柳十兵衛 三ケ日危機を終える 2(第三話 終)
牢人たちの根城であった廃村からどうにか逃げだし三ケ日への帰路へと着いていた十兵衛一行。やがて宿場の遠景が見えてきたところでふと現れた一つの影が立ちふさがる。それはあの牢人徒党に参加していた剣客の一人・辰一であった。
「辰一殿……なぜここに?」
「無論、貴殿と決着をつけるため」
そう言うと辰一は真正面に十兵衛を見定め重心低く構えた。
静かに構える辰一。しかし対する十兵衛はあまり乗り気ではなかった。というのも今ここで十兵衛らが戦う理由などなかったからだ。
十兵衛らは既に鬼蜘蛛丸たちに大打撃を与え一応の目的は達成できていた。そんな今、余計な争いをする必要はない。しかも相手は辰一だ。攻防こそ一瞬であったが彼の実力は疑うべくもない。決着をつけてみたいという思いは確かにあったが、それにしても気まぐれで戦うには荷が勝ちすぎる相手である。
「……やめましょう、辰一殿。今ここで私たちが戦う理由などないでしょう?」
「異なことを。武人同士が優劣をつけ合うのに余計な理由など必要ありませぬよ」
「それは……私もそうありたいとは思っております。ですが我々は味方同士。無駄に傷を負えば鬼蜘蛛丸様や他の方々にご迷惑をかけることとなってしまいます」
辰一は廃村では姿が見えなかった。それならばまだ先の一騒動を知らないかもしれない。そう思っての誤魔化しであったが辰一はこれに皮肉めいた笑みを見せつつ返す。
「いい加減無駄な問答はよしてほしいですな。皆様方は尾張の間者でしょう?ならば私と対峙する理由なら十分にある」
急な指摘に十兵衛たちは思わず息を呑む。しかし表情までは大きく崩さなかった。
「……何の話でしょうか?尾張の間者?冗談にしても笑えませんね」
意地でも誤魔化そうとする十兵衛。しかし辰一は「強情ですな……」と苦笑してから新左衛門の方にちらと目をやった。
「そちらの弟君――新左衛門とか名乗っておりましたが偽名ですよね?正体は尾張の柳生利厳殿の御子息。確か名前は……
新左衛門の正体を見破る辰一に十兵衛たちは今度こそ驚いた。まさか知り合いだったのかと新左衛門を見ると、彼もまた驚きつつも小さく首を振って知らぬ相手だと返す。
「ふふっ。覚えていないのも無理もありません。だいぶ昔に一度だけお屋敷にお呼ばれしたときにお見かけしただけですからな。ですが当時の面影はありますし何より利厳殿によく似ている。わかる人にならすぐにわかりますよ」
「……なるほど。それで尾張の間者だと?」
「それ以外に牢人なんぞのふりをする理由がおありで?よもや家出なんてつまらない話じゃないでしょう?おおかた役儀を間近で見るために新陰流の縁で十兵衛殿についてきたといったところですかな。加えて申せばそれほど長居もしないだろうと思っておりました。権平殿は幼いながらもそれなりに顔が知られておりますからね。推察ですが目的は先日捕らえた間者らしき者の消息を調べに来たというところでしょう」
確信めいた顔で語る辰一。少し勘違いもしているが要点は突いていた。それを見越してのこの先回りだったのだろう。こうなればと十兵衛はふぅと息を吐いて開き直る。
「ふぅ。どうやらこれ以上誤魔化すのは無理そうですね。おっしゃる通り我々は御公儀の者です。しかしそれでもやはり私たちが戦う理由などありません」
「と申しますと?」
「白状しますが今しがたあの廃村で少し暴れてきましてな。結果徒党はほぼ壊滅。鬼蜘蛛丸らも手傷を負って敗走いたしました。もはや私たちが敵対する理由などないんですよ」
敵対関係の土台であった牢人徒党自体がなくなったのだ。これならばもう対峙する理由はない。しかしそれを聞いても辰一は引くどころかむしろうれしそうに笑みすら見せていた。
「ほぉ!まさか昨日の今日で襲撃なさるとは!素晴らしいですな!……あぁしかしそれなら失敗でした。村に残っていれば十兵衛殿と自然に刀を交えることができたというものを」
