柳新左衛門 柳生庄を後にする

 柳生清厳には忘れられない記憶が一つあった。

 それは清厳がまだ五つの頃の話である。この日は何かめでたいことでもあったのだろう、珍しく尾張の柳生屋敷にて門弟たちも含めた酒宴が開かれていた。その宴の中には幼い清厳の姿もあった。もちろん酒はまだ飲めないが、代わりに門弟たちの語る戦話を肴に楽しんでいた。

「雨のように振る矢をかわして敵陣に乗り込み槍を振り回したんです。いやぁ、今思えば危険なことをしたものです」

「山中でばったりと敵兵士と出会いまして、互いに慌てて刀を抜いて撃ち合って……結局相手は逃げたのですが、一歩間違えればこちらが討ち取られていたかもしれませんね」

「素晴らしい働きだったとして当時の殿から短刀を下賜されましてな。それは未だに故郷の家にございます」

 大人たちの語る臨場感ある話に幼い清厳は「いつか自分も彼らのように武者働きをするのだろうな」と夢想した。この頃の武士の子供にはよくある夢である。そして勇ましい話の流れからか、話題はやがて柳生の剣豪たちの話になった。

「利厳様は諸国を行脚しながら剣の修行をなされたのですよ。剣に生きるとは正にこのことでしょうね」

「石舟斎様は若かりし頃に修行で大岩を一刀で切り割ったとか。今でもその岩は柳生の里に残されているそうですよ」

「柳生庄は東西交通の要所でして古来より多くの敵に狙われたそうです。そんな場所だからこそ柳生新陰流が生まれたのでしょうな」

 門弟たちによって語られる柳生家の逸話。もちろん酒の席だ、多少の誇張やおべっかもあっただろう。だが幼い清厳にとってはそのすべてが素晴らしく、そしてそんな柳生家の末席に自分がいることが誇らしかった。

「石舟斎様はすごいお人だったのですね」

「ええ、それはもう。昔柳生庄にて修行中に天狗と切り結んだという話もあるくらいです」

「それはすごい!……柳生庄ですか」

 そして幼い清厳は無邪気に父・利厳に頼み込んだ。

「父上!その柳生庄というところに是非行ってみたいのですが、連れて行ってくれますか?」

 その瞬間のことを清厳は未だに鮮明に思い出せる。それまで暖かい雰囲気で包まれていた場が一瞬ひやりと冷え込んだ。誰もが言葉を失い、言いようのない緊張感が部屋中に張り巡らされた。もちろんすぐに他の門弟らが気を利かせて話題を変えて場を取り持ったが、それでも子供ながらに清厳は自分が何かマズイことをしたのだということには気付いていた。

 その理由――つまりはもう一つの柳生家の存在を知るのはそれから数日後のことであった。


 目を覚ました清厳は今しがた見た夢の後味の悪さに憂鬱になりながら上体を起こした。

「なぜ今になってこんな夢を……」

 忘れてはいないが殊更思い出したいわけでもない記憶。それをなぜ今になって夢で見たのかと考えたがその理由は一つしか思い浮かばない。それはここがその柳生庄であるからだ。柳生清厳あらため柳新左衛門は最悪の寝覚めで柳生庄二日目を迎えた。


(今更ながら、まさかこんな形で柳生庄に来ることになるとはな……)

 ゆっくりと意識を覚醒させる新左衛門がまず感じたのは他人の家の香りであった。古木と初冬の朝の空気が入り混じった匂い。少し懐かしさを覚えるが、しかし嗅いだ覚えはない。分け隔てなく包み込むようでどこか他人行儀のような――それがこの歴代の柳生の者たちが暮らした柳生屋敷の香りであった。

(不思議な香りだ。懐かしいようなそうでないような。あんな夢を見たのはこの香りが原因か?)

 半覚醒で思案する新左衛門。そこに声をかけたのは先に起きていた儀信であった。

「あっ、おはようございます、新左衛門様」

「……おはよう。早いな」

「ええ、どうにも寝つけなくって」

 儀信からすればここは気を許せるものがほとんどいない敵地真っただ中だ。眠りが浅くなるのも仕方のないことだろう。

(あるいは私が油断しすぎていたのか?)

