鹿之助 兄と再会する 1
大坂湾に面する波止場。ここでは屈強な上荷差したちが日夜右に左に働いている。そんな中で一人の古参の上荷差しが同僚の不調に気付き声をかけた。
「どうした鹿之助。元気がないみたいだが体調でも崩したのか?」
「あ、いえ大丈夫です。何でもありません」
「そうか。だがこれからもっと寒くなるからな。おかしいと思ったらすぐに休むんだぞ」
そう言って自分の持ち場に戻っていった先輩上荷差しの背中を見ながら鹿之助は小さくため息をついた。
(いけないな。これでは逆に目立ってしまう……)
指摘された通り今日の鹿之助は普段よりも仕事が遅かった。いつもは五十貫(約190kg)くらい平気で担いでいるのに今日は三十貫(約100kg)ほどで抑えていたり、舟への積み込みもどこかのろのろと遅れていた。
しかしそれは体調不良のためではなく鹿之助自らが意図した遅れであった。生真面目な鹿之助がなぜこのような真似をしたのか。それは彼が再度あやかしだとバレることを恐れていたためであった。
鹿之助が三厳に
(困ったな。まさか今更普通の人の振りがこんなにも難しいだなんて……!)
鹿之助が人一倍どころか三倍四倍も働くのはすでに周知の事実である。そんな中で今更人並み程度に担いだところで先程のように体調不良を疑われるのが関の山であった。
(このままでは遅かれ早かれ俺が馬人だと周囲に知られてしまう。しかしいったいどうすればいいというのだろうか……)
悩む鹿之助。しかしこの日もまた碌な答えは出ず、鹿之助は一人ため息をつきながら帰路へと着くのであった。
鹿之助の住む長屋は当時の大坂の南西部・島之内の一角にあった。このあたりは大坂の役後に急速に再開発された区画であり、そのためその裏長屋には戦後に流れ込んできた余所者やわけあり者が多く住んでいた。鹿之助のような者からすれば実に居心地のいい地区である。
そんな長屋に鹿之助が戻るとそれを待っていたかのように近くの戸から白髪頭の初老の男が出てきて声をかけてきた。
「おぅ鹿之助、ようやく帰ってきたか」
この者は二つ隣に住むやもめの指物細工職人の男であった。同じ長屋故に多少の親交はあるもののこのように待っているのは珍しい。
「ようやくって、何かあったんですか?」
「それがな……お前さん、顔の似ている兄弟はいるか?」
「えっ!?お、おりますけど何故それを!?」
鹿之助は驚いた。兄たちの存在はごく一部の人にしか話していないためだ。そしてそれを聞くと初老の男はあちゃーという顔をした。
「あー、本当にお前の兄さんだったのか。実はな今日の昼頃にお前の兄だっていう奴がやってきてな、『訪ねてきたのだが留守のようなので入って中で待っててもいいか』と聞いてきたんだ。確かにあの顔はお前の兄弟だとは思ったんだが、さすがに家の中に入れる許可をやるのは不用心だと思って一度帰らせたんだよ」
当時の長屋には個別の鍵などはついていなかったため住人による相互監視が防犯の要となっていた。訪ねてきた男もそれをわかっているため素直に名前だけ名乗って引き下がったという。
「ど、どんな顔をしてましたか!?名前とかは名乗ったのですか!?」
「おいおい落ち着け。名前は『
これを聞くと鹿之助は大きく目を見開きわなわなと震えた。
「……兄です!間違いありません!」
熊之助。昔村を出て行った兄の名で、そして彼は栗毛馬によく似た顔を持つ馬人であった。
唐突な朗報に涙ぐむ鹿之助。この兄の消息を知ることが鹿之助が村を出た理由の一つであった。だが正直なところあまりの情報のなしのつぶてに鹿之助自身半分諦めてもいた。それがこんなところで手掛かりが見つかるとは。沸き立つ感情に肩を震わせる鹿之助に職人の男も優しく声をかける。
「長いこと会ってねぇのか?」
「十年以上……大坂の役の頃に名を挙げると言って村を出て行ったのです……」
「そうかそうか……あの頃の若い奴ならそれも仕方ねぇ……」
そう言って男は鹿之助が落ち着くまで黙って待ってやった。
しばらくして落ち着いた鹿之助は改めて話を聞いた。
「兄はまた来るとおっしゃっていたのですね?」
「ああ。お前さんの帰る大まかな時刻を教えといたから、あと半刻もしないうちにまた来るんじゃねぇかな」
「そうですか。ありがとうございます……ところで兄は一人だけだったでしょうか?」
「ん?一人だけだったが何かあるのか?」
「兄は二人いるんです。次兄の
猪之助。鹿之助の二番目の兄でこちらも十数年前に熊之助と共に村を出ており、その容貌は白毛馬に似ていた。
しかし男はこれには首を振る。
「いや、他にそれらしいやつはいなかったな。連れがいるとかも特には言ってなかったし……。あぁ、でももしかしたら手分けして探していたのかもな。もう一度来た時に一緒に来るんじゃねぇかな」
「そうですね。とりあえず家で待ってみます」
男に礼を言い自宅に戻る鹿之助。そのままはやる気持ちを押さえて半刻ほど待っていると、ふと外の方で誰かが話す声が耳に入ってきた。一人は先の指物細工の職人の男。もう一人は聞き覚えのない、無骨な若い男のような声だ。
(これはもしや……)
鹿之助が中腰で固まって待っていると、にわかに戸が叩かれた。
「おぉい、鹿之助。さっき話したお客さんだよ」
鹿之助は跳ぶように戸を開けた。その先にいたのは先程の職人の男。そしてその後ろには栗毛馬のような顔をした男がいた。
その馬面の男は鹿之助を見るなりにやりと笑った。
「大きくなったな、
鹿之助の双眸に思わず涙があふれた。最後に見たのはもう十年以上も前である。しかしそれでも見間違えるはずがない。そこにいたのは間違いなく鹿之助の兄・熊之助であった。
「お久しぶりです……
訪ねてきた馬人の男――それは間違いなく鹿之助の兄である熊之助であった。十数年ぶりの再会に感極まった鹿之助は思わずその場に泣き崩れた。
「おいおい、泣き崩れる奴があるか」
「す、すいません。ですがつい感極まって……」
「……まぁ十数年ぶりだからな。大きくなったな、鹿之助」
「はい!熊兄もお変わりなく!」
人目もはばからず涙を流す鹿之助。見れば熊之助の目にも光るものが見える。ついでに仲介役となってくれた職人の男ももらい泣きをしていた。
「よかったなぁ鹿之助。兄弟と再会できてよぉ」
「ありがとうございます。お世話になりました」
「恩に着ます」
「いいってことよ。それじゃあ俺はそろそろ帰るぜ。あとは兄弟水入らずでゆっくりとしてな」
そう言って去る男に頭を下げて見送ったのち、鹿之助と熊之助は改めて二人して部屋へと入った。
「さぁどうぞ。狭い家ですが」
「いやいや、いい所じゃないか。あ、これは土産の団子だ。安物ですまないが他に思いつかなかったんでな、許してくれ」
「とんでもない。私としては熊兄に再会できただけでも感無量ですよ」
鹿之助のこの言葉はまんざら誇張というわけでもない。
(あぁまるで夢のようだ!生き別れた兄とまた会える日が来るだなんて!)
