鹿之助 兄と再会する 3

 去っていった熊之助が残した意味深な言葉。それは熊之助が山中屋の船を襲撃すると推察するに足るものであった。

(あの口ぶりは冗談という風ではなかった。まさか熊兄は本気で……。だけど俺の勘違いの可能性も捨てきれない。あぁいったい俺はどうすればいいんだ!?)

 悩む鹿之助であったが、ここでひょんなことからその狙われている船に乗船できる機会が訪れる。なんと次の船に山中屋の跡継ぎ候補である正成が乗船することが決まり、さらにその世話役に鹿之助が選ばれたのだ。

「今度の船には若様も御同乗なされる。鹿之助、お前にはその世話を頼みたいのだ」

(これは好機だ!俺が船に乗れば万が一が起こってもなんとかできるかもしれない……!)

 鹿之助はこの依頼を受諾。こうして次の船には鹿之助も乗船することとなったのであった。


 乗船が決まってからは忙しかった。まずそもそも出航直前のこの時期は本来の上荷差しの仕事が忙しい。特に人並外れた力を持つ鹿之助は今ではすっかり波止場の大黒柱で、助力を求める声で腰を下ろして休む暇もないくらいだ。

 そんな中でうまく時間を見繕って廻船の船員たちとの打ち合わせも行わなければならない。ここで幸いだったのは船の乗組員たちとはほとんど顔見知りだったということだ。上荷差しの忙しさもわかっているため打ち合わせのための時間や場所はかなり優遇してもらった。ただその代わりというわけではないが彼らは正成の世話を完全に鹿之助に任せるつもりであった。

 件の廻船の船頭となる犬彦いぬひこは一蹴するような態度で宣言した。

「俺たちの役目は操船だ。若様だか何だか知らないが、悪いが接待じみたことはできないからな」

「まぁそれは仕方がないか。わかった。若様の件は基本俺一人でどうにかできるようにしよう」

 またこの間鹿之助は熊之助の捜索も忘れてはいなかった。そも鹿之助がここまで落ち着かずにいるのは熊之助の真意がわからないためである。改めて見つけて話をすれば――進むにせよ引くにせよ――少しは心の準備もできるだろう。そう思い仕事の合間を縫っては酒場や賭場に足を運び、知人にも見つけたら教えるようにと頼み込んだ。

 鹿之助は当初兄は目立つ顔のためすぐに見つかるだろうと思っていた。しかしこれが全くの見当違いで目撃情報は一向に出てこず、まだ大坂にいるのかどうかさえはっきりとしなかった。

(どこに行ったんだ、熊兄……。まさか本当に船を襲う準備を……?)

 余計に不安になる鹿之助。しかし時間は待ってはくれず、するべきこともまだまだたくさんある。

 例えば長屋の管理などもそうだ。船が出れば仮に何もなかったとしても一月近く家を空けることになる。腐りそうなものは周囲に配り盗まれて困るものは誰かにあずかっていてもらう。また他の住人に長屋の掃除やどぶ攫いに参加できないことも謝っておく。家賃も余裕を持って三月分ほどまとめて払っておいた。

 こうして日時は流れていき気付けばもう出航前日になっていた。この日の夜は長屋の住人らが壮行会がてらの軽い酒盛りを開いてくれた。ちなみに振舞う酒は鹿之助が甕で買ってきて飲み切れなかった分である。

「尾張まで行くのかい。無事に帰ってくるんだよぉ」

「船酔いして船から落ちるんじゃねぇぞ」

「やれやれ。鹿がいないと来月のどぶ掃除は面倒になるな」

 そんな他愛のない話をしながら鹿之助はふと気付いた。

(そうか。やもすればこれが今生の別れになるやもしれないのか……)

 彼らは知らない。今度の船旅が通常よりもはるかに危険であるということに。またそれに兄である熊之助が関わっているかもしれないということに。

 明日より始まる孤独な戦いを思い、鹿之助の目は知らず知らずのうちに潤んでいた。

「ん?おいおいどうした鹿之助、涙ぐんだりして」

「え?……あぁいや、これは……ちょっと感極まってしまって」

「おいおいどうしたんだ。今生の別れでもあるまいに」

「ははは、そうですよね。戻ってくのにおかしなことですね」

(そうだ。俺は無事に戻るんだ。自分だけでなく若様や他の船乗り、そして……熊兄も含めて!)