 思い返せば夢見こそ悪かったが睡眠自体はよく取れた。江戸柳生の支配圏の真っただ中だというのにだ。

(まったく、柳生の血のせいか?)

 新左衛門は自身の気の抜けっぷりに呆れてため息をついた。

「どうかなされましたか?」

「何でもない。それより朝食を頼もうか」

「左様で。では屋敷の者に申してきますね」

 この時代、狭い家ならまだしも、多人数が住まう広い屋敷では住人が一堂に会して食事をするといったことはしなかった。食事は基本膳に取り分け自室で行うもので、故に儀信は近くにいた下男に部屋に朝食を持って来くるように頼んだ。下男は三厳から客人は丁寧にもてなすように言われていたためすぐに二人分の膳を持ってきてくれた。

「ほぉ、美味しそうですね!」

 献立は雑穀米と小魚の干物を煎り酒(日本酒に梅やカツオで風味を付けた調味料)で煮たもので素朴ながらも美味だった。

 食事後、厠に立った新左衛門は縁側から庭を眺める三厳を見つけた。

「三厳様。おはようございます」

「ん?おぉ、おはよう。よく眠れたか?」

「ええ、それはもう。朝食もいただきました。あの煮た魚がおいしゅうございました」

「それはよかった。あれの味付けに使われている煎り酒は俺のお気に入りでな。味が変わっていなくて安心したよ」

 そう上機嫌に語る三厳の傍らには朝っぱらだというのに取っ手付きの銚子ちょうしが隠れている。銚子とは酒を燗するときに使われる酒器だ。新左衛門は少々呆れもしたが(まぁ数年ぶりに帰郷したら気も緩むものだろう)と見なかったことにした。

「ところで新左衛門。明日は平左衛門様と共に西に向かうとして、今日はどうするつもりなんだ?」

「そうですね、今日もまた里を見て回ろうかと。昨日は時間がなくて結局裏の山に登っただけでしたからね」

「そうかそうか。まぁたいして見るものもないだろうが見れるうちに目に収めておけ。案内役を後で寄越そう。与六郎がよければ呼び寄せてもいいぞ」

「私はどなたでも構いませんよ」

 新左衛門としては案内役自体がいらなかったがそれを断るほど不躾でもない。その後部屋に戻りしばらくすると案内役として与六郎ではない若い下男がやってきた。この下男と儀信を加えた三人で新左衛門は再度里の散策へと出かけた。


 屋敷を出て里の散策へと向かう新左衛門。先導するのは柳生屋敷の若い下男である。

「さぁ新左衛門殿。どこかご覧になりたいところなどはございますか?」

「特にどこそこというのはありませんね。とりあえず今日は里を一周してみようかと思ってまして」

「なるほどわかりました。それではこちらからぐるりと回りましょう!」

 案内役の下男は三厳直々の頼みとあって張り切っているようであった。ただそんな彼には悪いが、新左衛門はもはやこの柳生庄に特に見るようなものはないと思っていた。

 結局のところ柳生庄は単なる山奥の農村だった。感動するような景色があるわけでもなく神秘の力に満ちた聖域もない。また柳生家の者として認めてくれる神々しい存在がいるわけでもない。それにもかかわらず父・利厳や三厳、宗矩らがこの地を大切に思っているのは彼らがこの地で生まれ育ったがためである。彼らはこの地で生まれ育ち、幼い頃からこの地を守るようにと言い含められていた。その過去が彼らにここ『山奥の農村』以上の価値を見い出させていたのだ。

 それは逆に言えば、新左衛門からすればこの地は単なる『山奥の農村』に過ぎないことを意味している。もちろん全く縁のない里よりは先祖の分だけ繋がりはあるだろう。それでも新左衛門は三厳達ほどこの里に熱中できない。そこまで分かっていてなお里の散策に出たのは単なる時間潰しか、それとも心の奥で何かを求めているのか、それは新左衛門自身ですらわかっていない。

(私はこんなところで何をしているのだろうな……)

 そんな新左衛門の胸中など露知らず、下男の男は誇らしげに柳生の里を案内する。

「こちらの川は打滝川と申しまして里の貴重な水源となっております」

「あれは養蚕用の小屋ですね。ここ数年は糸の吐きがよくて村の者皆喜んでおります。近くに染物用の小屋もございますよ」

「今の時期は丁度葛の根が太る頃でして、どの家でも葛粉の製粉や葛根作りが行われております。葛粉を作る時には葛の根を砕くのですが、これが結構な重労働で毎年腰が痛くなるんですよね」

