柳新左衛門 柳生庄に入る 1

 現在で言う奈良県北部、笠置山南方の盆地に柳生庄はあった。その名の通り柳生家伝来の地であり、また古来より戦渦に巻き込まれやすい土地柄故に尚武の気質が強く、その土壌が後世まで名を残す柳生新陰流を生み出した。

 とはいえ集落自体はあくまで山間部の農村に他ならない。板張り屋根の質素な家々に川に沿うように開墾された田畑。炉端では畑仕事の休憩に寝転がる者がおり、遠くでは葛の根を積んだ牛がゆっくりと歩いている。それは純朴な農村という言葉意外に表現のしようがない風景であった。

 そんな柳生の里を見て十兵衛もとい柳生三厳たちは思い思いの感想を口にする。

「……変わらないな、ここも」

 幼少期を過ごした故郷への帰郷に感動しているのは三厳だ。

「皆息災ないようで何よりですな」

 若い頃より稽古に通っていた友重も懐かしむような感想を漏らす。

「なるほど。のどかで気持ちよさそうな村ですね」

 平左衛門もわりかし満足そうに頷く。諸国を行脚している彼からすればよく目にするような農村なのだろう。

 そして新左衛門はというと……。

「ここが……柳生庄ですか……」

 少し戸惑っているかのように村を見渡す新左衛門に三厳は冗談めいた口調で声をかけた。

「つまらなさそうな村で残念だったか?」

「い、いえ!そんなことは……!」

「構わん構わん。俺だってそう思ってるからな。江戸や尾張と比べれば田舎も田舎だ」

「っ……!」

 かっかと笑う三厳に新左衛門は違うと叫びたかった。しかしその思いは言葉にならなかった。新左衛門が柳生の里に抱いた第一印象――それは三厳の言う通りなんてことはない、ごくごく普通の農村だというものだったからだ。

 もちろん夢にまで見た柳生庄だ。感動してないわけではない。だがもっと感動するものだと思っていたし、もっと感動するべきなのではないかとも思っている。しかしどうしても新左衛門はこの柳生庄の風景に今以上の感情を抱けずにいた。

(ここが柳生庄……この普通の農村が柳生庄か……)


 新左衛門が己の感情に戸惑っている最中、その横で何気なしに里を眺めていた平左衛門がふとこちらに向かってくる人影を見つけた。

「……あれはどちら様でしょうか」

 つられて三厳らが目をやると確かに村の奥からこちらに向かって駆けてくる人影が見えた。数は三人でさらに馬を一頭いている。見たところその中で一番位が高いのは先頭を走る初老の男のようで、三厳や友重はその顔に見覚えがあった。

「あれは頼元よりもと殿ですな。小沢頼元殿。殿(宗矩)に代わりこの地を治めている代官です」

 ここ柳生庄の主は宗矩であったが宗矩自身は剣術指南役として江戸に詰めているため当然直接の統治はできない。そこで代わりに統治を任されていたのが柳生家と縁の深かった小沢家であり、その現当主が頼元であった。歳は六十を越える頃であったが柳生家に対する忠義は変わりなく、三厳に対しても腰低く丁寧に接していた。そんな頼元がお供を引き連れて三厳たちの前にひざまずいた。

「お帰りなさいませ、三厳様。ご無事の御帰還、誠に喜ばしいことでございます」

 素朴な田舎に似合わないほどの慇懃な態度。だがこれが頼元という男であった。三厳も久々の再開に感動しつつ頼元の出迎えを労う。

「うむ。そちらも変わりないようで何よりです」

「お気遣いいただきありがとうございます。さぁこんなところで立ち話もなんですから屋敷へと向かいましょう。お食事や湯浴みの用意も済ませておりまするぞ」

「さすがの気の利きようですな。では向かいましょうか」

 そう言って歩き出す三厳。ところが頼元はそれを慌てて止め、お供に牽かせていた馬をずいと勧めた。

「お待ちになってくださいませ、三厳様。ここはどうぞ馬にお乗りください」

 呆れる三厳。

「なにやら馬を牽いているとは思いましたがそのためだったのですか。馬だなんて、父上ならまだしも私はそんな身分ではないですぞ」

 だが頼元の方も頑固であった。

「いえいえ。領主の宗矩様、その嫡男であらせられる三厳様の御帰郷です。堂々とした態度を見せて里の者どもに三厳様ここにありということを知らしめるべきなのですぞ!」

 熱弁する頼元に引く気配はまるでない。三厳は助け舟を求めようとしたが、見れば平左衛門らも頼元の付き人らもこれはもうどうしようもないなと苦笑している。結局三厳は「やれやれ……」と折れて馬にまたがり屋敷へと向かった。無駄に仰々しい行列は気恥ずかしかったが、一度乗った上に何故か一番誇らしげにしている頼元の手前やはり降りるとは最後まで言い出せず、ついぞ屋敷に着くまで三厳はゆらゆらと馬の背中に揺られていた。

