柳生三厳 大坂に入る 3
山中屋年寄役・宗信との会談を終えた三厳と与六郎。返答こそ保留になったものの十分な手ごたえに二人はひとまずほっと胸をなでおろした。
さて、これでやるだけのことはやった。これ以上長居をしても先方に悪いだろうと三厳らは腰を上げて退室しようとする。しかしそれよりも先に宗信の方が口を開いた。
「ところで三厳様方はこれからいかがなさるおつもりで?すぐに柳生庄の方へと戻られるのでしょうか?」
三厳は一瞬考える。二人は当初用が済めばすぐに柳生庄に戻るつもりであった。大雪でも降れば帰郷が面倒になるからだ。しかし宗信のこの尋ね方は何か頼み事でもあるのかもしれない。
「……そうですね。とりあえずもう一日二日くらいは大坂を観て回ろうかと。こちらまで足を延ばす機会はなかなかありませんからね」
「そうですかそうですか、それがいいでしょう。ここはいい町ですからね。ところでそれならば一度わたくしどもの船を御覧になられてはいかがでしょうか。案内役はこちらからお出ししますので」
「ほぉ、それはありがたい。それではお言葉に甘えさせていただきましょうかね」
急な提案に三厳は顔では歓迎したが内心では不審がった。そこで宗信がその『案内役』とやらを手配している間にこそりと与六郎に問いかけてみる。
「どう思う?」
「本意まではわかりかねますが凝った策などはないでしょう。そんな手配をする暇などありませんでしたからね。もしかしたら単にこれで『返事は保留にしましたが良好な関係を築きたいとは思っております』とでも言いたいのかもしれません」
「なるほどな。あるいは言葉通り船を自慢したいだけかもしれないしな」
「いっそそれだったら楽なんですがね」
そんな会話をしているうちにやがて案内役と思われる青年が緊張した様子で部屋にやってきた。
「宗信様。何か御用でしょうか?」
「若様、お待ちしておりました。どうぞこちらに」
(若様?)
三厳らが見つめる中、宗信がさっそくその青年の紹介を行う。
「こちらは我が主人・幸元様の八男・
宗信が案内役として推薦したのはこの山中屋の主人の息子・山中正成であった。紹介に合わせて正成が丁寧に頭を下げると、その所作やこざっぱりとした格好から育ちの良さが見て取れる。聞けば歳は十八。しかし八男という弟気質のためかどこか年齢よりも幼い印象を受けた。そんな正成に宗信は続けて三厳たちを紹介する。
「こちらのお方ですが、大和の柳生宗矩様は知っておりますな。江戸の上様の剣術指南役に就いておられるお方です」
「はい。存じております」
「その嫡男であらせられる三厳様です。江戸では上様の御小姓などもなされていたお方です」
「そ、それはまた……!」
相手の思わぬ経歴に驚いた正成は慌ててもう一度頭を下げた。ここ大坂では将軍縁故の者などなかなかお目にかかれやしないため、そういう反応にもなるのだろう。
「それでですな、若様。若様には三厳様らを波止場まで案内し、うちの店の船をお見せになられてほしいのです」
「わ、私がですか!?」
「ええ。頼めますかな?」
正成は一瞬言葉に詰まったが、それでもごくりと唾を呑み覚悟を決めた。
「承知いたしました……!この正成、これより三厳様方らを案内してまいります……!」
その一部始終を眺めていた三厳は(なるほど……)と心の中でつぶやいた。
(なるほど。この小僧が将来山中屋の海運業を継ぐのか)
これも昨日の調査で知ったことなのだが、山中屋の主人・幸元は自分の子供たちを積極的に分家化、独立させることで勢力を拡大させてきた。例えば長男の清直は摂津国小浜村(現兵庫県宝塚市)に分家して醸造業を営んでいるし、同じく次男・秀成や三男・之政もそれぞれ大坂市中に分家して酒を造ったり売ったりしている。
ならば近年始めた海運業もいずれ誰かに継がせることは想像に難くない。その候補となっているのがこの正成なのだろう。
三厳は与六郎にこそりと耳打ちをした。
「次期店主候補と会わせるとは、これはもう先の案を承諾したと思ってもいいのだろうか?」
だが与六郎はあくまで慎重だった。
「どうでしょう。あるいは単に稽古をさせたかっただけかもしれませぬ」
「稽古?」
「ええ。大名や他の
見れば正成は緊張しっぱなしでなるほど跡継ぎになるにしては貫禄の方がまるで足りていない。そこで場数を積むための三厳なのだろう。