 一人静かに覚悟を決める鹿之助。

 そして翌朝。明け六つの鐘が鳴り各地の木戸が開かれるや、鹿之助は他の住人らに見送られながら長屋を出て山中屋本店へと向かうのであった。


 時刻は明け六つの鐘が鳴ったばかりの頃。鹿之助は冬の朝のつんとした空気を鼻から吸いながら堺の筋を曲がる。普段は人でごった返している大通りもこの時間ではさすがに人影はほとんど見えない。だが壁一枚隔てた家の中からはもぞもぞとした人の気配が感じられる。おそらくもうしばらくすればいつもの活気あふれる大坂の朝が始まるのだろう。

(平和な朝だ……)

 おそらく今この大坂に『近日中に襲われる』と思って過ごしている人などほとんどいないだろう。だがそれが『普通』でそれが『平和』なのである。鹿之助はそんなかけがえのない空気を吸い込みながら意気込みを新たにする。

(やはり人を襲う稼業なんて間違っている。若様もお守りするし、熊兄もきっと救ってみせようぞ……!)

 さて、そう気合いを入れなおした鹿之助であったが、山中屋までたどり着くとその門前にはすでに数名の人影が見えた。近付けばそれが若様である正成や年寄役の宗信らであることに気付く。鹿之助は慌てて駆け寄った。

「す、すみません。待たせてしまったでしょうか!?」

 慌てて頭を下げた鹿之助に正成は機嫌よく笑って見せた。

「気にするな。私が外で待っていたいと言ったんだ。いい天気だな。まさに出航日和というものだ」

「は、はい。左様で……」

 心底楽しみだという風に笑う正成。どうやら外で待っていたのは貴人の気まぐれだったようだ。ほっと胸をなでおろす鹿之助に同じく門前で待っていた宗信が声をかける。

「鹿之助。ちょっといいか?」

「はい、何でしょうか?宗信様」

 機嫌いい正成とは対照的に宗信は実に不安そうな顔をしていた。だがそれも当然だろう。跡継ぎ候補である若様の船旅。しかも廻船が必ずしも安全なものではないということは誰よりもよく知っている。むしろこの宗信の反応こそが正しいのだ。

「わかっているとは思うがお前の使命は若様をお守りすることだ。船でも積み荷でもない、酷な言い方をすれば船員もお前自身すらも守る対象ではない。是が非でも無事に帰ってこさせるのだぞ」

「はい、お任せください。命に代えてもお守りいたします」

 頭を下げる鹿之助であったが宗信はまだ心配そうにしている。

「あぁまったく旦那様も変なことを思いつきになられる。何もこんな時期に船に乗せなくとも……」

「やはり旦那様のお考えだったのですね」

「もちろんだとも。まぁ本格的に忙しくなる前にいろいろと経験を積ませたいというお考えはわかるがな……」

 旦那様とは山中家当主の山中幸元のことである。酒造業から海運業へと転身したり分家を手広く広げたりと大胆な手腕が目立つ実業家で、鹿之助を見い出し、そして馬人であると知ってもなお手厚くもてなしたのも彼である。そんな幸元ならば息子にこのような大胆な試練を与えたとしてもさほどおかしくはない。宗信も諦めたようにため息をついた。

「ともかく決まってしまったものはしょうがない。もはやお前のその力こそが頼りだ。しっかりと役目を果たすのだぞ」

 改めて念を押されてから鹿之助と正成は波止場へと出発した。


 鹿之助と正成は近くの東横堀川から小舟に乗り波止場へを向かう。鹿之助は知る由もないが先日正成が三厳らを案内した道である。やがて二人が波止場へとたどり着くと、そこでは船頭の犬彦ほか数名の古参の船員らが正成を出迎えるために並んで待っていた。

「お待ちしておりました、若様。某今回の船頭を務めさせていただきます、犬彦にございます」

 似合わない笑顔で挨拶をする船頭・犬彦。打ち合わせ時にはふんぞり返って世話など焼かないと言っていたが、やはり媚びは売っておきたいのだろう。鹿之助は何か言いたげな生暖かい視線を向けたが、犬彦はそれを無視して正成に乗船を促した。