「こちらが宗矩様のお屋敷にございます」

 やがて一行は柳生家の屋敷にたどり着いた。ここらでは一番大きく一番古い家で、三厳や宗矩、利厳や石舟斎その他歴代の柳生の者たちが暮らした屋敷である。草葺きの屋根に良木をそのまま使った太い柱。庭は剣術の鍛錬のためか広く開けており生垣のカラタチもよく手入れされていた。頼元が適宜気を配っていたのだろう、屋敷はいい意味で三厳が江戸へと出たときのままであった。

「ほぉ。ここも変わらんなぁ」

「ええ。三厳様が御出立なされた時のままにございます。さぁどうぞ皆さん、お上がりください。ささやかながら歓待の準備も済んでおりまするぞ」

 頼元の言った通り屋敷ではすでに食事の用意がされていた。山奥の農村ということで食材は山菜や川魚といった地味なものが多かったがその分調理は丁寧で、何より三厳が好んでいた地酒が数多く並べられていた。

「ふふっ。わかっておるな」

 三厳がにやりと笑うと頼元も満足げに頭を下げた。


 三厳一行は到着の歓迎を素直に享受した。ある者は酒を飲み、ある者は縁側にのんびりと腰を下ろし、ある者は湯で体の泥を落とす。そんな中新左衛門は外を見て回りたいと申し出た。

「じゅ……三厳様。少し柳生庄内を見て回りたいのですがよろしかったでしょうか?」

「うむ、構わないぞ。案内には与六郎を付けよう」

「いえ、私は一人でも……」

「まぁそう言うな。頼んだぞ、与六郎」

 こうして新左衛門と与六郎、そして護衛として片時も離れんとする儀信の三人は柳生屋敷から外に出た。

「さて、どこに行きましょうか。新左衛門殿はどこか見てみたい場所でもおありですか?」

「えっとですね……」

 新左衛門は一瞬言葉に詰まった。本音としては父・利厳由縁の場所を見て回りたかったのだが、一応新左衛門はまだ与六郎には正体を明かしてはいない。故にここで利厳の名を出すのは不自然だろう。

「……それでは石舟斎様が剣の鍛錬を行った場所などはあるでしょうか?」

「鍛錬の場所ですか。それならいい所がありますよ」

 そう言って与六郎が案内してくれたのは柳生屋敷の裏の山、その中腹にある開けたところであった。

「この山自体が修行の場だったそうですが、その中でも特にここを好んでいたと聞いたことがあります。ここは里の大半を望むことができる場所ですからね」

 そこは確かに南北に長い柳生の里のほとんどを一望できる場所だった。そして与六郎は付け加える。

「ここでは石舟斎様だけでなく宗矩様、三厳様、そして利厳様もかつて鍛錬を行ったと聞いております」

「!そうですか……」

 父・利厳の名が出たことでドキリとする新左衛門。やはり与六郎はこちらの正体に気付いているようだ。だが何も訊いてこない以上こちらもわざわざ言うこともないだろう。それよりも今はこの場所だ。

(父上もここで剣を振ったのか……)

 新左衛門は改めて柳生の里を眺める。素朴な家々、流れる川、里を囲む山々。柳生の者が常に眺めてきた土地、言うならば柳生家が守らねばならない土地だ。その使命感が父やその他先祖たちに剣を振らせてきたのだろう。

(ならば私は……)

 しばらく新左衛門は無言で里を眺めていたが、やがて与六郎に声をかけた。

「……与六郎殿。申し訳ございませんが、少し一人で眺めていたいのですがよろしいでしょうか?」

 要は一人になりたいからどこかに行ってほしいということだ。失礼な申し出ではあったがこれを与六郎は素直に受けてくれた。

「では私は道の下の方におりますので満足なされましたら声をかけてください」

「新左衛門様。私もでしょうか?」

「儀信殿か。儀信殿もすまないが少し一人にさせてくれ」

「はっ……」

 望み通り与六郎と儀信の二人は下がる。残った新左衛門は一人柳生庄の景色を眺める。いや、それは眺めるというよりは一種の瞑想に近かった。のどかな景色を目に収めつつ自分の心の奥を覗き見る。

