柳十兵衛 清厳を連れて柳生庄へと向かう 1

 寛永三年(1626年)晩秋の某日。窓から何気なく外を見ていた木村きむら友重ともしげはふと火鉢用の炭売りの声を耳にした。江戸とは少し違う訛りの売り声に友重は改めて遠くまで来たということを思い起こす。

「炭売りですか。もうそんな時期なのですな」

 つられて柳生やぎゅう三厳みつよし――改め両名(偽名)・やなぎ十兵衛じゅうべえも窓の近くに寄る。

「朝晩もすっかり寒くなってきましたからね。……まさかここまで遅れるとは思ってもみませんでしたよ」

 そう呟くこの場所は尾張・みや宿のとある宿屋の一室。十兵衛らはまだ柳生庄に到着していなかった。


 江戸から大和・柳生庄へと向かっていた十兵衛たちであったがその旅程は遅れに遅れていた。天候等の小さな問題が重なったのも原因ではあるが、やはり一番のそれは偶然巻き込まれた三河・三ケ日周辺での牢人徒党騒動のためだろう。これのせいで十兵衛たちは合算半月ほど三河で足止めをくらってしまった。

 その後この騒動を紆余曲折のすえ解決した十兵衛らは改めて旅路に戻り、やがて東海道有数の宿場・尾張の宮宿へと入る。この宮宿は名古屋城から南に二里ほどのところにある宿場で、つまりはいわゆる御三家筆頭である徳川義直よしなおのお膝元の宿場であった。そのため将軍・家光の家来である十兵衛たちにとっては少々居心地の悪い宿場であり、それ故にさっさと通り過ぎてしまいたかったのだが、何の因果かここ宮宿にやってきてからもうすでに三日が過ぎていた。

 なぜこれほどの足止めをくらってしまったのか。その原因は二つ。まず一つ目は『七里の渡し』の伊勢湾が荒れていたためである。

 『七里の渡し』とは東海道の宮宿と桑名くわな宿とを結ぶ伊勢湾北部の海路のことだ。その距離は文字通り約七里(約28㎞)で舟による高速な移動が可能な他、庄内川や木曽きそ川・揖斐いび川といった大きな川を無視できることから古くから旅人に重宝されてきた。ただし海路ということで陸路よりもはるかに天候の影響を受けやすい。事実十兵衛たちも今まさに気まぐれな風のせいで舟が出ず足止めをくらっている。

 こうして海路を閉ざされた十兵衛たちであったが、では他に宮宿から桑名宿までの道はないのかといえば実はあるにはあった。尾張内陸を通る脇往還わきおうかん佐屋さや街道を使えば、幾つかの川を越える必要があるがそれでも桑名には辿り着く。しかしここでもう一つの原因がからんで来た。どこから話を聞きつけたのか、尾張領内の有力者たちから老中・酒井忠勝ただかつの家来である前島まえじま平左衛門へいざえもんに挨拶をしたいという申し出が殺到したのだ。

 十兵衛たちに同行していた平左衛門はここまで特に身分をつまびらかにせずに旅をしてきた。それも当然、彼の主は天下の中枢の一角、老中・酒井忠勝であるからだ。半端に名前を出せばその権力にあやかろうと有象無象がたかってくることなど目に見えていた。しかしさすがに三ケ日騒動では隠し通すことができず、結果人の噂には戸を立てられぬということでこうして方々から申し出が来たというわけだ。相手は商人やら学者、果てはどこぞの武術流派の達人まで。彼らは皆これを機に少しでも江戸への足掛かりを作りたいのだろう。平左衛門はそんな顔合わせの要望をできる限る受けることにした。

「えっ、お受けになさるのですか?」

 驚く十兵衛と友重。尾張の者の頼みなど放っておくのだろうと思っていたからだ。

「ええ。渡しの舟も出ないようですからね。それにのちのことを考えれば下手に断って顰蹙を買うよりも少しでも繋がりを作っておいた方がいいでしょう。申し訳ありませんが十兵衛殿、二三日ほどこちらでお待ちになっててもらえますか?」

 これに十兵衛らは今更数日遅れても変わりはしないと平左衛門を名古屋に送り出した。その間特に行く当てのない十兵衛らは宿で留守番となり、そして今日が宮宿に来てから四日目であった。


