柳生三厳 山中幸元からの使いの訪問を受ける

 新左衛門こと清厳が柳生庄を去ってから数日経ったある日のこと、庭先で素振りをしていた三厳はふと遠い空にとび一羽を見つけその手を止めた。初冬の空に一羽輪を描くその姿に三厳は何とも言えぬ気高さと物寂しさを感じ取る。

「ふむ、ここも一気にさみしくなったものだ」

 ここ数日でここまで共に旅をしてきた平左衛門や清厳らが柳生庄から去ってしまった。友重にも暇を出して故郷に帰しており、また長年屋敷を開けていたため奉公人も代官・頼元から借りた下男二人しかいない。下男二人は頼元が寄越しただけあって実に勤勉で、普段は三厳の視界内にすら入ってこようとしなかった。また彼らは以前より屋敷の手入れを任されていた者らしく、三厳が何か説明や指示を出すまでもなく掃除や炊事等をこなしていた。有能と言えば間違いなく有能ではあったのだが、その温かみのないつながりに三厳は少し寂しくなったりもした。

(まったく、この年で人恋しくなるとはな。もう子供ではないというのに)

 そんな雑念を払うかのように木刀を振る三厳。しかし一度感じた冷たい風はそうそう忘れることもできない。

(思えばここまで静かなのも久しぶりだな。江戸の屋敷ではなんだかんだで多くの門弟や下男がいたし、小姓勤めの方でもいつも誰かが隣にいた。それが今やこんなところで一人剣を振っているなどと去年の私に言って果たして信じただろうか)

 運命の妙に苦笑しながら手拭いで汗をぬぐう三厳。そこに与六郎がさっとやってきた。

「三厳様。ただいま戻りました」

「与六郎か、ご苦労。それで首尾は?」

 三厳は与六郎に数日前に柳生庄を発った清厳――彼が無事に尾張へと帰還できるかの監視を頼んでいた。

「はい。清厳様は無事に尾張へと戻られました。道中でのお怪我もございません」

「そうか。よくやった。監視や護衛に協力した者にはよく褒美をやっておくように」

「はっ」

 親族ということもあるが万が一があれば江戸と尾張との関係が一層悪くなってしまう。そんな清厳が無事に帰り着いたことで肩の荷が一つ降りた三厳はふぅと一つ息を吐いた。その気の抜けたため息に与六郎は三厳の不調を感じ取る。

「どうかなされましたか、三厳様?お元気がないように見受けられますが」

「ん?いや、とうとうすることがなくなったと思ってな」

 一応三厳は柳生庄の領主・宗矩の嫡男であるため、するべきことがないわけではない。だが、細かい話だが、公的には『柳生三厳』はまだ江戸の柳生屋敷内にて蟄居していることになっている。そのため正式な辞令が来るまでは三厳は公的な仕事が出来ずにいた。

「ところがその使いがなかなか来なくてな。さすがにそろそろ暇になってきたから仕事の一つや二つでも抱えたいところなのだが……」

「尾張でいろいろとなされたことが尾を引いているのやもしれませんね。ここは変に考えず素直に羽を伸ばすのがよろしいかと。さすがに年を越す頃には何かしらの動きもあるでしょうぞ」

「まぁ確かに年の瀬だしな。下手に新しいことをすることもないか。……ところでお前はこの後暇か?暇なら一杯付き合え。銚子を温めさせるぞ。体も冷えているだろう」

 実のところこの時与六郎には急ぎではないものの幾つかするべきことはあった。しかし明らかに退屈している三厳からの誘いを無下にするのも情のないことである。与六郎は「お供します」と言って共に屋敷内へと入っていった。


 さてそれから数日後、この日もまた三厳は柳生屋敷の庭にて素振りを行っていた。ここ数日の三厳はあえて基本的なところ――例えば柄の握りや切先の位置といったものを一から見直していた。始めは幼少期を思い出してのことだったが、いざやってみるとこれがなかなか奥が深く、構えて改めてわかることや古い口伝との齟齬が色々と見つかってくる。暇もあってか三厳が(これを突き詰めるのも存外面白いかもな)と思っていたところ、そこに再度与六郎がやってきた。

「三厳様。今よろしいでしょうか?」

 三厳は上段に構えたまま答えた。

「構わないぞ。何かあったのか?」

「はい、それが……三厳様にご挨拶に来た者がおりまして……」

 三厳は構えを解いて「俺に挨拶に?誰だ?」と尋ねる。

「大坂の山中幸元ゆきもと、その使いの者ですね。今は頼元様のお屋敷で待ってもらっております」

 三厳は来訪者の名前を二三度つぶやくがピンとこない。

「山中幸元、山本幸元……だめだ。知らないな」

「面識自体はないとおっしゃっておりました。主人の幸元殿は大坂にて『鴻池こうのいけ山中屋』という屋号で酒造りを行っているそうです。それ以前は摂津せっつ伊丹いたみにいただとか」