「さぁ早速ですが早く出立いたしましょう。今日はいい風が吹いておりますよ」

「そうだな。いい日和だものな」

 船に近付くための上荷舟に乗り込む正成たち。その際鹿之助は犬彦を軽く肘でつついてみたが犬彦は素知らぬ顔で「さぁお運びしろ」と他の船員に指示を出していた。

「さぁ出るぞ!位置につけ!碇を上げろ!」

 波止場では安い媚びを売っていた犬彦であったが、さすがに船に上がれば船頭らしく引きしまった顔つきになる。彼の指示で船員らはてきぱきと動きまもなく出航の準備が整った。犬彦はその報告を船倉にいる正成に行う。

「準備が整いました。それでは出航いたしますがよろしかったでしょうか?」

「うむ。任せるぞ。そうだ、出航の様子を外で見てもいいか?」

 一瞬返答に詰まる犬彦。当時の船上では少しでも転覆の危険性を減らすために極力移動しないというのが暗黙の了解だったからだ。だが青年一人くらいならなんてことはないだろう。

「どうぞご覧になってください。海に落ちないようにお気を付けになってくださいね」

「わかっているとも」

 意気揚々と船倉を出た正成を見送ったのち犬彦は鹿之助に(ちゃんと見ておけよ)というような視線を向けた。鹿之助はそれに肩をすくめて返し正成の後を追った。

 正成は左舷前方に位置取っていた。ここならば大坂の町や前方の海がよく見える。鹿之助が追い付くと船の中央付近から船員の大声が聞こえた。

「帆を張るぞー!」

 振り向いてみれば宣言通り船中央の帆柱に四角帆が張られ、それが風を受けて弧を描いた。それと同時に掻きたちが「エー、ヤー」と声を上げて艪を掻き始める。

 この頃の帆はわら編みのむしろ帆が主流で、隙間が多くあまり効率のいい帆ではなかった。そのため出港時のような瞬発的な出力を必要とする場面では、それを補うためにこうした人力も必要だったのだ。

 これらの力が合わさり、船はぐわんと一度揺れてから動き出した。大坂の町々がゆっくりと流れ始める。

「おお!動いている!動いているな!」

「はい、動いておりますね!」

 こうして鹿之助らを乗せた廻船は出航した。


 出航してすぐの頃、正成は長いこと流れる町々を眺めていた。物珍しかったというのもあるだろうが、それ以上にやはり不安なのだろう。

 この時代の旅はどうしても常にある程度の危険が隣にある。船が難破するかもしれない。転覆するかもしれない。悪い病気にかかるかもしれない。悪人に襲われるかもしれない。最悪命を落とすことだってありえる。そういった不安を抱えつつも自らの将来のため、あるいは家のために正成は船に乗っていた。

 たださすがに冬の海上だ。体調を崩されてはかなわないと鹿之助が声を掛けようとすると、折よく犬彦の方から声をかけてくれた。

「若様。そろそろお戻りになってください。御体を悪くいたしますよ」

「……ああ、わかった。すぐ戻る。さぁ行こうか、鹿之助」

 そう言って大坂の町に背を向けた正成の顔はいつもよりも少し大人びて見えた。

 さて船倉に戻った正成と鹿之助。そこでは犬彦が簡単な地図を広げて待っており、今回の船旅の説明をさせてほしいと言ってきた。

「すでにご存じかもしれませんが改めて説明させていただきます」

「うむ、頼む」

「今回の目的地は尾張です。紀州をぐるりと回る航路で、日数は片道十日程を想定しております。もちろん天候等で多少の増減はいたしますがね」

 地図にはざっくりと紀伊半島が描かれており、犬彦はその沿岸をぐるりと指でなぞった。

 この頃の日本ではまだ外洋航行用のコンパスの類は発達しておらず、必然陸地に沿って進む沿岸航法が船の大小を問わず主流となっていた。今回ももちろん紀伊半島を沿うように進み尾張を目指す。

「主な寄港地は和歌浦わかのうら―白浜―太地たいじ英虞あご―津、そして尾張です。実際にはこれ以外にも風待ち潮待ちで泊まる港もあることでしょう。場合によっては複数日待つこともあり得ます」