辰一は徒党がなくなったことではなく、十兵衛と戦う機会を逃したことに対して残念そうな顔をする。どうやら徒党そのものに対する帰属意識といったものはないようだった。
(そういえば碧丸がいうことを聞かないだとかぼやいてたな……)
しかしそれにしても薄情だと十兵衛は少し不審がる。
「……少し意外でしたよ、辰一殿。物静かで腕も立つ立派な武人だけに、忠にも篤い人だと思っておりました」
「忠ですと?あんな半端者たちの集まり相手に忠も何もありませんよ。それに私にはすでに主君がおりましたからね」
「主君……?」
牢人から出るには少し意外な言葉に十兵衛はキョトンと目を向ける。それに対し辰一は「……まぁ私だって生まれた時から牢人だったわけではないですからね」と少し逡巡しつつも語り始めた。
「私にもかつては使えるべき主君がおりました。小姓なんぞに就いていたこともありましたよ。……ふっ、遠い昔の話ですがな」
「その主君とは?」
「聞いても知らぬでしょうよ。当の昔にお亡くなりになられました。関ヶ原にて、太閤様方(西軍)でした」
ここで言う『関ヶ原』とは慶長五年(1600年)に起こった関ケ原の戦いのことを指す。(なお作中年は1626年。)また『太閤様方』という言い回しは徳川勢力である東軍に対し反徳川――つまり西軍であったことを意識した言い回しであろう。
「……それで現御公儀に仇なすようになったと?」
西軍由来の牢人ならば現徳川政権に対する思いは複雑なものであろう。しかしこれに辰一は鼻で笑って返す。
「そんな大層な話じゃないですよ。ただ単に新しい主君に馴染めなかっただけです。……さぁおしゃべりはもういいでしょう。いろいろ言いましたが私の目的は武士として『良く戦い良く死ぬ』こと――それ以上の望みなどありもしません。そんな中せっかく出会えた良き相手です。意地でも付き合ってもらいますよ」
そう言うと辰一は改めて構え直す。もはやてこでも動かぬであろう覚悟に十兵衛らも戦いは避けられぬと悟る。
「……柳十兵衛。お相手いたしまする」
こうして一人前に出た十兵衛を見て辰一はほんの少しだけ満足そうに口角を上げた。
一歩前に出た十兵衛はふっふっと短く息を吐き呼吸を整える。やがてその集中が指先まで行き渡ると研ぎ澄まされた闘気が十兵衛の全身を包む。これで完全な臨戦態勢となったわけだが、十兵衛はまだ刀を抜かずにいた。
「……刀は抜かぬのですかな?それともよもや得物は刀ではないと?」
辰一からすれば万全でない相手を切っても意味がない。しかし十兵衛はこれでいいと返す。
「構えはこれで構いません。流派の方もご安心ください。剣術――新陰流です。……江戸の方ですがね」
「江戸の?」
辰一は一瞬訝しむが、やがてその言葉の意味を理解しハッとする。
「ご不満でしたかな?」
「いえ、とんでもない!むしろ天恵ですよ!……それでは始めてもよろしいですかな?」
「ご随意に」
「では……!」
そう言うと辰一はまずゆっくりと半歩すり足で近づいた。両者の間合いがまず半尺縮まった。
両者は初めて会った時と同じように互いに刀を抜かぬまま正対していた。抜刀術を得意とする辰一が抜かないのは当然であったが十兵衛も同じくそうしたのは辰一の一刀目を確実にかわすためであった。
(悔しいが一刀目の初速なら向こうの方がはるかに早い。半端に刀を握っていては避けられない……!)
十兵衛は一度辰一の居合いをかわしている。しかしその時はあくまで軽く腕前を見るだけのもので本気ではなかった上に辰一は追撃をしては来なかった。対し今回は文字通りの真剣勝負である。技の精度はあれ以上だろうし、一刀目を避けられたとしても体勢を崩してしまえば続く二刀目に仕留められてしまう。
故に十兵衛はまずは避けることを第一とした。最初の攻防さえ切り抜けられれば後は普通の立ち合いだ。それならば十兵衛も絶対の自信を持っている。
しかしその一刀目はなかなか抜かれることはなかった。
(くぅっ!まだ詰めて来るか!?)
