柳十兵衛 三ケ日の危機に直面する 3
重症の間者を運ぶ平左衛門一行。すでに三ケ日の街並みは見えており、その門をくぐるまであと少しというところである。しかしここで唐突にそんな彼らを呼び止める声が聞こえた。
「種長様!こちらです!」
平左衛門らは一瞬身構えるが道の脇から現れたのは
医者は間者につけられた無数の傷を見て「これはひどい」と顔をしかめる。たまらず久助が「助かるでしょうか」と尋ねるが医者の回答はつとめて客体的なものだった。
「彼の精神力次第でしょうな。傷自体は致命傷となるものはありません。ただし数と流した血が多すぎる。このまま一度も目覚めぬことも覚悟しておいてください」
一同の間に重い空気が広がる中医者は治療を開始した。施術自体は先の平左衛門の処置もあったため半刻と少しで終わったが器具を置いた医者の顔は未だ暗い。
「施術は終わりましたがここからが本番です。これから改めて傷口が熱を帯びて痛みが波のようにやってきます。それに精神が耐えられるかどうか、ですね。とりあえず必要な薬は置いておきますが……あまり過度な期待はしないでください」
医者はそう言うと薬と緊急時の対処法を伝えて帰っていった。
その後の経過は医者の言った通りとなった。間者は死にこそしなかったが意識は戻らず常に熱と痛み、そしておそらく恐怖にうなされていた。医者は致命傷となる傷はなかったと言っていたが、それは逆に言えば嬲るように傷つけられていたということだ。一思いに殺されぬ分その身に刻まれた恐怖は筆舌に尽くしがたいものだったはずだ。間者の悶える声は聞く者たちに、いっそのこと楽にしてやりたいと思わせるほどであった。
だが十兵衛たちは辛抱強く待った。牢人たちの気配に気を配りつつ適宜世話をして間者の体力の回復を待った。その甲斐あってか男の容体は暮れ六つ頃から落ち着きだし、そして八つの鐘が鳴る頃にとうとうその意識を取り戻したのであった。
「あ……う……ここは……?」
虚ろな目で周囲を見渡す間者にまず近づいたのは久助であった。
「気が付いたか。安心しなさい、敵ではない。ここは三ケ日のとある場所。某は尾張の者で貴君のお役目の関係者だ」
「三ケ日……尾張……お役目……ぐあぁっ!!」
虚ろな目をしていた間者であったが久助の言葉に何かを思い出してしまったのか、傷だらけの体で急に暴れ出した。男は衰弱しきっていた体のどこにこんな力が残っていたのかと思うほどに乱暴にもがく。錯乱し過呼吸気味になり、傷口が開いたのか包帯が所々赤くにじむ。久助は慌てて覆いかぶさるように抑えつけた。
「大丈夫だ、落ち着け!ここにお前を傷つけるような者はいない!お前は助かった。助かったんだ!」
久助が懸命に呼びかけるとそれが効果があったのか、程なくして男は暴れない程度には冷静になった。久助が「落ち着いたか?」と尋ねると男は「落ち着きました。申し訳ございません……」と弱々しくながらも返答した。
「よし。それではいろいろと聞きたいこともあるが……まずは包帯を替えようか」
久助は男の上体をやさしく起こした。
包帯を替えている間に男はだいぶ落ち着いた。その間に外に見張りに出ていた平左衛門や種長も戻ってきて各々話を聞きやすい位置に腰を下ろした。全員が適当な場所に収まったのを確認すると久助は改めて間者の男に何があったのかと尋ねた。
「では改めて訊くがお前の身に一体何があったのだ。いや、無理にすべて思い出さなくともよい。ただ報告を受け取る予定だった者が襲撃がどうというお前の呟きを聞いている。それだけでも話してはくれないか?」
すると男は一度恐怖に体を震わせたが、それをどうにか抑えてぽつりぽつりと話し始めた。
「襲撃……そうです。あの牢人集団は近々ここ三ケ日宿を襲う計画を立てていました……」
間者の改めての報告に一行は息を呑む。
「……それは、どの程度の計画だったのだ?単なる願望・妄言の類なのか、あるいは……」
「いえ、口先だけのそれではありません。本当に実行する予定の計画でした。不意を突いて三ケ日宿、そして行けそうならばそのまま気賀の関所まで向かう計画でした」