「なるほど。今回の海は荒れそうか?」

「何とも言えませんね。ですが今年は比較的穏やかな風なので大きく遅れることはないと思いますよ」

 犬彦のその言葉を裏付けるかのように航海は退屈なほどに順調に進んだ。

 一応緊張するような場面がないこともなかった。出航から数刻後、一行は事前に難所の一つとして聞かされていた加太瀬戸かだのせとへとやってきた。

 ここは大坂湾の南の出口――本州と淡路島との海峡で、現在でいう紀淡きたん海峡のことである。ここは何より潮の流れが速いため見極めを誤ると一気に流され座礁したり難破してしまう。

 だがそこは歴戦の船乗りである。犬彦らは見事に潮の流れを読み切り、少し航行速度を調整しただけでここを難なく越えていった。その腕前は見事なもので、通り過ぎた後に正成が「え?これで終わりですか?」と尋ねたほどであった。

 加太瀬戸を越えると程なくして最初の寄港地である紀州国・和歌浦へとたどり着く。現在で言う和歌山県北東部の港町だ。一行はここで一泊、さらに荷下ろしと風待ちのためにもう一泊滞在した。

 そしてその翌日・三日目も順調に進み、特に旅禍なく一行はこの日の目的の港である白浜(現和歌山県田辺市付近)へとたどり着いた。


「んー……今日も長い船旅だった……」

 船から降りた正成は目一杯の伸びをする。順調な船旅だったということは言い換えれば退屈な旅だったということだ。若い正成にはさぞかし堪える時間だっただろう。

「いっそ嵐の一つでも来てほしい、というのはさすがに不謹慎かな?」

「まぁ船員らの前では言わない方がいいでしょうな。そもそも嵐が来そうなら船は出さないでしょうし」

「それもそうだな。それじゃあ聞かなかったことにしてくれ。それで確かここでは一泊するだけだったよな?」

「はい。風がよければ明日朝一にでも出るそうです」

 今回の寄港地・白浜には単純に一泊するために立ち寄っただけである。そのため何事もなければ明日朝一で出航できることだろう。しかしここで一行は嫌な噂を耳にする。

「聞いたか?ここ数日南紀の崎のあたりの海流が不安定らしいぞ」

「本当か?まいったな。あそこらへんはただでさえ難所だというのに」

 彼らが言う『南紀の崎』とは現代で言う紀伊半島最南端・潮岬しおのみさき近辺を指す。なぜここが難所なのかというと、ここを境に船の進行方向を大きく変えなければならないからだ。

 和歌浦から潮岬までは紀伊半島西岸に沿って南東に向かう。しかし潮岬以降は東岸に沿って進むため進路を北東に変えなければならない。この方向転換を当時の完成度の低い帆船で行わなければならないのだ。船員らが気を揉むのも仕方がないことだろう。

 その緊張は正成にも伝播し、つい犬彦に尋ねもした。

「大丈夫か?何か問題があるようだが……」

 だが犬彦は特に気にするようなこともなく御猪口をちびちびと傾けながら答える。

「あぁ気にしないでください。問題ありませんよ。あのあたりが荒れるのはよくあることですから」

「そうなんですか?」

「ええ。あのあたりは大風が吹くわ、雨が降るわ、強い海流が近くを流れているわで元より面倒な場所なんですよ」

 これを聞いていた鹿之助は思わず「大丈夫そうには聞こえないんだが?」とつぶやいた。

「ははは。そうかもしれないな。だがなんだかんだで大丈夫なんだよ。幸い次の港の太地は崎を越えてすぐだから、最悪の場合は艪を掻いて向かえばいい。その時はお前も力を貸せよ、鹿之助」

 豪快に笑う犬彦に鹿之助と正成は不安そうに顔を見合わせた。

 翌朝。宿を出て海の様子を見に来た正成たち。天気は薄雲が広がっており風も強く、波止場には灰色の波が打ち寄せ白波を立てている。昨日の噂話もあってか若干不安になる正成であったが、海を見た船長は特に迷うこともなく「よし、これなら出れるな」と判断した。

「えっ、大丈夫ですか?結構荒れているように見えるのですが……」

「ははっ。このくらいならこの時期では普通です。むしろ風向きは丁度いいくらいですよ」

 鹿之助や正成からすればそこそこ荒れている冬の海であったが、どうやら船乗りからすればまだまだ穏やかな日和らしい。正直この海を前にしては信じられなかったが本職が言うのならばそうなのだろう。まもなく船は内心心配する正成らを乗せて白浜を後にした。


 それから数刻後。船は順調に進んでいたが、ある頃より船員たちの動きがあわただしくなる。そろそろ船員らの緊張具合がわかるようになってきた正成は心配そうに犬彦に尋ねた。