 そこで新左衛門は改めて自覚した。自分がこの柳生庄に対して特に何も感情を抱かないということに。


 仕方がないと言えば仕方がないことだった。なにせ新左衛門にはこの地での思い出が何一つとしてないのだから。三厳や利厳のようにここで暮らしていたわけではない。憧れは他者からの伝聞によるものでしかなく、それもここに足を踏み入れた時がピークであった。

(だから仕方がない。こんな冷めた感情になるのも仕方がないはずなんだ……!)

 新左衛門は特別な感情を抱けない自分に無理にでも納得しようとした。しかし自らの背負う柳生の名はそれを許さなかった。

 ここ柳生庄は柳生家父祖伝来の地である。父・利厳や曽祖父・石舟斎、江戸柳生の宗矩や三厳その他歴代の柳生の者たちにとってこの地は特別なものであった。守るべき土地であった。帰るべき場所であった。だから尾張柳生家嫡男である自分も同じようにこの地を大切に思って然るべきだと新左衛門は思っていた。

 しかし実際にはそんな感情は湧いてこない。柳生の者でありながら柳生庄に対して何も思えない。この理想と現実の乖離が新左衛門を苦しめた。

(あぁ……どうすればいいんだ……)

 奥歯を強く噛む新左衛門。その焦りは深堀りすれば自分の嫡男としての資質の問題にたどり着いた。果たしてこんな自分は柳生家の嫡男として正しいのだろうか?それを新左衛門が今更強く意識したのはやはり三厳の存在が大きかった。

 同じ柳生家の次世代を担う嫡男である柳生三厳。彼は、向こうが先に生まれたため当然ではあったのだが、常に新左衛門の先を行っていた。体格。剣術の冴え。御公儀からの信頼。もちろん新左衛門もこれから追いつくつもりではあったのだが一つだけ――この柳生庄に対する思いだけは明確に差を付けられた。

 柳生庄での思い出を持ちこの地を大切に思っている三厳。対してこの地に何の感情も抱かない自分。同じ柳生家の嫡男であるにもかかわらず明確に生まれてしまった両者の差。新左衛門にはそれがまるで、変な話だが自分が嫡男として柳生庄に認められていないような気にすらなった。

(……いや、そんなことはないんだ)

 そう、そんなことはない。土地に対する思いの有無で嫡男としての資質の有無は測れない。だが柳生家の本家という資質ならどうだろう?江戸柳生も尾張柳生も戦国末期に柳生庄から出て行った家には変わりはない。つまりまだどちらも本流というには歴史が浅い家であり、どちらもまだ柳生家本家となるだけの可能性は持っていた。しかし果たして柳生庄を大切に思えない自分が本家争いに名乗りを上げていいのだろうか。ただでさえ領地の所有という点では江戸柳生の方が一歩先を行っているというのに……。

「……っ!何を考えているんだ、私は!」

 そこまで考えて新左衛門は弱気になっていた自分に気付いて頭を振った。

(まだだ。まだ私が柳生家にふさわしくないと決まったわけではない!別の場所なら……もっと直接剣に関係のある場所なら私にとっての柳生庄が見つかるかもしれない……!)

 新左衛門にも尾張柳生としての誇りがある。きっとまだ見ぬどこかに自分と柳生庄とのつながり、尾張柳生の正統性があるはずだ。

(それこそが今後の尾張柳生を支えるものとなるはずだ)

 そんなわずかな期待を抱きながら新左衛門はこの場所に背を向けた。


 山から下りた新左衛門。その麓の辻で与六郎と儀信は待っていた。二人は里の者を交えて何か世間話をしていたが新左衛門に気付くとそれを切り上げ寄ってきた。

「いかがでしたか、新左衛門殿」

「はい、素晴らしい場所でした。それでですね、他にもこのような場所はあるのでしょうか?」

「他ですか?」

「ええ。できればもっとこう、剣だけに没頭したというような場所があるといいのですが……」

 もはや単純な思い出や経験では三厳を先んじることはできない。ならばもっと本質的な、柳生新陰流の根幹のようなものを新左衛門は欲した。そんな面倒そうな質問であったがそれでも与六郎は考え答えてくれた。