じりじりと近づく辰一。その間合いは八尺から七尺、七尺から気付けば六尺半にまでなっていた。
この六尺半とは刀の切っ先が届く間合いであり、廃村の一戦では辰一はここで抜刀をした。だが辰一はまだ抜かずさらに半寸単位で詰めていき、やがて六尺と一寸半(約186cm)のところで止まった。これは剣士同士の立ち合いとしてはかなり近いものであり、見ている平左衛門らも手に汗を握るほどであった。
(絶妙な間合いだ……!あの辰一なる男、生半な者ではないな……!)
六尺と一寸半。この距離は絶妙に十兵衛にとって不利な距離だった。これよりも遠ければ半身体をひねりさえすれば、廃村の時のように切先の一閃をかわすことができる。しかしこの距離では足も使い大きく飛び退かなければ刀の間合いに入ったままである。またこれよりも近ければ素手の方が早かった。しかしやはりこの距離では手を伸ばしても向こうは見てから後ろに引いて抜刀するという選択肢がある。
押すには遠く、引くには近い。そして先に抜刀するという先の先も勝ち目がない。絶体絶命の状況の中、震えそうになる足をしっかりと踏ん張らせて十兵衛は辰一を見据える。
(刀を抜かずにいたのは失敗だったか?……いや、今更そんなことを言っても仕方がない。そもやることに変わりはないのだ。辰一殿の全霊の一刀、かわしきってみせようぞ……!)
覚悟を決めた十兵衛の瞳と感情の見えない深く暗い辰一の瞳が交差する。
そしてその時は唐突に訪れた。
きっかけらしいものは何もなかった。風が吹いたというわけでもなく誰かが声をかけたというわけでもない。ただ唐突に、漠然と、一縷の死の形が二人の間に現れ、次の瞬間十兵衛は本能のままに――理性などかなぐり捨てて全力で飛び退いていた。
「くっ、おおおぉぉぉっ!!」
その一瞬前まで十兵衛がいたところを辰一の刀が通り過ぎる。サヒュン。辰一の刀は十兵衛の上衣を裂いたが皮にまでは到達しなかった。それを見ていた平左衛門と新左衛門が叫ぶ。
「避けた!」
「いえ、まだです!」
確かに十兵衛は一刀目を奇跡的に避けた。しかし無理にかわしたため体勢は非常に悪い。そうなったのは辰一のささやかな妙技のためである。
(くぅっ!なんて真似を!奴は化け物か!?)
辰一は抜刀の瞬間左手で少しだけ刀を持ち上げ、初撃の軌道を以前見たそれからわずかにずらしていた。その差異は微差と言うことすら
「っくぅっ……!」
十兵衛は自分の抜刀のことなど完全に放棄して再度全力で地面を蹴る。それでも迫る追撃を完全にかわすことはできず、辰一の凶刃は十兵衛のすねのあたりをわずかに切った。だが辰一はそれに満足せずすぐに刃を返し次の攻撃に移る。
「きえぁぁぁぁぁっ!」
息もつかせぬ辰一の連撃。しかし十兵衛も臆してはいない。振り下ろされる刃に対して十兵衛はあえて辰一の懐に向けて体ごと飛び込んだ。
「なっ!?」
「ぐぅっ!」
辰一の刃が十兵衛の肩から上腕にかけてに食い込む。しかし逆に言えば刃はそこで止まった。十兵衛が深く踏み込んできたことによりあまり力が入らない刀身の根元で切り付けてしまったのだ。
そして十兵衛の体当たりにより両者は共に転がり一瞬両者に体勢を立て直す間が生まれる。十兵衛にとってはやっと訪れた抜刀機会である。十兵衛の右手が柄へと伸びる。
「くうっ!」
だが辰一も抜刀されれば不利になると理解している。そのため死ぬ気で踏ん張りなりふり構わず十兵衛に飛び掛かった。
「くっ!」
「はぁっ!」
交差する二人。放たれる二本の刀身。一瞬の攻防。そして先に膝をついたのは――辰一の方であった。
「ぐふぉぁっ……!」
膝をつき、それでも堪えきれず手もつく辰一。ぼたぼたと鮮血が地面に零れ落ちる。見れば十兵衛の一撃は辰一の胸部から腹部にかけてを大きく切り裂いていた。流れ出る血は体を伝っていき、やがてついた膝のところで血だまりとなって広がっていた。
「ぐ……はぁ……ふぐぅ……」
「はぁ……はぁ……」
膝をつき痛みを堪えつつ喘ぐ辰一。その背中を見下ろす十兵衛であったが、十兵衛の方もまた右肩付近から胸部にかけてを切られていた。辰一ほどの深手ではないものの、ぱっくりと割れた傷口から流れる血はすでにくるぶしのあたりにまで達している。だがそれでも膝をつくほどではない。それが両者の違いであった。