「何と大それた……。しかしどうして奴らは急にそんな大それた計画をすることとなったのだ?あの徒党はまだそれほどの規模にはなっていなかっただろう?」
久助の疑問に間者の男は真剣な顔で「それです」と返した。
「そこなんです。奴らは焦っていたんです。思ったよりも徒党の規模が大きくならない現状に」
「どういうことだ?」
「奴らはただ何となく集まっていたわけではなく強い野心を持って集まっておりました。武力・暴力をもって一旗揚げるという野心。まるで物語に出てくるような武侠組織を作りたかったようです」
この時代、もはや戦は遠い昔になっており十兵衛たちの世代に至っては戦火など老人の昔話の中でしか耳にしないほどに平和な時代となっていた。しかしそんな時代であっても暴力という尺度がまかり通っていた時代を懐かしむ、あるいは憧れる者は一定数存在した。かの牢人らもそういった者たちなのだろう。
「奴らにとって江戸の公方様(家光)の上洛に伴うここ最近の西国各国での対牢人政策はむしろ好都合でした。なにせこれにより今まで目の上のたんこぶとなっていた者たちがことごとく散らされていったわけですからね。そして公方様が去られ各地の御公儀が油断したところで、ちょうど空白地帯となっていたここ三ケ日の北にて一旗揚げたというわけです。しかしそこから先はなかなか思うようには進みませんでした」
「それはなぜだ?」
「やはりなんだかんだ言って牢人政策は効いていたようですね。大半の者が牢人家業を畳み、そうでない者も公儀の目を恐れて表立った活動を嫌うようになりました」
間者は一呼吸おいて話を続ける。
「彼らは人を集めようとしていました。しかし多くの者が一人で気ままにやるか、あるいは名のある者の傘下に入る道を選んでおりました。無名である彼らのもとに来るような物好きはそうそういなかったということです。そうだ、彼らの首魁があやかしだという噂は知っておられますか?実はあれも彼らが人集めのために自ら流した噂だそうです」
思わぬ事実に久助が目を丸くする。
「なんと!……では首魁があやかしだという噂は虚言だったということか!?」
あやかしでないならば普通の人間でも対処できる。思わぬ光明に久助は前のめりになって尋ねるが間者の男は申し訳なさそうに首を振った。
「あ、いえ。それは違います。噂は自ら流しておりましたが虚言ではございません。徒党の首魁の男は間違いなくあやかしの力を持っております。私自身何度か見たことがあります。限りなく透明な糸を使い遠くの物を動かしたり捕まえたりする、まさに蜘蛛のような所業を」
久助は「そ、そうか……」と悔しそうな顔をしたがすぐに気を取り直して顔を上げた。
「話を戻そう。ともかく奴らは人が集まらないことに焦っていたのだな」
「ええ、そうです。加えて御公儀の目が向けられていることも薄々感づいておりました。このままでは御公儀の手によって討ち取られてしまうかもしれない。何よりこれ以上
そしてその後にあの全身の傷の原因となった拷問を受けたのだろう。思い出した久助らは背すじをぶるりと震わせた。
「……よく逃げ出せたな。いや、よく殺されなかったな」
「向こうも私が間者だったという確信が持てなかったのでしょう。すぐに逃げ出さなかったことも油断を誘えたのかもしれません」
「すぐに逃げなかったのか?」
「というよりは報告の日を選んで逃げ出しました。それが一番助かる、あるいは報告することができると思いまして」
その機転のおかげで彼は生き延びることができ、そして三ケ日の危機を伝えることもできた。久助らは改めて男の働きに感服した。
「……大した奴だ。貴君の働き、まこと大儀であった。あとは我々に任せて今はゆっくりと休め」
「そうですね……それではお言葉に甘えさせてもらいます……」
やはり回復といっても最低限のものだったのだろう、男は横になるとすぐに寝息を立て始めた。一仕事終えた安堵からか、その寝顔は先程までよりは幾分穏やかなものとなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます