廻船となるでしょうね」

 目を見合わせる三厳と与六郎。二人が考えていることは同じであった。つまりあの馬面の男が兄弟の縁を利用して鹿之助から情報を得ようとしているのだ。

 狙われる山中屋。しかし正直に言えばこの時三厳たちは「しめた」とすら思っていた。山中屋に恩を売る絶好の機会が訪れたからだ。もちろん言葉には出さないが、二人は小さくにやりと笑い頷き合う。

「明日朝一で山中屋に向かい宗信殿に事の次第を話してくる。監視の方は任せてもいいか?」

「もちろんです。どうぞお任せください」

 翌日、朝一で山中屋の戸を叩いた三厳は「どうしても譲れぬ火急の用だ」と言って宗信との面会までこぎつけた。


 朝一の山中屋。この頃の山中屋は廻船問屋だけでなく人気の酒屋でもあったため、屋敷内では開店準備のために奉公人たちがせわしなく駆けていた。三厳は少しばかりの居心地の悪さを感じながら奥の座敷で待っていた。

(さすがにこんな時間に訪ねたのは少し迷惑だったかもな。しかしこちらも火急は事実。宗信殿がわかってくれるといいのだが……)

 嫌味の一つくらいは覚悟しておくべきか。そう身構えていた三厳であったが、奥座敷にやってきた宗信は前回と同じように落ち着いた笑みを浮かべて三厳に頭を下げた。

「お待たせしました、三厳様。聞けば火急の用とのこと。先日の折に何かあったのでしょうか?」

 非常識な訪問にもかかわらず丁寧な宗信の振る舞い。これは三厳のなりふり構わぬ訪問に何かを感じ取ったのか、あるいは単に商人の処世術か。だがどちらにせよこれならすぐに本題に入れると三厳はずいと前に出た。

「急な訪問に応えていただき誠にありがとうございます。実はこのたび是が非でもお耳にお入れしたいお話がございまして……」

 挨拶もそこそこに三厳はこれまでに掴んだ賊の情報を開示する。聞いていた宗信は始め思いもよらぬ話にひどく驚き狼狽していたが、事の重大さを理解するとすぐに近くの奉公人を呼び出し「手の離せない用事が出来た。よほどのことがない限りは番台たちで対処するように」と指示を出してから改めて聴く体勢に戻った。

「……というわけで向こうは鹿之助経由で山中屋の情報を得ようとしております」

 やがて三厳が話し終えると宗信は心底苦しそうに大きく息を吐いた。

「なるほど。それならば確かに危ないのはうちの船でしょうね。……はぁ、旦那様がおられぬ時だというのに!」

 悩まし気に白髪頭を掻く宗信。どう対処したものかと苦悩してようだったが、三厳はその姿に微妙に引っかかりを覚える。

「……どうかなされましたか、三厳様?」

「いえ……存外早く信じてくれたなと思いまして。もう少し疑われたりはしないのかと……」

 三厳の疑念に宗信は小さく笑みを浮かべて白状した。

「あぁそのことですか。三厳様が嘘をつく理由がありませんからね。客を見極めるのも商人の腕の見せ所です……というのは建前で、実を申しますと我々はすでに鹿之助の兄――熊之助の素性自体は掴んでいたんですよ」

 この告白にはさすがの三厳も目を丸くした。

「知っておられたのですか!?」

「はい。うちはかつては陸路で酒を運んでおりましたからね。安全のために各地の無頼者の情報は逐一仕入れておりました。その過程で偶然にも」

「なるほど、さすがですな。それで鹿之助にそのことは……?」

 宗信は首を振る。

「伝えておりません。兄がそんな不埒な稼業に身を落としているなど、知っても無駄に悲しむだけですからね。それでまだ二人は出会っていないのですね?」

「少なくとも昨日までは。ですが今日以降はわかりません。今は与六郎が見張っておりますが、いかがなされますか?熊之助およびその仲間……そして鹿之助を」

 三厳の冷厳な口調に宗信はごくりと喉を鳴らした。

 わざわざ三厳が『昨日までは』と言ったのは今後鹿之助が山中屋を裏切る可能性があるからだ。何なら今まさに二人は手を取り合ってよこしまな関係を結んでいる最中かもしれない。もしそうなれば当然一つの決断を下す必要が出てくる。だがしかし……。宗信は苦悶の表情で吐き出すようにつぶやいた。

「うまく……うまく鹿之助だけを見逃す手はないでしょうか?」

「見逃す、ですか?」

「ええ。今や鹿之助はうちの主力にございます。それこそあやつがいなければ波止場が回らなくなるほどに。仮に鹿之助一人が抜ければ釣り合うためには三四人ほどを雇わなければならなくなる。理想といたしましては鹿之助が兄のことを知る前にどうにか対処してほしいのですが……」

 なるほどあれほどの稀有な人材だ。宗信の惜しむ気持ちもよくわかる。また三厳も恩を売りたいという下心があるためあまり無下にはしたくない。

 しかし――それらを加味してもなお――それは即座に同意できるほど簡単な話ではなかった。

「難しいですね。捕らえるにしても私はこちらには直接の伝手はありませんし、それに熊之助一人を排除したところで廻船が狙われているというのに変わりはありません。むしろ向こうの敵愾心を煽って執拗に狙われる恐れもある。そうなれば被害は三人四人では済まなくなりますよ」

「それはおっしゃる通りなのですが……」

「それに鹿之助がならず者たちとつながったというのなら、これを機に切り捨てるというのも一つの手ではあります。いつこちらを裏切るかわかったものではありませんからね」

「いや、それは尚早ではないでしょうか。あやつは旦那様のお気に入りで、そして鹿之助もまた旦那様に深い恩義を感じております。あやつの兄が何者であっても裏切るような真似は致しません」

 どうやら鹿之助は想像以上に信頼されているようだ。だが世の中は甘いことばかりではないと三厳はあえて忠告をする。

「ですが十数年来の兄弟の再会ですよ?情に流されたとしても不思議な話ではありません。あるいはこのくらいならと油断して情報を流すということもあり得ます」

「それは……」

 苦悩する宗信。実のところ宗信も守るべきものの優先順位は理解していた。上に立つ者は時に非情な決断をしなければならないということも。

 だからこそ宗信は最後に一つだけ三厳に要求した。

「……せめて旦那様には一言報告させてください。鹿之助は旦那様のお気に入り。万が一があったとき、それが旦那様のあずかり知れぬところで起こったとあっては私は旦那様に顔向けができなくなります」

「わかりました。確か幸元殿は播磨(現兵庫県南西部)に出向かれているそうですね?ならば書状はうちの与六郎に持たせましょう。あやつなら今日出れば明後日までには戻ってこられることでしょう」

 その日の夕刻頃、三厳らは尾行から戻った与六郎に宗信の書状を持たせて播磨まで走らせた。

 三厳と宗信は並んで黄昏時の大坂を駆ける与六郎の背を見送ったのだが、実はこれがのちのさらなる混乱につながるとはこの時の三厳たちは知る由もなかった。


 与六郎が大坂に戻ってきたのは翌日のまもなく暮れ六つという頃だった。これは予想よりもはるかに早く、宿で待っていた三厳はひどく驚いた。

「おぉう、どうした!?やけに早かったな。何か問題でもあったのか?」

 大坂から播磨までの往復は、道にもよるがおおよそ150㎞以上の道程である。しかも目的は単に走破することではなく幸元に書状を渡すことにあった。そのため一行は帰還は早くとも明日の朝頃だと予想していた。

 そこに予定よりもはるかに早く、満身創痍で戻ってきた与六郎だ。三厳は驚くと同時に嫌な予感を覚えた。

「くっ。ほれ、水だ。……それでどうした?何かあったのか!?」

 一息入れた与六郎はかすれた声で報告をする。

「心配かけて申し訳ございません。何かがあったというわけではありませんが、ともかくこの書状を一刻も早くお届けするべきだと思いまして……」

 そう言って与六郎が懐から真新しい書状を取り出すと三厳はそれをすぐさま受け取った。表には幸元の名が記されている。

「よし、わかった。宗信殿には俺が届けてこよう。お前はここで休んでおくといい」

 立ちあがる三厳。しかしそれを与六郎が引き留める。

「いえ、私も同行します……」

「無理をするな。播磨までを一日で往復してくるなど並のことではないぞ」

「お心遣いありがとうございます。ですが、その……おそらく私も直接出向いて説明しなければ混乱してしまうはずですから……」

「?」

 意図がわからない三厳であったが与六郎に引く様子はない。結局三厳の方が折れボロボロの与六郎を連れて二人して山中屋へと向かった。

 山中屋にたどり着いた時にはもう暮れ六つの鐘は鳴っていたが、それでも宗信は快く迎え入れてくれた。そして一同は燭台の下で幸元からの書状を開いたのだが、そこでようやく三厳は与六郎がこれほどまでに困惑していた理由を知った。