 友重は窓から空を見上げた。一昨日・昨日と荒れていた空は今日は打って変わっての晴天だった。

「だいぶ天候も落ち着いてきましたね。これなら明日にでも舟が出るやもしれませぬな」

「そうですね。茶屋で聞いたのですがこの時期の舟止めは大体一日二日で、長くても三日だそうです」

「それはそれは。では私たちは丁度運の悪い日に着いてしまったということですな」

 友重は自嘲気味に笑ってからまた退屈そうに窓の外に目をやった。

 さすがに留守番三日目ともなると、もうすることもなくなっていた。もちろん宮宿は東海道でも有数の宿場であるため娯楽の類もそれなりにあったであろう。だが江戸と尾張の関係上万が一があってはいけないと十兵衛たちはそれらのことを自重していたのだ。出るとしても精々宿近くの茶屋くらいで、あとは今のように往来を行く人たちをぼうっと眺めて時間を潰していた。

 そんな昼下がりであったが、友重はふと窓下の通りの先に帰ってきた平左衛門の姿を見つけた。

「おや、平左衛門様が戻ってこられたみたいですな」

「さようで。……珍しいですな。見るからに疲れたようなご様子で」

 十兵衛も確認する。遠くに見える平左衛門は確かに彼にしてはどことなく重い足取りをしていた。

「まぁ尾張の奴らと腹の探り合いをしてきたわけですからな。どれ、酒でも用意しておきますか」

 やがて部屋まで戻った平左衛門は珍しく素直に愚痴を吐きながら腰を下ろした。

「はぁ、ただいま戻りました……まったく、ようやく挨拶回りも終わりましたよ……」

「お疲れ様でした、平左衛門殿」

「えぇまったくですよ。あ、これはつまらないものですがお土産です」

 平左衛門はおそらく方々で持たされたのだろう、懐紙に包んだ幾つかの菓子を座敷の上に広げる。十兵衛らは「これはありがたい」と安酒と共につまみながら平左衛門の土産話を聞くことにした。

「それでいかがでしたか?尾張の連中は」

「それなんですが、まったく面倒くさい奴らでしたよ。江戸とのつながりが欲しいくせに尾張の御公儀からは目を付けられたくないのか何度も話を逸らせるし、こちらの言質を引き出そうとはっきりとしない質問ばかり投げかけるしで……中身のない時間ばかりでしたよ」

「それは災難でしたな。まぁ平左衛門様のようなお方に会える機会などそうありませんからね。向こうも必死だったのでしょう」

 この頃の江戸はまだ発展途上で都市としての発達具合で言えばまだまだ堺や尾張の方が上であった。しかしそれは逆に言えばこれからなお発展する余地があるということ。野心を持った商人や学者からしてみれば魅力的な都市である。

 またこの頃の幕府は権力の一元化に熱心で、支配体制の妨げになろうものなら朝廷だろうと寺社であろうと、延いては徳川の身内ですら容赦なく手を下してきた。尾張とて今はまだ義直のお膝元として栄えているが、それもいつまで続くかはわからない。ならば多少の危ない橋を渡ってでも江戸に唾をつけておきたい気持ちはわかる。十兵衛たちはそんな商人たちのバイタリティに「いやぁ、すごいものですな」と感心すらしていた。


 そんな話をしばらくしたのち話題は自分たちの旅程の話になる。

「ところで平左衛門様が戻ってこられたということは、渡しの舟が出るという話を聞いてのことですかな?」

「あぁはい、そうです。訪問先の奉公人が気を利かせて船着き場に走ってくれました。明日は朝一から船が出るそうです」

「それは重畳。ではようやく出立できるわけですな。いやぁ、さすがにもうすることがなくて退屈に殺されることでしたよ」

 しかしここで「あ、いえ。そのことなのですが……」と平左衛門の歯切れが悪くなる。その不穏な様子に十兵衛らも眉根を寄せる。

「……何か問題でも起こったのですか?」

「いえ、問題というほどのものではありませんが……十兵衛殿たちに少々関係のあることでして……」

「?よくはわかりませぬが関係があるというのなら、なおさら言ってもらわなければ……どうぞご遠慮なく申してください」

 十兵衛らに促されて平左衛門は重そうに口を開いた。

「ええ、その通りで。……実はですな、どうも清厳きよよし殿が柳生庄へと同行したいと申されているようなのです。人伝てでしたが私の方にも話が来ました。話が来たということは、まぁ十兵衛殿に何かしらの采配をしてほしいということなのでしょう」