「何かあったのですか」

「あぁ、あったというよりこれからあるんです。まもなく例の『南紀の崎』なんですよ。おーい、全員配置に付けよー」

 『南紀の崎』とは昨日耳にしたこのあたりの難所である。犬彦は大丈夫だと言っていたがやはり難所であることには変わりないようで、甲板には右舷左舷にそれぞれ見張りと艪掻きを立てて進んでいる。何があってもすぐに対応できるようにした今までで一番の警戒具合だ。

 やがて船はごつごつとした岩礁がいくつも見える海域にやってきた。

「い、岩が近くないですか?もっと沖の方に出たほうがいいのでは……」

「あー、ここの沖にはかなり強い海流(黒潮)が流れてましてね、それに捕まると一気に流されて難破しますのであまり沖には出られないんですよ。なに、心配しないでください。今日くらいの風ならほとんどあってないようなものですから」

 犬彦が落ち着いた口調で説明する。実際船は岩礁の隙間をうまく抜けていく。これなら問題はなさそうだと正成は胸をなでおろす、そんな時だった。左舷を見張っていた船員の一人が声を張り上げる。

「なっ!?そ、そこの舟!危険だからもっと離れろ!」

 声のした方を向く正成たち。何かあったのだろうか。しかし犬彦は落ち着いて近くの部下の一人に見てくるようにと指示を出した。むやみに駈け寄らないのは船の重心を傾けないという癖が染みついているからだ。

 だからこそ次の叫びが異質なものであることがわかる。

「なっ!?だ、誰か来てくれー!!」

 驚き顔を見合わせる犬彦たち。そして状況は完全に一変した。

「ぞ、賊だぁ!昇ってくるぞ!!」

 跳ね跳ぶように船倉を出る犬彦。そこに一本の矢が飛んできて甲板に真っすぐに突き刺さった。


 いったい何が起こったのか。それを理解するために少し時間を巻き戻して見てみよう。

 まず『それ』を最初に発見したのは甲板左舷にて見張りをしていた船員だった。彼は前方の岩礁の影から一隻の小舟が現れたのに気付いた。

 この小舟自体はさほど不自然なものではない。このあたりは牡蠣やアサリ、伊勢海老などが取れるため時折こうして近隣の村からの舟が出ていることを知っていたからだ。だが問題はその航路であった。その小舟はゆっくりとではあるが確実に廻船の進路を横切るように動いていたのだ。見れば舟にはじっとしている人影が一つ。釣りでも素潜りという様子でもない。船員は叫んだ。

「そこの舟!危険だから早く離れろ!」

 冬の海でこの声が届くかどうかはいささか疑問だが、これはむしろ他の船員に知らせるためでもあった。その目論見は成功し犬彦らが彼に気付き、また他の船員もにわかに緊張し始める。

 そしていよいよ小舟まであと数間という頃、見張りは小舟に乗っている男が手拭いで顔を隠していることに気付いた。どう考えても怪しい。船員は改めて叫ぼうとしたが、それより先に舟上の人影が増えた。どうやら身を屈めて隠れていたようだ。もちろん皆手拭いで顔を隠し、しかもそのうちの一人はこちらに向けて弓を構えている。船員は今度こそ迷わずに叫んだ。

「誰か来てくれぇ!賊だぁ!」

 船員が叫ぶのとほぼ同時に小舟の破落戸が一本目の矢を放った。放物線を描いて飛ぶそれは丁度船倉から出てきた船長の目の前に落ちて真っすぐに突き刺さる。開戦の合図には十分すぎるものであった。


「くっそ!全員周囲を警戒しろ!他にも敵がいないか探れ!」

「登ってくるぞ!一人じゃ抑えきれない!」

「落ち着け!弓矢に気を付けろ!」

 船上は一時混沌とするがそこは場数を踏んだ船乗りたちだ。すぐに落ち着きを取り戻し体勢を立て直す。結果敵の海賊の小舟は二隻あることに気付いた。一隻は先に見つけた左舷前方からの舟。もう一隻は船員らが前方の小舟に気を取られたころで右舷岩礁から密かに現れ近付こうとしていた。こちらももちろん皆手拭いで顔を隠している。