「ここ以外で修行というのなら興福寺こうふくじくらいでしょうか」

「興福寺?」

「ええ。ここから西、大和の都付近にある寺院です。あそこはかつては多くの僧兵を有していた武術の一大中心地でして、若かりし頃の石舟斎様も一時はそこの門下となって修行をなさっていたとか何とか。今も高僧の何人かは柳生家との付き合いが残っているほどですから相当に通い詰めていたのでしょうね」

「なるほど……そこは遠いのでしょうか?」

「遠くはないですよ。ここからなら一日で着くくらいです。ですがさすがに日帰りは無理でしょうね」

 それを聞くと新左衛門は残念そうに「そうですか……」とつぶやいた。行ける見込みが薄いと感じたからだ。

 当然だがさすがに柳生庄の外に勝手に行くわけにはいかない。最低でも三厳からの許可をもらわなければならないが、新左衛門を預かっている立場上それもそう簡単ではないだろう。なにせ万が一のことがあれば事は柳生家だけでは収まらないのだ。明確な向かう理由やあるいは三厳の同伴があれば行くこともできただろうが、そうでない以上新左衛門が里から出てどこかに行く許可など降りないだろう。

(口惜しい……私にもっと力があれば……!)

 新左衛門は半ばあきらめるように自分の無力さを嘆く。しかし意外にもその機会はすんなりとやってきた。


 それは新左衛門たちが柳生屋敷に戻ってからのことだった。屋敷では三厳たちがすっかりくつろぎ酒や肴をつまんでいた。特にすることがなくなった新左衛門はその飲みの席になんとなく付き合っていたのだが、その最中にふとこんな会話があった。

「ところで平左衛門様はいつ頃までこちらに留まる御予定ですか?」

「そうですね。今日明日はこちらでのんびりとして明後日には発とうかと。もちろん天候次第ではありますが」

 今回通った笠置街道をあのまま西に進むとやがて現在で言う京都府南部にあった国、山城国・山城にたどり着く。そこから井手・城陽・伏見と北に向かえば京の中心へとたどり着ける。

 そしてそれを聞いた三厳は同行を申し出た。

「ふむ。それでしたら差し支えなければ山城まで御同行してもよろしいでしょうか?」

「同行ですか?それも山城まで?」

「ええ。実を申しますとお見送りと、それとついでに西の方の挨拶回りもやってしまおうかと思いまして。なにせ次の指令が来るまではここでただ待つだけですからね。それならば今のうちにできる限り回ってきたいのですよ」

 平左衛門は山城から北の京都へと向かうが、この山城から南に向かえば現在で言う奈良県奈良市、大和国の中心へとたどり着ける。

「なるほど。具体的にはどちらにまで?」

「そうですね……とりあえず興福寺あたりには挨拶に出向きたいですね。年が明けたら向こうは慌ただしくなりそうですからね」

「!」

 思わぬところで出てきた興福寺という名。それに驚いた新左衛門はうっかり飲んでいた白湯を気道に入れてしまいむせてしまった。

「ゴホッ、ゴホッ……ゴホッ!」

「おいおい、大丈夫か?」

「は、はい……ご心配をおかけしました……コホッ……」

「気を付けてくれよ。……それで先程の話はいかがでしょうか、平左衛門様」

「私は構いませぬが三厳殿こそよろしかったのですか?柳生庄から興福寺までなら笠置の街道では遠回りでしょうに」

「なに、他にも寄るところはありますので気にしなくともよいですよ。ついでですよ、ついで。平左衛門様が気に掛けるようなことではございません」

「でしたら私の方も断る理由はありませんね」

 こうしてまとまった三厳の同行の話。そこに新左衛門が自分もと割って入る。

「そ、その旅路、私も同行してよろしいでしょうか?」

「おや、どうした。挨拶に行くだけだから特に何かがあるというわけでもないぞ」

「構いません。その……私は西の方に訪れたことがありませんので少しでも見聞を広めようかと。今しがた名前の挙がった興福寺もかつては武術者たちであふれていたと音には聞いておりましたので……その、興味がありまして」

「ふむ」

 三厳が平左衛門の方を見ると平左衛門は頷いて返した。

「わかった、好きにすると言い。まぁここよりは見るところもあるだろうな」

「はっ!ありがとうございます!」

 こうして新左衛門は三厳の興福寺来訪に同行する運びとなったのであった。

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