「な、なんと……旦那様は本当にこうおっしゃられたのですか……?」

「……戸惑うお気持ちはわかりますが、そちらに書かれている通りにございます」

「確かに筆跡も花押も旦那様のものですが、うぅん……」

 書状には一連の話を聞いた幸元が出した解決案が記されていた。解決案――それはあえて海賊たちに店の船を襲撃させてしまえというものであった。

 誰が狙われ誰が裏切るのかわからない今の状況。それならばいっそのことこちらから情報を流して襲わせてしまえばいい。そうすれば誰がどのように動くか、どう処分すればいいかがわかるだろうとのことだ。

 困ったことにこの大胆な案はそれほど悪い案でもなかった。というのも今三厳たちが悩んでいたのは熊之助がどう動くかわからない、延いては鹿之助がどう動くかがわからないためである。ならば動かざるを得ない状況を作り彼らがどう振舞うのかを見るというのは、なるほど妙手とも言えなくもない。

 しかしこの破天荒な案にはまだ驚くべき続きがあった。

「こ、これも本当に旦那様がおっしゃられていたのですか?」

 薄明りの下だったが宗信の顔が引きつるのがよく見えた。

「はい。『伊賀の忍びらが護衛に着くというのなら安心だろう』『得難い経験になる』と……」

「そんな……いや、確かに旦那様なら言いだしかねないが……」

 幸元の出した追加案。それは海賊たちをおびき寄せる餌として跡継ぎ候補である正成を同乗させるようにという指示であった。

 確かにこれは垂涎ものの餌となる。というのも当時は武家や商家の子息を誘拐して身代金をせしめるという犯罪がまだ頻繁にあった頃なのだ。この噂を流せばまず間違いなく賊は山中屋の船を襲うだろう。

 しかしこれは自分の息子を釣り糸に括って垂らすような真似である。苦労は買ってでもしろという言葉もあるがそれにしても大枚をはたきすぎではないだろうか。思わず眩暈を覚えた宗信であったが、それでも一応正成に事の次第を話はするようだ。

「……とりあえず若様をお呼びしましょうか」

「えっ、お伝えするのですか?ここは誤魔化してしまうのも一つの手かと……」

「確かにそれも一つの手です。ですが旦那様の御指示は絶対です。隠し通せるものでもないですしね。とりあえずまずは若様にお話しして、その後のことは改めて考えましょう。では少々お待ちになってください」

 しばらくして事情を知らぬ正成が緊張した様子でやってきた。宗信は「落ち着いてお聞きください」と前置きをしてから包み隠さずこれまでの経緯を話す。

 鹿之助の正体やそれを知りつつ雇っていたということ。彼の兄・熊之助とその周囲で謀られている陰謀のこと。そしてその対策として幸元が正成を囮にする案を出したということも。

 正成は話を聞く間終始困惑しっぱなしであったが、この情報量ではそれも仕方のないことだろう。その青い顔を見て三厳は正成がしり込みし囮役を辞退すると考えていた。それは長年正成を見てきた宗信ですら同意見であった。ところが話を聞き終えた正成は青い顔ながらも覚悟を決めたように頷いたのであった。

「わかりました。父上の命とあらば、その船に乗りましょうぞ」

「ええっ!?」

 思わぬ流れに顔を見合わせる三厳と宗信。よもや二つ返事で承諾するとは思っていなかったからだ。

「ほ、本気なのですか、若様!?」

「本気も何も、それが父上の命なのでしょう?私なら大丈夫です。おそらくこれは父上からの試練なのでしょう。このくらいの困難を乗り越えられないようでは店を背負うことなどできやしない、というね」

 正成のこの気概が立派なのか蛮勇なのかは三厳らには判断がつかなかった。ただ一つ言えることはこの決定を無理矢理ひっくり返すだけの権限を三厳らが有していなかったということだ。

 結局最後までこの親子の決意を挫くことはできず、最終的に三厳も宗信も「全力を尽くす」と言って頭を下げる他なかった。


 三厳はその頃を思い出してはははと笑った。

「それからは大変だったな。俺と与六郎との二人ではどうにもできないから近くの信頼できる忍びを集めて、次の船に正成殿が乗るという噂を流して……。俺たちが隠れるためのつづみも無理を言って積んでもらったりもした」