 下男の話は面白くないわけではなかった。都会育ちの新左衛門からしてみれば新鮮な話も多かったが、それはあくまで馴染みない文化故の興味であって期待していた面白さではない。

(やはりここで得られるようなものはないのだろうか……)

 静かに失望していく新左衛門。とここで遠くから気合の入った掛け声が聞こえてきた。のどかな農村には少し不似合いな鋭い声。その気迫やリズムから新左衛門はすぐにそれが剣の素振りの掛け声であることに気付いた。

「……どなたかが鍛錬を行っているようですね」

 思えばここは柳生新陰流の本源だ。稽古をしている者が一人二人いたとしてもおかしな話ではない。気付いた下男も耳を澄ます。

「これはおそらく千太郎殿の所ですかな。いかがでしょう、少し覗いていかれますか?」

 新左衛門は少し迷ったが、このまま田舎の風景を見ているよりはマシだろうと「邪魔にならない距離で」と下男に案内を頼んだ。承諾した下男はとある民家の庭が見えるところに案内する。そこでは十代から三十代とみられる男ら数人が稽古用の袋竹刀を振っていた。

「はっ!……やぁっ!……はぁっ!」

「やはり千太郎殿らでしたか。あのお方もかつては石舟斎様に教えを受けていた者です。よく祭事などで若い衆を率いてくれる頼りになるお方ですよ」

 どうやら彼らは、現代で言う消防団のような、集落の互助組織の者たちらしい。

「もう戦の気配はありませんがこんな田舎ですからね。山賊や牢人が出るやもしれぬ以上皆よく稽古しております。宗矩様の領民が無頼者に後れを取ったとあらばそれこそ宗矩様に顔向けできませんからね」

 なるほどこの地にはこの地なりの戦いがあるようだ。それに備える姿は素直に尊敬できるが、そんな彼の剣の具合はというと……。

「何と言いますか、こう、雑ですね……」

 こっそりと儀信がつぶやく通り、彼らの剣は良く言えば実戦的な、悪く言えば粗暴で洗練されていないものだった。

「なぜそんなことになっているのでしょうか?」

「おそらくきちんと指導できる者がいないためだろう。父上は尾張だし宗矩様も江戸に出て長いからな。あとはやはりより実戦的になっているが、これは土地柄を考えれば仕方もないでしょう。私はそれほど嫌いでもないですよ」

 存外好意的に評する新左衛門。しかし同時に(まぁ私が学ぶ剣ではないな)とも思っていた。彼らの剣筋は現在尾張の御流儀剣術として採用されている柳生新陰流とはまるで違う。皮肉なことに彼らの剣でとうとう新左衛門は確信した。

(やはり今の柳生庄から学ぶようなことはないな)

 そして新左衛門は明日向かう興福寺のことを思い出した。

(興福寺。多くの僧兵が集まった一大寺院か。そこならば私の嫡男としての成長のために必要なものが見つかるだろうか?)

 行き場のない焦燥感のような思いを抱きながら新左衛門は初冬の高い空を一人見上げた。


 日は明けて柳生庄三日目。この日は平左衛門が柳生庄を発つ日である。天気は快晴で出立を遮るものは何もない。

 早朝の柳生屋敷玄関前には旅支度を整えた平左衛門が、そして同じく旅装束に身を包んだ三厳、与六郎、儀信、そして新左衛門がいた。三厳たちの目的は平左衛門の見送りと西方の縁故の家への挨拶回りである。出立前の最後の荷物確認時、儀信は今回の面子の中に友重がいないことに気付き理由を尋ねた。