確かに三厳は旗本の息子であり将軍の元小姓でもあるが、一方で直接の領主というわけでもなく今は江戸からも離れている。つまり言ってみれば今の三厳は偉くもあるし偉くなくもあるということだ。ちょっとした社交の練習には丁度いい相手だろう。これに三厳はにやりと笑った。
「なるほど『打太刀』役か。ある意味適役だな」
打太刀とは剣術の稽古において相手の剣を受ける役のことである。このとき打太刀はただ受けるのではなく、相手の正確な太刀筋を引き出したり悪い癖を咎めて指導したりする。そのため基本的に上級者が務める役であり三厳もよく家光などの打太刀を務めていた。
「向こうにどんな意図があろうとも次期店主と縁を深めて悪いことにはならんだろう。俺や父上も言うなれば打太刀で名を上げたようなものだしな」
こうして三厳と与六郎は山中屋八男・山中正成の案内で大坂湾へと船を見に行くこととなったのであった。
「こちらにございます、三厳様。与六郎様」
案内役を任された正成はまず二人を近くの川――東横堀川へと案内する。この川は当時の大坂城城下町の中央付近を南北に走っている水路で、川岸には幾隻もの小舟が係留されていた。正成はそのうちの一隻、十石舟の櫓漕ぎに声をかけ何やら話をする。どうやらこの舟と人夫は山中屋の者のようだ。やがて話がまとまった正成が戻ってくる。
「お待たせいたしました。波止場までは少々距離があります故こちらの舟で向かいます。どうぞお乗りください」
「ほう、構わないのか?店で使っている舟なのだろう?」
「お気になさらないでください。舟ならまだございますし、現場の視察のために舟で移動することはよくありますので」
「そうか。ならば遠慮なく」
三厳らが乗り込むと舟は東横堀川を上流の方に向かって進んでいく。
「おや。海に向かうのではないのか?」
「はい。目的地は海の方ですが、ここからだと下流は混雑しており無駄に時間がかかるのですよ。なのでまずは川幅の広い大川へと向かいます」
正成の説明通りしばらく北上すると舟は町の北部を流れる川――大川へと合流した。この大川流域はのちに開発されて蔵屋敷が建ち並ぶこととなるのだが、この頃はまだ開発されておらず中洲がぽつんぽつんとあるばかりの文字通り大きなだけの川であった。そんな開けた川に冬の風がひゅうと吹く。
「うぅ。さすがに水上だと冷えるな」
肩をすくめた三厳に正成がはっとする。
「あっ!す、すみませんでした!そうですよね。この時期なら陸路の方がよろしかったですよね……。申し訳ございません。気が回らなくって……!」
焦る正成。気が利かなかったのもそうだが、失態とみるやすぐに焦るところからもやはり場数は足りていないようだ。そんな若い正成に三厳は年長者の余裕を見せる。
「なに気にするな。冬は寒いものだ。それに柳生庄は山奥の田舎だからな。こうして舟に揺られるのも久々で悪くない」
「さ、左様でしょうか?」
「そうともそうとも。ところであそこに見えるのは寺か何かか?随分と歴史があるようだが……」
「あぁ。あちらは薬師堂と呼ばれるお堂でして……」
三厳の機転で正成はどうにか落ち着いたようだ。
(まったく、これではどちらが先導しているのかわからんな)
苦笑する三厳らを乗せた舟はやがて大川河口近く、大坂湾に面する波止場へとたどり着いた。
大坂湾。言うまでもなく現・大阪湾であり南の紀伊水道を抜ければ太平洋に、西の明石海峡を抜ければ瀬戸内海へとつながるまさに西国流通の拠点とも言える湾である。江戸初期であってもその盛況ぶりは変わらず、その沖には常に長距離輸送用の
この頃の廻船は全長が三丈半(約10m)ほどで幅は二丈(約6m)ほど、帆柱のあるものは高さ三丈(約9m)ほどが平均だった。現代の感覚で見ればややこじんまりとしているがこの時代では十分に巨大な建造物である。それが岸から少し離れたところに十も二十も並んでいるのだ。三厳らが思わず感嘆の声を漏らしたのも頷けることである。
「おぉ。さすがに近くまで来ると迫力が違うな……」
「ええ。周囲の雰囲気も町のそれとは一味違いますね」
圧倒してくるのは船だけではない。この波止場には全国各地から集められた荷物、あるいはこれから各地に運ぶ荷物が集まって来ている。そしてそれを積み下ろしする舟や人夫たちもだ。それだけの物と人が集まれば当然騒々しいことこの上ない。荷物を持ち上げる掛け声や波の音に負けないように張り上げた指示の声、あるいは単純に邪魔な相手に対しての罵声が途切れることなく響いている。