「伊丹の山中屋だと?それなら聞いたことがあるな。確か清酒の『江戸送り』の老舗だったか。今は大坂に出ているのか」

 さすが酒好きの三厳だけあって山中屋の屋号には聞き覚えがあった。

 ちなみに『江戸送り』とは地方で作った酒を江戸に送ることである。これは急速に発展した江戸、そこで生まれる大規模需要に応えるだけの醸造施設を江戸近辺に新たに作るのが難しかったためだ。こうして送られた酒は『下り酒』と呼ばれ、その安定した味わいは多くの江戸の酒豪を喜ばせた。当然その中には三厳もいる。

「まさかあの山中屋と縁ができるとはな……ん?待て。向こうは俺に会うためにやってきたということか?父上ではなく?」

「はい、その通りです。三厳様にと明言しておりました」

「どういうことだ?なぜ向こうは俺がここにいることを知っている?」

 父・宗矩は歴代将軍の剣術指南役という立場から多くの者から訪問を受けることがあった。またその縁で三厳の方に近寄ってくる者も少なからずいた。だが今回の場合は少し事情が違う。その使いとやらは初めからここに三厳に会いに来たというのだ。

 三厳がここ柳生庄にいるということはまだごく一部の人間しか知らないことである。知っているとすれば柳生庄の者か三厳として挨拶に出向いたところの者。しかし里の者に大坂の実業家とのつながりがあるとは思えず、また挨拶に出向いた先もこちらの事情を知っているため無駄に噂を広めたりなどはしていないはずだ。平左衛門や友重、清厳も大坂とは全く違う方へと行っているし、山中屋にしても客として知っていただけで個人的なつながりはまるでない。

 ではなぜ山中屋は柳生庄に三厳が戻っているということを知っていたのだろうか?この疑問に与六郎は少し申し訳なさそうな顔をして答えた。

「申し訳ございません。どうやら先日興福寺で出会った吉次殿経由で知られてしまったらしく……」

「吉次殿経由で?どういうことだ?」

「はい、それがですね……」

 与六郎の話を要約すると次のようだった。まず先日出会った槍の名手・高田吉次であるが、彼の仕える播磨国・明石(現・兵庫県明石市)は瀬戸内海に面している国で、その地理を活かし近年は海運業に力を入れているそうだった。

 そして山中屋・山中幸元であるが、彼もまた最近大坂へと出てきて海運業を始めていた。酒造と海運と言うとまるで縁遠いようにも感じるがそこは先程述べた『江戸送り』である。近年の江戸の発展に目を付けた幸元は一念発起して事業の拡大を図ったというわけだ。

「それでどうやら丁度先日、明石と山中屋とで新しい海路についての打ち合わせを行っていたようです。吉次殿もその打ち合わせに明石の役人の護衛として参加していたようで、そこで話題に出てしまったのでしょうね」

「なるほど。そう言われれば確かに吉次殿に口止めのようなことはしていなかったな」

 与六郎が深く頭を下げる。

「申し訳ございません。私の落ち度です」

「気にするな。俺もうっかりしていたからな。それにしても早速使いの者を寄越すとは、その幸元なる者なかなか逞しい商人のようだ。面白い。ちょうど暇をしていたところだ。会うだけ会ってみようか」

 三厳は下男を呼び着替えと座敷の用意を指示する。そして間もなくして柳生屋敷に山中屋の使いの者が案内された。


 柳生屋敷奥座敷。そこに下男の案内で連れてこられたのは細い白髪を集めて髷を結う小綺麗な老年の男であった。彼は自らを山中屋の年寄役・坂下宗信むねのぶと名乗った。

「お目にかかれて光栄にございます、三厳様。手前、鴻池山中屋年寄役・坂下宗信にございます。今回は急な来訪にもかかわらず貴重なお時間を頂きましてまことありがたい限りです」

 宗信は平身低頭を絵に描いたような挨拶をするが、その姿には不思議と隙がない。

(関西の商人は海千山千だと聞いていたが、まさに聞きしに勝るという奴だな)

 三厳は静かに感心しつつ応対する。

「面を上げてください。家督を持っているのは父であり某はまだ若輩の身。こちらこそ名高い山中屋と縁ができて嬉しいですよ。それで今回はどのような用件でいらっしゃったのでしょうか。私が出来ることなら協力いたしますよ」