「今日は友重様はいらっしゃらないのですね」

 つい先日までここに友重を加えた面子で旅をしてきたが故の疑問だろう。それに答えたのは与六郎だ。

「友重殿は昨日のうちに暇を貰い故郷へと顔を出しに戻りました。ここより少し東の邑地という所です」

「なるほど。向こうも向こうで挨拶回りということですね」

「ははは。そういうことですな」

 そんな会話をしたのち三厳一行は代官・頼元らに見送られながら柳生庄を出た。

 一行は来た時と同じように柳生庄から笠置山地の谷間を沿うように北に進みまずは笠置街道へと戻る。街道に合流し東に進めば以前訪れた伊賀国・上野へと続くが今回の目的地は西である。三厳たちは左手に木津川を望みながら西に数刻歩き、そして問題なく第一の目的地、山城国・山城へとたどり着いた。ここから北に向かえば平左衛門の目的地である京となる。

「それではここでお別れですな。楽しい旅路でした、三厳殿」

「こちらこそ勉強になりました。何かありましたらいつでも柳生庄にお越しください。それでは道中お気を付けて」

 こうして別れた平左衛門は途中で一度だけ振り返り手を挙げたが、それ以降は振り返ることなくあっという間に道の奥へと消えていった。見送った三厳は「身軽な人だ」とつぶやいた。


 さてこれで平左衛門の見送りは終わったが、三厳らの本当の目的はこれからである。四人は山城から南に、笠置街道をそのまま進みやがて旧平城京の街並みを見下ろせる少し小高い所にまで来た。新左衛門はその眺めに感嘆の声を上げる。

「ここが大和の都ですか……」

 平城京跡地。現在で言う奈良県奈良市の一帯である。この地はかつて奈良時代の首都として栄えた場所であるが、ここが首都として使われていたのはもう八百年以上前のことで、そのため寺社以外の遺構はほとんど残っていない。ただ当時の条坊制――いわゆる碁盤の目状の街並みは健在で、その整然と並ぶ街並みは畏怖を感じさせるには十分なものだった。

「噂には聞いておりましたが本当に碁盤の目のように整然と広がっているのですね」

「あぁそう言えば西の方には来たことがなかったんだったな。ここや京はそんな風になっているんだ」

 ここ数日少々やさぐれていた新左衛門であったがこの歴史ある町並みには素直に感動し、そしてそこから興福寺に対する期待も大きくした。

(多くの武人が集まった興福寺。もしかしたらそこにこそ何か私の将来に役に立つ知見があるのかもしれない)

 やがて一行は旧都東部に位置する興福寺へとたどり着く。ここの高僧に柳生家と付き合いの長い人物がいるそうで三厳は早速その人物に会いに向かう。

「それでは少し顔を出してくる。戻ってくるまでの間境内を見て回るといい」

 残された新左衛門らは改めて興福寺の境内に目をやった。

 興福寺。現在の奈良県奈良市にある法相宗大本山の寺院である。その歴史は古く創建年は669年とも710年とも言われており、縁故の人物に藤原鎌足かまたりや藤原不比等ふひとといった名が並ぶほどの由緒正しき寺院であった。そしてそんな歴史ある寺院の例に漏れずこの興福寺も室町・戦国の頃は多くの荘園・僧兵を抱え巨大な権力を有していた。その力はすさまじく当時の権力者が守護を置けなかったため実質的に興福寺が大和の一部を支配していたほどであった。

 またそんな場所故に各地の腕自慢が集まり自然と互いに切磋琢磨できる環境が生まれていた。そして技術を磨き名を挙げればそれに誘われてまた別の腕自慢が集まり技術が磨かれる。時代は力さえあれば一旗揚げられた時代だ。若い頃にここで修行したという石舟斎もそれに惹かれた口だろう。そしてその時の経験がのちの柳生新陰流に続いていると考えれば、ここ興福寺もまた柳生家の者にとって特別な場所となるはずだ。

 そう期待した新左衛門。しかしそんな淡い期待はまたしても打ち砕かれた。与六郎たちと軽く見て回った興福寺は確かに多くの人でにぎわっていたが、そのほとんどが普通の僧か参拝客で言ってしまえば普通の大きな寺の光景そのものである。武人たちが集ったという当時の面影はまるで感じられない、その平穏すら感じる境内に新左衛門は思わず同行する与六郎に尋ねたほどだ。