一時は諦めかけた夢。それが数年越しに叶ったのだから喜びも
しかし鹿之助は完全に手放しで喜べたというわけでもなかった。再会したのは長男の熊之助だけで次男の猪之助の姿は見えない。始めは再会に歓喜していた鹿之助であったが徐々に嫌な予感に胸が締め付けられる。熊之助が話してくれるかもと待っていたがその気配もない。とうとう耐え切れなくなった鹿之助は意を決して熊之助に尋ねた。
「あの、熊兄……一つ訊いてもいいですか?」
「ん?どうしたんだ改まって。何でも言ってみろ」
「では……
熊之助は一瞬固まり、そしてあえて何でもない風を装って答えた。
「
「そ、そんな!」
察してはいたが改めて聞かされるとショックで言葉を失う鹿之助。それを慮ってしばらく待ったのち熊之助は続きを口にする。
「三年ほど前だったかな。なんてことはない、流行り病が悪化してぽっくりだ。苦しんだ期間が比較的短かったのが唯一の救いだっただろうな」
「……どちらで亡くなられたのですか?」
「近江(現滋賀県)の西の方だ。骨もそこで知り合った寺に無理を言って埋めてもらった」
「そうですか……こちらも数年前に母上が亡くなりました」
「そうか、母上もか……最後に何か言ってたか?」
「兄上らのことを最後まで気に掛けておりました。ですがこれで、墓前にですが報告もできましょう」
「そうか……」
神妙な空気が流れる室内。しばらく二人は何もしゃべれずにいたが、やがて熊之助がおもむろにパンと膝を叩いた。
「やはり団子だけじゃあ足りなかったな。何か食うものはあるか?このままじゃあ夜中に腹が減って起きてしまうぞ」
熊之助の気遣いを悟り鹿之助はバッと立ち上がった。
「そ、そうですね。これだけでは物足りないですよね。ちょっと待っててください。すぐに何か買ってきますので」
そう言うと鹿之助は慌てて外へと駆けていった。その背中を見て熊之助は「変わらんな、あいつも……」としみじみとつぶやいた。
夕食を買いに町に出た鹿之助は半刻ほどしたのち、両手に山ほどの酒やら肴やらを抱えて戻ってきた。
「また随分と買い込んだな」
「へへ、具合がわからなくてつい……まぁ腐る時期でもないですし大丈夫でしょう」
そう言って鹿之助は買ってきたものを並べる。魚の切り身に田楽を数種。蒸した豆に団子も新たに少々。そして最後に五貫(約19kg)はありそうな酒甕をどんと部屋の中央に置いた。甕の紋はもちろん山中屋分家の
「甕ごととは……なんだお前、吞める口だったのか?」
「いえ、そういうわけではないのですが、酒を買いに行ったら丁度顔見知りが店番をしておりまして。それで世間話がてら事情を話したら、こういう時は半端なことなどするものではないと言われ思い切って買ってみました」
「商売上手な店番だな。どれ、ならその口車に乗って浴びるほどに呑んでやろうか。当然付き合うよな、鹿坊」
「お供します、熊兄」
こうして二人は遅くまで再開を祝しての酒盛りをしていた。
その翌朝、鹿之助は久方ぶりの二日酔いに苦しみながら目を覚ました。
「くぅ……頭が痛い……。いったい何時ぶりだ?あんなに呑んだのは?」
記憶はほとんど残っていないがどうやら随分と無茶な呑みをしたようだ。周囲の床には御猪口や食いかけの団子、魚の骨に田楽の串などが転がっている。そして隣では熊之助が豪快にいびきをかいて大の字になって寝ていた。
(熊兄……やはり夢ではなかったのだな……)
もう長いこと一人寝をしていた鹿之助。それを別段寂しいと感じたことはなかったが、改めて隣で眠る兄を見ると胸に不思議な温かさを覚える。いっそこのまま二度寝としゃれこみたかったが今日も普通に仕事があった。鹿之助はそろりそろりと朝の仕度を始める。熊之助が目を覚ましたのは鹿之助が間もなく出ようとする頃だった。
「ん……朝か……」
「あ、すいません。起こしてしまいましたか」
「気にするな。それにしても久しぶりによく飲んだ。まだ頭がふらつく」
「ははは。私もですよ」
そうは言いつつも鹿之助はすでに身支度を済ませ家を出る態勢に入っていた。
「仕事か。今日くらい休んだらどうだ?」
「そういうわけにもいきませんよ。熊兄はいかがなさるおつもりですか?」
「そうだな……友人を訪ねてみようと思っている。まだ大坂に残っているかは知らんがな。……いや、その前に酒を抜かんとな」
「お大事に。私は昨日と同じころには戻ってきますので」
「ああ、よく励めよ」
「はい、行ってまいります」
こうして鹿之助は――若干頭は重いものの――いつものように波止場へと向かって行った。
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