「はぁ……はぁ……。これまでにしましょうか……」
十兵衛は構えを緩めてそう言った。もはや雌雄は決した。両者流血しているとはいえその差は一目瞭然だ。特に辰一のそれは早く治療をしなければ命にかかわるやもしれぬ。しかし辰一はその申し出をあざけるように笑って拒絶した。
「ふふっ……何をおっしゃっているのですか。戦場に手心など必要ありませぬ。どちらかが生きている限り……勝負は続く……!」
「くっ……!そんなわけないでしょう!もうそんな時代ではないのですよ!必要とあらば切り伏せることも厭いませんが、辰一殿のそれは命を粗末にしているだけではありませぬか!」
強く説く十兵衛。しかし辰一は悲痛な声で「十兵衛殿っ!」と遮った。
「十兵衛殿……。十兵衛殿ほどのお方なら私の心の内もお判りでしょう。私はもうこれ以上生き恥を晒したくないのです……。ようやく出会えた戦場。幕を引くにふさわしい相手。申し訳ありませぬが十兵衛殿、どうか最後までお付き合いください……!」
辰一の両眼からは涙があふれていた。痛みからではなく苦しみからの涙。十兵衛はその涙のわけを痛いほどに理解していた。
辰一は多くは語らなかったが、かつては主君がいたと言っていた。昔はごく普通の武士だったということだ。小姓仕事にも就いていたと言っていたからそれなりにいい家の生まれだったのだろう。
しかしその主君は関ケ原の戦いにて討ち死にしてしまった。主君は死んだ。しかし家来である自分は生きている。それが辰一の苦しみの根幹であった。
現代の感覚から見れば少し異質に見えるかもしれないが、小姓としてかわいがってもらっていたにもかかわらず戦場で主君を守ることができず、なおかつ自分だけ生き延びているというのは武士としてこれ以上ないほどに情けないことであった。
十兵衛で例えるならば家光が討ち死にしたにもかかわらず自分だけおめおめと生き延びてしまったようなものだ。これが病死や事故死などならまだ納得もできた。しかしそれが戦場でならば武士として言い訳もできない。家や自分の名誉を守るために腹を切ることも考えなければならないほどの恥である。
しかし幸か不幸か辰一はその機会に恵まれず、武士としての痛みを抱えたまま今日この時まで生きてきたというわけだ。
「さぁ十兵衛殿、構えてください……まだ終わっちゃあいませんよ……」
震える膝でどうにか立ち上がろうとする辰一。それは勝ちたいからではなく、せめて主君と同じように戦場で死ぬことだけを夢見てのことであった。
その姿は痛々しかったが関ヶ原が起こってから約二十六年――その間死に場所を見つけられず生き恥を晒してきた男の頼みである。武士として十兵衛が答えないはずもない。つられて涙を流しつつも正眼に構え直した十兵衛を見て辰一は満足そうな笑みを見せた。
「では参ります……」
「……」
両者は再度向かい合い、呼吸を整える。そして機を見た辰一が全霊を込めて刀を抜いた。
しかし傷の影響は小さくなかった。辰一の抜刀はこれまでのそれには遠く及ばないもので、今まで避けるだけしかできていなかった十兵衛が受け止め弾き返せたほどであった。そしてがらんどうとなった辰一の体に十兵衛は渾身の一撃を振り下ろす。皮を裂き、肉を絶ち、血しぶきが舞う。そんな中崩れ落ちる辰一の表情はどこか満足そうに見えた。
倒れ伏す辰一はもう動かない。やがて十兵衛は心底疲れたように一つ息を吐いた。
さてこうして十兵衛たちの長い二日間が終わったわけだが、その後の顛末を軽く述べておく。
まず討ち取れなかった鬼蜘蛛丸であったが、どうやら彼は残った少ない手下を連れて北へと逃げたようだ。十兵衛たちの脱出後も監視を続けていた種長からの報告である。
「
これにより三ケ日宿が直面していた危機は去った。もちろん再度侵攻してくる可能性もあるだろうがその時はこちらも万全の態勢を敷いて迎え撃てることだろう。そしてそれは江戸と尾張の共闘が一段落したことでもある。この報告を行ったのち久助は改めて十兵衛らに深く頭を下げた。
「平左衛門様。十兵衛様。友重様。此度の御助力、いくら言葉を重ねても尽きぬほどに感謝しております。三ケ日、三河そして尾張を代表してお礼を申し上げさせていただきます」