「さぁ持ち上げるぞ!それっ!」
「どいたどいた!ぼぉっとしてんじゃねぇぞ!」
「誰だぁ!?こんなところに荷物を置いたのは!」
さながら鉄火場のような雰囲気であったが、ここで面白かったのがこの異質な雰囲気の中で正成が当たり前のように落ち着いていることであった。
(ほう。道中は頼りないと思ったが、さすがに家業の方ではきちんと肝が据わっているようだ)
屋敷や舟の上ではおろおろとしていた正成であったがこの姦しい光景には慣れているらしく、なんなら朗らかな顔で「今日も問題はないようですね」とまで言ってのけていた。
「問題ない、か。随分と騒々しいがこれでいつも通りなのか?」
「そうですね、大体いつもこんな感じです。特にここは他の店も荷揚げを行う場所ですからね。見栄や対抗心で気が大きくなっている者も多いのでしょう」
そう語った正成のすぐそばで早速人夫二人の睨み合いが始まった。二人はやれ「お前が悪い」やら「先に絡んできたのは……」などと言って一触即発の空気を作っていたが、正成はそんなことなど露ほども気にせずにすたすたと歩きやがて沖に停泊する一隻の船を指差した。
「あ、あちらです。あちらがわたくしどもの船にございます」
正成が指差す方を見てみれば、そこには一隻の弁才船が見えた。
「おぉ、あれがか。なるほど立派な船だな。あれはどれほど積めるのだ?」
「ありがとうございます。こちら百五十石(積載量約42トン)ほど積むことができます。うちはこれとあと二隻、これより小型の百石ほどの船を有しております」
「三隻もか!それは今は出ているのか?」
「はい。一隻は備前の方に、もう一隻は江戸の方に。備前に出した方は大晦日までには戻ってくるでしょうが江戸に出した方は向こうで年を越すようにと言っております。さすがに海の上で正月を迎えさせるのは忍びないですからね。おそらく今頃は江戸見物でもしていることでしょうよ」
そうほくほくと奉公人を語る正成からは一瞬大店の店主のような不思議な貫禄が垣間見えた。
(こやつ……最初は単なる小心者かと思ったが得手不得手での差がとても大きいな。後見人がしっかりと着けば存外大物になるやもしれんな)
そんな三厳の視線に正成が気付く。
「どうかなされましたか、三厳様?」
「いや、なんでもない。ところでではあの船はどこへと向かうのだ?
三厳が誤魔化すように視線を向けた先は山中屋の弁才船とそのそばに張り付く小さな舟々であった。
先程から船は『沖に泊めてある』と言っていたが、これは外洋に出るような大型の船は水深の問題で港に接岸できないためであった。ではこの接岸できない船の荷下ろしはどうするのかと言うと、小型の舟で近づいてそれに小分けして乗せて岸まで運ぶのである。こういった荷物の積み下ろし用の小型の舟を『上荷舟』と呼び、それを行う人夫は『
改めてその上荷舟を見てみれば彼らは岸から出るときは荷物を積んで船へと向かい、船から帰ってくるときは何も乗せずに帰ってくる。つまりは今は積み込みの最中で、当時の保存技術から鑑みてそう遠くないうちに出航するということだ。
「さすがは三厳様。目端がお利きなさる。あれは近々尾張へと向かう船になります」
「尾張……」
因縁浅くないその名前に三厳は小さく反応するが、正成はそれに気付かず話を続ける。
「途中
「江戸が第一というわけではないのだな」
「うちの規模ではまだ安定しての江戸への行き来は難しいですからね。半年に一往復でもできればいい方です。もう少し人手や伝手があれば何とかしようもあるのですが……しかし嘆いていても始まりませんからね。今はとりあえずできることからしていくのみです。そしてゆくゆくは山中屋をもっと大きくしていく所存です」
「……なかなかの野心だな」
「そ、そうでしょうか?やはり分不相応でしたでしょうか?」
「いや、いいと思うぞ?むしろそのくらいの図々しさでもなければ家の主なんぞ務まらないだろうからな」
三厳が褒めると正成は「ありがとうございます」と笑った。その笑顔はやはり幼くもあり頼もしくもあった。
さてこうして遠くまで続く大坂の海を眺める三厳、与六郎そして正成の三人。そんな三人にふと背後から声がかかる。
「おや、若様。いらしていたのですか。これはちょうどよかった」
振り向けばそこにいたのは四十代ほどの男。この寒空の下で小袖の裾をまくって動きやすい格好をしていることから上荷差しの一人だろう。正成は三厳らに「ここの人夫頭です」と言ってから彼に向き直る。