「……ここが本当に興福寺なのですか?何と言いましょうか、その……とても穏やかな場所でして……」

「ん?あぁ、多くの武人が集まっていたという話ですね。残念ながらそれも『今は昔』というやつですね。さすがにこの時代に僧兵を抱えた寺社なんて御公儀が認めませんよ」

 確かに興福寺はかつて大量に抱えた僧兵を背景に絶大な力を有していた。しかしそれも戦国の中期頃までの話で後期の信長秀吉の頃になると検地等でその力は解体されていき、結局家康の時代までに土地の大半を失い往時ほどの影響力も独立性も失われてしまった。もちろん今でも何人かの僧兵は残っているが皆すっかり高齢になっており、せいぜい数人の弟子を取って技術の伝承を行うばかりであった。

 もちろんそんな消極的な振る舞いに新左衛門が納得するはずもない。

(あぁ、ここももう老いた者しかいないのか……。もはや武術で天下に名を轟かせようという者はほとんどいないのだろうな……)

 顔にこそ出さなかったがここでも新左衛門は一人時代に馴染めないような孤独感を感じていた。


「おぉ、ここにいたのか。こちらは終わったぞ」

 しばらくして挨拶に出向いていた三厳が戻ってきた。その手には何か小さな包みを抱えている。

「三厳様、それは?」

「これか?土産にと持たせてくれた餅だ。あの人はよくこういうのをくださるんだ。折角だからここで腹に入れておくか……ん?どうかしたのか、新左衛門」

 心ここにあらずな新左衛門に気付いた三厳。しかし新左衛門は慌てて「何でもない」と返事をする。こう返されれば三厳もこれ以上は気にも留めない。

「そうか。何かあったら言うんだぞ。それじゃあさっそく食べようか。と言ってもさすがに境内の通りの真ん中で食べるのは問題だよな」

「そうですね。どこか座れるところでも……ん?」

 そう言って周囲を見渡す与六郎であったが、ここでふと境内にいたとある旅人に目を留めた。三厳もそれに気付き「知り合いか?」と訊こうとしたがそれよりも先に与六郎は駆け出していた。

吉次よしつぐ殿!吉次殿ではありませぬか!」

 与六郎が駈け寄ったのは四十前後の武人風の男であった。その男もまた与六郎に気付くと「おぉ!与六郎か!久しいな!」と笑みを返した。どうやら知人らしい。二人はしばし互いの出会いを喜び合い、そして三厳らに紹介した。

「すいません、急に駆け出したりなどして。こちらは高田吉次殿。私の村の隣村に住んでいた者でして、私が幼い頃から槍の名手として名が知られていた御人でした」

 吉次は「いやはや」と謙遜しながら頭を下げる。次いで与六郎は三厳を紹介した。

「こちらは柳生三厳様。柳生庄領主・柳生宗矩様の御嫡男様です」

「なにっ!宗矩様の!?」

 吉次は驚き目を丸くした。やはり宗矩の名は広く知られているようだ。そんな吉次であったが、三厳は三厳で彼の名に心当たりがあった。

「伊賀国出身の槍の名手・吉次殿ですか……。私の記憶違いでしたら申しわけないのですが、確か数年前まで江戸の方で道場を開いておりませんでしたか?」

「おや、ご存じでしたか。宗矩様の御子息に知られていたとは誉れですね」

 吉次は少し照れたように笑ったが、三厳の聞き及ぶところによると彼は相当な槍の名手で道場の方もそれなりに評判だったはずだ。

「なぜ道場を畳んでしまわれたのですか?いや、そもそもなぜこのような場所に?」

「実は某、一昨年より播磨国・明石の小笠原家に召し抱えられまして、今はそこでちょっとした槍の指南を行っているんです」

「それはまためでたい」

 大きな戦がなくなったこの時代、滅多なことでは新しく雇われたりはしない。そんな中武術の腕を認められての雇用だ。吉次の腕が噂通り相当優れていることが伺える。

「ありがとうございます。それで西の方に来たのですが、このたび近くまで来る用がありましたのでついでにここに挨拶に来たのです。私の槍術は宝蔵院ほうぞういん流のものですからね」

 宝蔵院流槍術とは興福寺宝蔵院の主・胤栄いんえいが創始した槍術である。吉次によると初代・胤栄はすでに亡くなっているが今は二代目の胤瞬いんしゅんが流派を引き継ぎ研鑽を磨いているそうだ。