結果として見てみれば江戸の十兵衛らに助力を乞うたのは英断だった。もちろん裏では色々な政治的駆け引きが行われているのだろうが、今は素直にその謝意を受け取った。
「いえいえ、民草に被害が出なくてよかったですよ。ところで私どもはもう柳生庄へと向かってもよろしいのですかな?」
「もちろんにございます。私はまだこちらですることがあります故お供できませんが、代わりに清厳殿と与力数名に尾張までの案内をさせましょう。尾張を越える際も余計なことが起こらぬよう、こちらで手を回しておきます」
「それはありがたい。お言葉に甘えさせてもらいます」
こうして十兵衛らは清厳と与力数名をしたがえて三ケ日を後にした。
三ケ日を出た十兵衛たちは御油宿から東海道に戻り、やがて息災なく尾張・
「七里の渡しの手配も向こうがしてくれるとのことでしたね」
「ええ。桑名を越えたら柳生庄はもう目と鼻の先です」
「いやぁ、ずいぶん遅くなってしまいましたな。土産話ばかり背負って潰れてしまいそうですよ」
「ははは。まったくですな」
そんな軽口が叩けるのも一仕事を終えた開放感からだろう。十兵衛らは地元の酒を傾けながら尾張の夜を過ごしていた。
一方その頃、宮宿より北に一里半。名古屋城下町の尾張柳生屋敷にて柳生清厳は父・柳生利厳に今日までのことを報告していた。もちろん利厳は逐次報告を受けていたがそれでも清厳本人から何を見てきたのか語るよう乞いた。清厳もそれに応えて忌憚なく語る。特に十兵衛こと三厳については口惜しいながらも類稀なる実力であることを認め、道場内でも切り結べるのは数えるほどしかいないだろうと評価した。利厳は途中で口を挟んだりせず黙って聞き、最後に「うむ、ご苦労だった」とだけ返した。
こうして報告自体は終わったのだが、ふと利厳が目を上げれば清厳はまだ言いたいことがあるかのように座り悪くしている。
「……なんだ?まだ何かあるのか?」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
「はっきりしない奴だな。ほれ、くだらぬ遠慮などやめて言うだけ言ってみろ」
だが清厳はまだもじもじとしている。見かねた利厳が「権平」と声をかけるとようやく清厳はその思い口を開いた。
「その……三厳殿たちはこれから柳生庄へを向かうそうです……」
この時点で利厳は清厳が何を思い悩んでいるかを理解していた。だがここはあえてとぼけて返した。
「ふむ。そうらしいな」
「はい……」
「……」
「……」
「……どうした、権平。最後まで言わなければわからないぞ」
「っ……!」
張りつめた緊張の中、清厳はとうとう思いの丈を吐き出した。
「私も……私も一度柳生庄を見てみたく存じ上げます……!」
これを聞た利厳は(あぁとうとうこの時が来たか……)と静かに奥歯を噛んだ。
大和・柳生庄は柳生家にとって父祖伝来の特別な地である。しかしその柳生庄の現在の領主は十兵衛もとい三厳の父である宗矩であり、また清厳自身も利厳が尾張に来てからの子であるためにその地を踏んだことがなかった。
今まではそれでも「そういうものだ」と納得していたのだろうが、今回境遇の近しい三厳が柳生庄に向かうと聞いて居ても立っても居られなくなったのだろう。
「立場上いろいろと難しいことは理解しております。しかし柳生家の長男として一度も柳生の地を踏んだことがないというのはやはり沽券にかかわること。今すぐにでなくとも構いません。ですが……どうか私の願いを心に留めておいてください……!」
深く頭を下げる清厳に利厳は面を上げるように促した。
「……いつになるかはわからぬが覚えておく。とりあえず今日はもう遅い。下がってゆっくり休め」
「……はっ。それでは父上、お休みなさいませ」
戸を閉め廊下からは清厳の去っていく足音が聞こえてくる。やがて改めて夜の静寂が訪れると利厳は物憂げにため息をついてから「柳生庄か……」と呟いた。寛永三年晩秋のある夜のことであった。
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