「……あぁ。何か出航直前で新たな積み荷がどうのこうのと言っていたのはそれだったんですね」

「おそらくそれだろう。いやぁ大変だったぞ。ひたすらつづみの中や陰で息を潜めて……。船員らに気付かれないように時折外に出て体を伸ばしたりもしたが、それでも体が凝って凝って仕方がなかった」

 これはのちに聞かされたことだが、船頭の犬彦ですら三厳たちの密航のことは知らされていなかった。つづみに関しても本家から直々に『我が家の今後の趨勢に関わるもの』とだけしか聞かされていなかったようで、それだけに犬彦もまた三厳らの登場に特に驚いた者の一人だったという。

「後はお前も知っての通り、ひたすら隠れて折を見て登場というわけだ」

「折を見て……」

 ここで鹿之助はふと思い出した。三厳たちは海賊が現れてすぐに登場したわけではない。彼らが乗り込んでからしばらくして――具体的に言えば鹿之助が熊之助の誘いを断ったすぐ後に現れた。

 そこから考え着くことは一つしかない。

「三厳様。それはやはり私がどう出るかを見ていたのですか?」

 この質問に三厳は特に誤魔化すことなく頷いた。

「はっきりと言おう。その通りだ。お前が向こう側に着いたら迷わず切り捨てていいという許可も貰ってあった」

「ひえぇっ!」

 思わぬところで自分が死線を潜り抜けていたことを知り鹿之助はその巨体をぶるりとさせるが、その背中を三厳が笑いながら叩く。

「何を終わったことで怯えているんだ。いやはや、あの場面でああ啖呵を切ったのは見事だったぞ。ないとは思うが、万が一行く当てがなくなったらうちに来い。優遇するからな。……あぁそれにしても見事だった。お前も、熊之助もな」

 外道にこそ堕ちてしまった熊之助であったが、最後に見せた兄弟への想いと矜持は三厳から見ても一目置けるものであった。「さすがはお前の兄だな」。そう褒めると鹿之助は悲しさと誇らしさが入り混じった表情で「はい」と答えた。

 見れば火葬の湿った煙はもうだいぶ細くなっていた。


 熊之助らの埋葬を終えた一行は太地を出て、これまでの遅れを取り戻そうとするかのように熊野灘、志摩半島を越え伊勢国・津へと入る。その津の船宿にて正成が三厳に声をかけた。

「三厳様。ただ今よろしいでしょうか」

「構いませんよ。何かありましたか?」

「いえ、今のうちに改めてお礼を申しておこうかと。今回の件、誠にありがとうございました」

 丁寧に頭を下げる正成。それには単に商人の作法としての丁寧さだけではなく、心からの敬意と感謝が込められていた。三厳はこれに(どうやら恩は売れたようだな)と少々下衆いことを考えながら頭を下げ返す。

「それで三厳様は当初の御予定通り、津でお別れになられるのですか?」

「ええ。私が通達もなしに尾張に入ると色々と面倒が起こってしまいますので。護衛の方は与六郎らが尽力いたしますので、どうぞご安心ください」

 この船の最終目的地は尾張であるが、三厳は初めからその途中――伊勢国・津で一人下船すると決めていた。理由はもちろん三厳のような者が尾張に入ると色々と面倒になるためである。その後津からは東海道に合流し、以前小田原から来た時と同じように関宿――加太越え――伊賀を通って柳生庄へと戻る。

「柳生庄ですか。ぜひ一度訪れてみたいものですね」

「ははは。何もない所ですよ。ですがもし参られたらその時は歓迎いたします」

 そして翌日。三厳は波止場にて正成らが乗る船を見送った。

「三厳様。どうぞお気をつけて」

「そちらも息災なく。与六郎。あとは任せたぞ」

「はい。こちらはお任せください」

 船はしばらくの間は手漕ぎで進んでいたが、やがて帆が風を捕らえると一気に伊勢の方へと消えていった。そこで三厳はようやく一仕事終えた心地となって大きく息を吐いた。

「ふぅ。なかなかに大変な事案だったな」

 だがこれで当初の目的――新たな情報網の獲得は達成できたことだろう。これで冬場の諜報活動が少しは楽になる。あとは無事に柳生庄に帰るだけだ。

 遠い鈴鹿山脈の方を見上げれば空は快晴であった。しかし冬の天気などあてにはできない。山間やまあいならば特にだ。

「雪が降ると面倒だからな。それまでに帰り着けるといいのだが……」

 そうつぶやいた三厳は一人伊勢の海に背を向けて軽く駆けだしたのであった。

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