「こっちにも来た!誰か来てくれ!」

「落ち着け!まだ乗り込まれてはいない!とりあえず当面の敵と火にだけ注意しろ!」

「鉤縄が掛けられてるぞ!誰か縄を切れ!」

 見れば船の下部・喫水線のあたりに縄付きの鉤爪が引っかかっている。海賊らはこれを手繰り寄せて船に近付き乗り込むつもりだったようだ。だが先に気付けばこっちのものである。

「誰か切るもの持ってこい!それまで乗り込まれないように気を付けろ!」

 船員らは壁に身を隠しつつ棒やら艪やらで海賊らを押し返す。これには海賊側も打つ手がないようで、このままいけばうまく追い返せることだろう。

 しかしそんな時だった。左舷側で対応していた船員の一人がいきなり匕首あいくちを取り出し、なんと味方であるはずの船員を切りつけたのだ。

「ぐはぁっ!なっ!?どうして……!?」

「な、何やってるんだ、お前っ!?」

 唐突な仲間の裏切りに左舷側は混乱。その隙に海賊ら数名が一気に乗り込んでくる。そして今しがた切りつけてきた船員は迷うことなく海賊側に立った。

「お前……裏切ったのか!?」

「裏切った?悪いな。俺は元からこっち側だ」

 悪びれることなくうすら笑いを浮かべる元船員に、仲間だった船員らは奥歯を噛む。

「クソがぁ!皆来てくれ!乗り込まれた!」


 同時刻、甲板の混乱は船倉に潜んでいた鹿之助らにも伝わっていた。

「鹿之助……!」

「大丈夫です、若様!俺が……俺が命に代えてもお守りいたしますので!」

 恐怖に押しつぶされそうになりながらも必死に耐える正成とそれを支えようとする鹿之助。

 しかしここで非常にも乗り込んできた海賊たちの怒声が聞こえてきた。

「ガキを探せ!今日ここに乗っているガキは山中屋の店主の子供だ!そいつを押さえればあとはもうこっちのもんよ!」

「!?」

 身を固くする二人。彼らが言ったのは間違いなく正成のことだ。そしてそれを知っているということは単なる行き当たりばったりの海賊ではないということでもある。

 正成は急に自分が呼ばれたことに驚き、そして鹿之助は彼らの背後にあるものを察しとうとう来るべき時が来たと悟った。

(これは、やはりそういうことなのか……)

 ちらと周囲を見渡せば近くには十尺あまり(約3m)の艪があった。鹿之助はそれを手に取り正成に声をかける。

「若様。若様はここに隠れていてください。決して表に出てはいけませんよ」

「し、鹿之助?何をするつもりだ?」

 震える正成の声からは行かないでほしいという思いが見て取れた。しかしそれを振り切って鹿之助は船倉を出る。

 甲板では今まさに船員と海賊との切り合いが始まったところであった。船員らの得物は棒や端材、艪であるのに対し海賊らは容赦なく脇差や匕首を振っている。見るからに劣勢の中、鹿之助は持っていた艪で力任せに海賊たちを弾き飛ばした。

「離れろぉっ!」

「ぐはぁっ!?」

「お、おう!鹿之助か!助かった!」

「ああ、任せろ!」

 鹿之助がぶんと艪を振り回すとその迫力に海賊らはひぃと怯む。しかしそれも一瞬のことで、海賊らは鹿之助の顔を見るや何やらひそひそと話し始めた。

「あいつの馬面、もしや……」

「ああ、きっとそうだ。あいつが……」

「何をごちゃごちゃとしゃべっている!さっさとかかってこい!」

 檄を飛ばす鹿之助。しかし海賊らはもう怯んだりはしなかった。それどころか鹿之助をあざけるかのような目で見てすらいる。

「な、なんだ!どうした!かかってこないのか!?」

 海賊らの態度の変化に不安になる鹿之助。しかしその理由はすぐにわかった。

「ふふふ。お前の相手は別にいるということだ。さぁて、今度こそちゃんと説得してくれよ、兄弟っ!」

 一人の海賊がそう叫ぶと乗り込んできた海賊の一人がゆっくりと手拭いを外し、その顔をあらわにした。

 そこにあったのは鹿之助によく似た、本物の馬と見間違うかのような馬面であった。

「熊兄……!」

「……」 

 紀州南端部、岩礁ひしめく海上にて馬人の兄弟は最悪の形で再会を果たした。

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