「いえいえ、協力だなんてそんな恐れ多い。今回はただ三厳様御帰郷の報を聞き、これを機に顔を覚えてもらおうと挨拶に来た次第です。なにせ手前共は最近大坂に出て来た新参者でして、こうやって足を使って覚えてもらう他ないのですよ」

 宗信は老獪に立ち回るが三厳もまたこういった手合いの相手は慣れている。三厳はまるで剣戟の間合いの取り合いのように程よい距離で相手をする。

「ははは。山中屋が新参者だとはまた冗談を。そちらの酒なら江戸にいた時から美味しくいただいておりましたよ」

「それはありがたい。それならば土産を持ってきた甲斐があったというものです」

「ほう。土産ですか」

「はい。当家自慢の諸白もろはくを二甕ほど。きっとご満足いただけることでしょう」

「それは素晴らしい!」

 三厳はそう言って満足そうに膝を打って笑って見せた。一応断っておくと、この三厳の喜びは半分は演技である。向こうの下心は百も承知。それでもあえて相手の厚意を受け取るくらいの処世術なら三厳も取得していた。なおもう半分は本心からの喜びでもあった。

「山中屋の清酒は一級品ですからな。いやはや、年の瀬にこんな上等なものを、まことにありがたい」

「お喜びいただけたのなら何よりです。お気に召されましたらどうぞこれからもご贔屓に。ご要望とあらばこちらからお届けもいたします」

「商売上手ですな。覚えておきましょう」

「はっ。ありがたきお言葉です」

 その後も三厳と宗信は互いに当たり障りのない会話を交わし、やがて面会は着地よく終わった。宗信は何度も頭を下げて屋敷から去り、そしてその姿が見えなくなったところで奥から与六郎がすっと現れた。

「いかがでしたか?」

 与六郎がこう尋ねると三厳は疲れたようにふぅと一息吐いた。

「終始食えなさそうな相手だったな。さすがは大坂に店を構えているといったところか」

「その割には落ち着いているように見受けられましたが」

「いやいや、いっぱいいっぱいだったさ。ほんの少しでも隙を見せていたらもっと付け込まれていたことだろうよ。はぁ……。これからはこんな手合いも増えるのだろうな」

 将軍・家光の側近・宗矩、その息子である三厳だ。改めて柳生庄にいることを公表すれば今日みたいに挨拶に来る者が後を絶たなくなるのだろう。

「まだ牢人相手に刀を抜く方が楽だったかもな」

「縁起でもないことを言わないでください。それであの山中屋、いかがなさるおつもりで?」

「特に何かすることもないだろう。今日のはただの顔見世、向こうだって種を蒔いただけだ。それよりも……」

 三厳はにやりと口角を上げる。

「それよりもあの使いの者が酒を持ってきたと言っていたがどこにあるんだ?」

 与六郎は少し呆れたようにため息をついた。

「酒甕なら三厳様たちがお会いになっている間にこちらの方に運ばせました。毒見の方も済ませてありますよ」

「でかした。それなら早速私も毒見に馳せ参じようかな。どうだ与六郎。お前も毒見に付き合うか?」

 こうして山中屋との会談一回目は互いに顔を見せ合うだけで終わったのであった。


 そこからさらに数日後経ったある日の昼下がり。この日は暇を与えて故郷に帰していた友重が柳生屋敷に顔を出しにきた。

「十数日ぶりですな、三厳殿。平左衛門様や清厳殿は帰られてしまったのですな」

「ええ。平左衛門様の方はわかりませんが清厳の方は無事に尾張に帰り着いたそうです。他にもここ数日で来客等がありまして……まぁとりあえず一杯お飲みください」

 そう言って温めた銚子をずいと勧める三厳。中身はもちろん先日山中屋・宗信から貰った諸白だ。

「これはかたじけない……ほぅ。これはまたなかなか上物の酒ですね。いつの間にこのようなものを?」

「ふふ。こちらもいろいろとありましてね。それよりも友重殿の方はいかがでしたか?久々の故郷は」

「変わってませんでしたね。最近では染物用の草木を植えたそうで活気もあって何よりでした」

 友重の故郷は柳生庄のすぐ東にある邑地おおじという村である。三厳も何度か足を運んだことがある村なだけに友重の語る情景は三厳にとっても懐かしいものであった。こうしてしばらく談笑していた二人であったが、ふとした折にスッと三厳の眼光が鋭くなる。