「なるほど。吉次殿も挨拶回りということですか。実は私もなんですよ」

「おや、三厳殿もですか。あぁ宗矩様の名代ですね。お忙しいというのはかねてより耳にしておりました」

「いやぁ、これも嫡男としての務めですよ」

 三厳と吉次は互いに褒め合い労い合う。そんな光景を新左衛門は無言で見守っていた。


 その後三厳らは吉次と別れて他の家にも挨拶に向かった。それらも問題なく終わり、彼らが柳生庄に帰り着いたのは翌日の夕暮れ頃であった。

 屋敷に戻り各々荷解きをしていると新左衛門が周囲に人影がないことを確認してから声をかけた。

「儀信。ちょっといいか?」

「はい。何でしょうか?」

 新左衛門はもう一度周囲を見渡してからこう切り出した。

「実はそろそろ尾張に戻ろうと思ってな。早ければ明日にでもと思っているのだが、そちらの都合はどうだったか?」

 新左衛門の唐突な帰郷の案に儀信は驚いた。まだ柳生庄に来てから四日、旧都の方に出ていたことも鑑みれば実質三日も経っていないからだ。

「私は護衛のつもりで同行しておりましたので問題はありませんが、本当にもう発たれるのですか?」

 立場や交通網を考えればここはそうそう簡単に来れる場所ではない。はっきりと言えばもう二度と訪れることもできかねない場所である。しかし新左衛門はそれを理解したうえで「構いません」と頷いた。

「構わないさ。もうここに私が見るようなものはないからな」

「新左衛門殿?」

「儀信殿も気付いておられるのだろう?ここはただの田舎の農村だ。特別なものは何もなく、あるのは誰かの思い出ばかり。もちろん父や先祖たちを蔑ろにするつもりはないが、それでも今の柳生家の中心はここではない。中心は尾張……あるいは江戸だ。ならばここに捕らわれていても仕方がない!」

 新左衛門はぐっとこぶしを握った。

「悔しいが今皆が一目置いているのは江戸柳生の方だ。それは仕方がない。宗矩様は天下の剣術指南役だし次の世代の三厳様も私よりもはるかに年上だ。だからこそ私たちは余計なものに惑わされることなく精進しなければならないんだ。そう、尾張の地にて……柳生家の嫡男である私が……!」

 そう語る新左衛門の瞳は静かにされど強く燃えていた。どうやら今回の訪問は、思っていた形ではなかったものの、新左衛門の――清厳の柳生家嫡男としての自負に火を付けたようだ。儀信は次期主君の成長に感動し無言で頭を下げた。

 その後新左衛門は帰郷の旨を三厳に伝えた。

「また随分と急だな。もう少しゆっくりしていってもいいだろうに」

「お心遣いありがとうございます。ですがもう柳生庄を見るという目的は果たしましたので長居をする理由もないかと。それに年の瀬も近いというのに御小姓職も休ませてもらっておりますからね。これ以上はさすがに方々に申しわけがありません」

 さすがに馬鹿正直に「見るものがなかった」とは言わなかった。これを聞いた三厳は「なるほど。まぁそれも一理あるか」と特に疑うことなく新左衛門らの帰郷を認め、護衛二人と手土産を持たせた。

 翌朝、柳生屋敷前には旅装束の新左衛門と儀信、護衛役の二人、そして見送りに三厳と与六郎がいた。見送りは二人だけだったが、発つのが尾張柳生家嫡男・柳生清厳ではなく三厳に同行してきたただの門弟・柳新左衛門だと考えればそれも妥当な数だろう。

「それでは御父上によろしくと伝えておいてくれ。縁があったらまた来るといい。道中気を付けて」

「はい。三厳様もお元気で」

 こうして新左衛門と儀信は柳生屋敷を後にした。

 その後新左衛門は領内を出る際、山道入口で足を止めて振り返り改めて柳生庄を見た。護衛の者は名残惜しんで眺めているのだろうと考えたが新左衛門の真意はそうではなかった。

(柳生家の将来はもはやここにはない。私は尾張の地にて次の時代の柳生家の在り方を見つけてみせようぞ!)

 やがて新左衛門は里に背を向け歩き出した。

「……お待たせしました。さぁ向かいましょうか」

 それが決別の意を込めた歩みだったと知っているのは新左衛門本人のみであった。

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