「ええ、ちょっと所用で。それよりちょうどよかったと言ってましたが何かあったのですか?」
「それが集荷の具合について少しお話したいことがあったのですが……」
どうやら現場の方で何かあったらしい。正成はすぐにそちらに向かおうとしたが同時に三厳たちを案内していたことを思い出し足を止める。
「あぁそれなら、ええと……」
板挟みになり困ったという顔を向けてきた正成に対し三厳は半笑いで手を振った。
「どうぞどうぞ行ってください。こちらは適当に海でも眺めておりますので」
「も、申し訳ございません。すぐに戻ってきますので」
そう言うと正成は人夫頭を伴って近くの詰め所へと駆けていった。その背中を見ながら与六郎がつぶやく。
「……頼りになるのかならないのか、はっきりしない青年ですね」
「ふふっ。概ね同意だ。だが下手に気負っていたり舐めているよりはマシだろう。なにより野心がある。存外ああいった者の方が大物になるやもしれないぞ」
「そうでしょうか?私にはいまいち想像できませんね。数年後に彼がここの連中を従えている姿など」
与六郎が「ここの連中」と言ったのは波止場にて荷物の積み下ろしを行う人夫たち、上荷差したちのことである。彼らは仕事が力仕事なだけに屈強な者が多く、また頭を使う必要もないので思慮の浅い粗暴な者も多い。そんな彼らが果たしてあの若いお坊ちゃんにどれほど従ってくれるのだろうか。
「まぁそうだな。よほどうまくやらないと舐めてくる者も出てくるだろう。誰か間に入る者がいればいいのだが、どうだ?伊賀から出せそうか?」
山中屋と協力関係になればここにも伊賀の手の者が入る。うまく取り入ればより重きを置かれるようになるだろう。だが与六郎はいまいち乗ってこない。
「どうでしょう。確かに狙ってもいい地位ですが、そもまだ山中屋と協力すると決まったわけではないですからね」
「慎重だな。俺はもう九分九厘は決まったようなものだと思っているぞ。初めての大役に緊張でもしているのか?」
三厳が茶化すと与六郎は小さくむくれた。
「慎重で悪いことなどないでしょう。特に今回の件は複数の勢力が関わってくる話。思わぬところに落とし穴があったとしてもおかしくはありません」
「それは道理だが、俺たちもやるだけのことはやったのだからこれ以上は悩んでも無駄だろう。ほれ、海でも眺めてみろ。ちっぽけな悩みなんぞ馬鹿らしくなってくるぞ」
三厳の言う通り、眼前の海は冬場にしては波も穏やかで遠くの小豆島の影もよく見えた。沖に並ぶ廻船は規則正しくゆらゆらと揺れていたし、幾艘もの上荷舟も勤勉に船と波止場とを行き来している。上荷差したちの怒声は少々過激だがそれも一つの御愛嬌。すべてがうまく回っている様はまさに泰平であり、問題が起こる気配は微塵も感じられなかった。
「……そうですね。やれるだけのことはやりましたし、あとは果報を待ちましょうか」
海を眺めて落ち着いた与六郎。確かに少し気負いすぎていたのかもしれない。どこかで茶をしばき一息ついた方がいいだろう。そう思い隣の三厳を見て与六郎はぎょっとした。なぜなら今度は逆に三厳の方が、まるで敵中にいるような険しい顔をしていたからだ。
「い、如何なされましたか、三厳様!?」
「いや、そのな……」
三厳は少し言葉に困ったのち、波止場に帰ってくる上荷舟を顎で指した。
「あの上荷差しが見えるか?あの今丁度帰ってきた舟に乗っている一番大きな男だ」
「一番大きな男ですか?あぁあの背が高くて体格も良くて……ものすごい馬面の男ですか」
与六郎も小さく目を見張る。三厳が示した男は尋常じゃないまでに馬のような顔をした男だったからだ。
「すごいですね。あれなら本物の馬と並んでも遜色ないくらいですよ」
与六郎は三厳があの男のあまりの馬面っぷりに目を奪われたのかと思った。しかし三厳の態度はどうもそういう風ではない。
「馬面……まぁ馬面なことに間違いはないのだがな……」
「何か気になることでも?」
「……一言で言ってしまえばあいつは普通の人ではない。あやかしだ」
「ええっ!?」
「そしてあの舟……山中屋の舟だ……」
「!」
思わぬ所より生じた不安要素。与六郎は自分の体温がさっと冷えていくのを感じ取った。
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