「それで例の件はいかがなされましたか?」

 これに友重も声の調子を幾段か落として答える。

「万事順調にございます」

 柳生庄に着いてすぐの頃、三厳は友重に暇をやっていた。表向きの理由は故郷に顔を出させるためでそれも間違いではなかったのだが、本当の理由は宗矩から依頼されていた沢庵和尚およびその近辺の調査の指揮を執るためであった。

 宗矩と親交のある禅僧・沢庵宗彭そうほう。彼は当代でも随一の知識人でありその交友関係・影響力は朝廷から大名までととても幅広く、そこが権力の一極化を目論む幕府にとっては目の上のたんこぶとなっていた。特に沢庵はもとより権力にくみするような人物ではなかったため親しい者たちの間でも衝突は時間の問題だと思われていた。宗矩もそのうちの一人であり、そのために折よく西に向かう三厳たちに調査を依頼していたのだ。

 さてそんな依頼を受けていた三厳は道中、伊賀の柳生家縁故の忍びたちに沢庵周辺の調査を依頼していた。これであとは柳生庄で待っていれば情報が集まるという算段だ。だがここで平左衛門という存在が障害となる。平左衛門は老中・酒井忠勝の家来である。そんな彼に幕府と微妙な関係にある沢庵とのつながりを見せつけるのはさすがに憚られた。そこで三厳らは平左衛門の目を避けるため情報の受け渡し場所を柳生庄ではなくそのすぐ近くの邑地にし、その指揮を友重に任せたというわけだ。そしてその友重が屋敷に来たということは調査の第一報がまとまったということだろう。

「それで首尾の方は?」

「とりあえず現状をまとめたものを手紙にして江戸の殿宛てに送りました。もちろん覗かれてもいいように暗号文化して。ただやはり状況は芳しくありませんね」

 友重が語るところによると朝廷や大きな寺社は現状表面上は幕府の定めた法に素直に従っているそうだが、やはり細かい所ではわざと報告しなかったり遅延したりと小さな反攻は続けているらしい。

「それには和尚も?」

「大なり小なり関わっているでしょうね」

 沢庵は数多の公家・高僧から相談を受けるような立場の者だ。昨今の京の情勢に全く無関係というはずもないだろう。仮に無関係であったとしても幕府からの追及は免れられないはずだ。

「ふむ。和尚は今はいずこにお住まいで?」

「沢庵殿なら現在は主に但馬たじま国・出石いずし(現兵庫県豊岡市)の寺に住まわれているそうです。ですが……」

 歯切れ悪くなる友重に三厳が嫌な予感を覚える。

「……何かあったのですか?」

「それが……その出石の寺近辺にて平左衛門様らしき人影を見たという報告があったのです」

「なにっ、平左衛門様が!?」

 さらに苦い顔をする三厳。平左衛門は京に用事があると言っていたことから十中八九朝廷・寺社勢力の調査だろうと予想はしていた。しかし急ぐ様子がなかったためそれほど重要ではない、ちょっとした事務手続き程度の用事だと思っていた。しかし但馬まで足を延ばしたということは相当本格的に調べているか、あるいはそうせざるを得なくなったということだ。

「これはいよいよ悠長なことを言ってられなくなるやもしれないですな」

「まったくです。ですがこれ以上大っぴらに伊賀の方々を使えばこちらの立場も危ういかと」

 情報収集に忍びを使うのは柳生家だけではない。伊賀・甲賀近辺の有力な大名ら――例えば津の藤堂高虎や大阪城城代の阿部正次、京都所司代の板倉重宗なども密かに諜報用の忍びを抱えていると聞く。加えて幕府と朝廷の一大事だ。かなりの勢力がかの地に目を向けていることだろう。そんな中で無駄に忍びを走らせていれば怪しく見られてしまうかもしれないし、最悪の場合謀反の恐れありなどと言いがかりをつけられるかもしれない。

「精々一人二人監視に置いておくくらいでしょうね」

「心もとないがそれが限度か……」

 三厳も沢庵のことは幼い頃より知っているため何とかしたいという気持ちはあった。しかし口惜しいかな今の三厳の力ではこれ以上のことは難しい。

(伊賀の忍びはこれ以上使えない。かといって俺も数年ぶりにこっちに戻って来た身だ。他に使える情報網なんて……)

 そう思いながら手元の盃を傾けた時、三厳はふと閃いた。

「いや、待てよ。もしかしたらこれは使えるかもしれないな……!」

 三厳はすぐに与六郎を呼び急ぎの仕事がないか、数日里を離れることができるかを尋ねた。

「問題はありませんが、どこかに向かわれるのですか?」

 三厳はにやりと笑い新しい盃に酒を注いで与六郎に出す。

「大坂だ。ついてきてくれるな?」

 与六郎は「はっ!」と言って盃を受け取った。

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