 今度は聞いた十兵衛らの方が歯切れの悪そうな顔をした。

 清厳とは先日出会ったいわゆる『尾張柳生』柳生利厳としよしの長男・柳生清厳のことである。この清厳は偶然同じ柳生姓だったというわけではなく、れっきとした大和柳生家の系譜――つまりは十兵衛の親族であった。そんな清厳ならば柳生家父祖伝来の地である柳生庄に行きたがるということはごく普通の願望なのかもしれない。

 しかし話はそう簡単ではなかった。柳生庄の現在の領主は『江戸柳生』の柳生宗矩むねのりであり、そして『江戸柳生』と『尾張柳生』の間には一種の確執めいたものが存在していたからだ。

「今お答えいただければ私の伝手でそれとなく伝えることもできますが、いかがなさいますか?」

 両家の確執は明示されたものではない。ならばその判断は領主・宗矩の息子である十兵衛が下すべきものである。急な話に十兵衛は安酒をぐっと煽ってから「うぅむ……」と言って考え込んだ。


 江戸柳生と尾張柳生。両家の間には確執めいた断絶が存在していたが、その原因となったのは件の柳生庄――この地が一度柳生家から没収されたことに端を発する。

 時は天正の後期頃 (1590年前後)。当時の情勢としては豊臣秀吉がほぼほぼ天下統一を終えた頃である。この頃秀吉はその支配体制を明瞭なものにするべく各地の地勢の調査、いわゆる太閤検地を行っていた。そしてその検地にて柳生庄に隠し田があることが発覚したのだ。当時の納税額は所有する田畑面積に応じて決まるため隠し田は現代で言う所得隠しに相当する。そしてその処罰として言い渡されたのが柳生庄全領二千石の没収――柳生の地をすべて失うという非常に重いものであった。

 この時の柳生家家長は宗矩の父、三厳からすれば祖父に当たる柳生宗厳むねよしであった。彼は既存の新陰流を柳生新陰流へと昇華させた人物であり、後年では柳生『石舟斎せきせんさい』という名でも知られている。(以後宗厳は石舟斎と表記する。)

 そんな石舟斎はこの頃すでに齢六十を超えており、とてもではないが新たに二千石を拝領するだけの功績をあげるのは難しかった。つまり柳生庄奪還は石舟斎の息子らに託されたわけだが、先に結果を言ってしまえばこの柳生庄は石舟斎の息子である宗矩が取り戻した。徳川家康に従事していた宗矩は関ヶ原等での功績が認められ、慶長五年(1600年)に褒美として柳生庄本領二千石を与えられるという形で柳生庄を取り戻したのだ。

 さてこうして柳生庄は宗矩の領地という形で取り戻された。またその間に秀吉が没し、関ヶ原にも勝利した徳川が以後覇権を握ることとなる。領主であり徳川の家臣ということから宗矩はこの頃より実質的な柳生家の家長となったわけだが、実はここにささやかな歪みが発生していた。というのも宗矩は実は長男ではなく石舟斎の五男だったからだ。そしてその長男は当時まだ存命で柳生庄にいた。この存命の長男こそが利厳の父であり清厳の祖父である柳生厳勝よしかつであった。


 柳生厳勝。石舟斎の長男で宗矩にとっては兄、利厳にとっては父、清厳にとっては祖父に当たる人物である。柳生家嫡男として生まれ幼い頃より剣術・槍術・その他武術を叩きこまれた彼は次期家長として大きな期待を寄せられていた――寄せられていた。そう、過去形である。今から五十年ほど前、厳勝二十歳前後の頃に彼は合戦にて重症を負ってしまい、以後戦場に出れぬ体となってしまったのだ。当時は戦国の時代。また柳生家は代々尚武によって身を立ててきた家系である。そんな中で彼は戦場に出れぬ長男として肩身の狭い思いをしながら生きながらえていた。

 そこに来ての宗矩のこの大躍進である。これを厳勝がどう見たかは推測する他なく、またその背中を見ていた子の利厳が何を感じたのかも本人にしか知りようがない。ただ資料で分かる範囲としては、利厳は慶長八年(1603年)に柳生庄を出て諸国を行脚したのちに尾張徳川家の剣術指南役となったのだが、その間宗矩と交流したという記録はどこにも残されておらず、またその断交は今現在もなお続いていた。

 こうした経緯から宗矩と利厳の間には明確な距離があったのだが、今はそれに家光と義直の対立関係の影響も加わる。以前にも述べたが家光は二代将軍・秀忠の息子であるのに対し義直は初代将軍・家康の実子である。つまり両者共に三代目の将軍になる資質は持っていたわけだが、家康の計らいにより将軍職を継いだのは家光であった。これで名目上は完全に家光の方が上となったわけだが、それで「はいそうですか」と受け入れられるほど義直および彼の一派にとっては簡単な話ではない。今でも彼らの間では水面下で激しい実権争いの攻防が行われており、それに伴いそれぞれの剣術指南役に就いていた宗矩・利厳の関係も一層冷え込み今に至っていた。

 そんな関係性の中で清厳は「柳生庄に行ってみたい」と言ってきたのだ。十兵衛たちが難しい顔をしたのも当然のことだった。


「どういたしますか?向こうも事情は分かっているでしょうし、断ってもさほど問題にはならないと思いますが……」

 尋ねる平左衛門。確かに話自体は単なる親族間のいざこざにも聞こえる。だがちょっとした嫌疑から改易や減俸の憂き目を見てきた家は多々あった。しかも今回は末席ながらも江戸と尾張である。十兵衛が石橋を叩いて渡っても誰も非難したりはしないだろう。

 だが一方で十兵衛は清厳の気持ちもわかった。柳生の家の者として父や祖父らが生まれ育った柳生庄を見てみたいというのはごくごく普通の願望だ。ましてや将来家を背負うこととなる嫡男ならばなおさらだ。さらに言えば時期を鑑みればその機会は今この時しかないとも言える。

「まぁ清厳殿はこれからますます立派な地位に就くことでしょうからね」

 清厳は現在数えで十二歳。今はまだ幼いゆえに義直の一小姓に過ぎないがいずれ正式な剣術指南役かさらに上等の役に就くこととなるだろう。そうなれば今以上に柳生庄に立ち入り難くなる。

(逆に言えば今ならまだ幼さを理由に連れて行くこともできる。この機を逃せばもう生涯柳生庄を見ることすら叶わぬかもしれぬ。……それはあまりにも不憫すぎるな)

 柳生家嫡男という似た立場にある十兵衛は清厳の切望を誰よりも深く理解できた。故に十兵衛は決断する。

「……決めました。平左衛門様。お手数ですが、もし清厳殿が望むのならば同行しても構わない。そうそれとなく伝えておいていただけますか?」

「構いませんが……本当によろしいのですね?」

「いろいろとしがらみがあることは承知済みです。それでもなおお願いいたします」

「……承知しました。変装や偽名等をすることになるでしょうか、それでもいいのならばと伝えておきます」

 そう言うと平左衛門は席を立った。今の話を伝手とやらに伝えに行ったのだろう。平左衛門が完全に離れたのを確認すると友重が少し不安げに十兵衛に尋ねた。

「大丈夫ですか、十兵衛殿?清厳殿は幼いとはいえ元服を済ませたれっきとした尾張の武士。殿(宗矩)なら違う回答をしたやもしれませぬよ?」

「それはわかっております。しかし同じ柳生の嫡男として彼の思いは痛いほどにわかるのです。それを知りつつつまらぬ意地で清厳殿を連れて行かなければ、私の方が祖父やその他ご先祖様方に合わせる顔がありません」

 きっぱりと言い切る十兵衛に友重は素直に頭を下げた。

「承知いたしました。十兵衛殿の――三厳殿の御判断に従います」

 そして友重は丁寧に十兵衛の椀に酒を注いだ。


 翌日。天気は快晴で絶好の出立日和であった。もう舟が出ないということもないだろう。十兵衛たちが改めて旅装束に着替えて宿から出ると、そこにはすでに旅装束に身を包んだ清厳が待っていた。

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