柳十兵衛 三ケ日の危機に直面する 2

 間者との待ち合わせ場所となっていた廃寺。しかしそこにいたのは何者かによってひどい暴行を受けたくだんの間者本人であった。

 あまりに唐突な状況に平左衛門は思わず悪態をつく。

「くっそっ!!」

 だが平左衛門はすぐにその間者に駈け寄ったりはしなかった。これ自体が罠である可能性がまだ残っていたためだ。この時平左衛門の頭の中ではおびただしい数の可能性が浮かんでは消えていた。

(くそっ!一体誰がこんな真似を!?牢人か?だとすると間者だということがバレたのか?あるいは尾張か?尾張だというのなら目的は何だ?濡れ衣でも着せるつもりか?しかしそれにしては行動が半端だ。もしや私が把握していない何かがあるのか?くそっ、わからないことが多すぎる。十兵衛殿は無事なのか?今すぐ江戸に戻った方がいいのか?)

 状況を把握しようとするもはっきりしないことが多すぎて考えがまとまらない。もしかしたらああかもしれない。あるいはこうかもしれない。様々な要因が絡み合い選択肢は指数関数的に増えていく。そんな気が遠くなるような思考の果てに平左衛門が選んだ行動は……。


「くっ!おい!大丈夫か、お前!」

 平左衛門は倒れている男に素直に駈け寄ることを選んだ。こういった自分の手に余る事態が起きた時は、下手に考えずに素直に流れに身を任せるべきである。それが彼の経験則であった。

 平左衛門が慎重に体をゆすると男は微かにうめき声をあげる。

「ぐ……あ……」

 男にはまだ息があった。しかし衰弱が激しく意識も朦朧としている。今から適切な治療を行ったとしても助かるかは五分といったところだろう。

 ならばと平左衛門は懐紙を取り出して適当な朝露で湿らし、それで間者の頬を叩く。

「これがわかるか?湿らした懐紙だ。わかったら何があったのか答えろ!それがお前の役目だろ!」

「うぁ……お役目……」

 濡れた懐紙による気付け。それとお役目という言葉は間者の男の精神を少しだけ奮い立たせた。

「う……伝えてくれ……。牢人どもが……三ケ日や気賀の関所を襲おうとしている……」

「お、襲うだと!?それはどういうことだ!もっと詳しく答えろ!」

 しかしそれだけ言うと間者の男はがくりと頭を下げた。慌てて脈を取る平左衛門。すると微かにではあるが脈も呼吸も残っていた。どうやら気絶してしまったようだ。だが重要な情報は確かに伝えられた。

『牢人どもが……三ケ日宿や気賀関所を襲おうとしている……』

 もはや躊躇っている時間などない。平左衛門は廃寺正面にて監視を行っているであろう種長から見える位置まで行き「おい、種長!来い!緊急事態だ!」と叫んだ。


 実はこの時平左衛門の中にはまだ、これら一連のことが尾張の罠である可能性を捨てきれずにいた。どういう筋書きを立てているかは知らないが、この不祥事を江戸の者のせいにして追求するのではないかという懸念だ。

 しかし傷だらけの間者を見て狼狽する種長の反応は演技には見えなかった。

「こ、こやつは間違いなく我々が送り込んでいた間者……!一体何があったというのだ!?」

「それはこっちが聞きたいくらいだ。おっと、先に言っておくがこちらのせいにするなよ?お前ならこやつの傷が今しがたつけられたものではないということくらい見当がつくはずだ」

「むぅ。それはわかっている。しかし本当なのか?牢人どもが三ケ日や気賀を襲撃しようとしているなどと」

「確かにそう言っていた。だがまぁ私の言葉では信じられないというのもわかる。だから今必要なのはこの間者の治療だ。こいつの口からならお前も信じるだろう?」

 間者の男の体には無数の傷があった。しかし致命傷に届いているものはないようで、まだかろうじてその息はある。治療をすればもう一度意識を取り戻すくらいは回復するかもしれない。

「種長、お前は友重殿を連れて三ケ日に戻り医者と匿える場所の確保を。それと十兵衛殿にここに来るように手配してくれ。私はここでできる限りの手当てをしておく」

「む。なぜだ?今すぐ治療が必要なのだから今すぐ運び出すべきだろう!」

「こいつ自信が敵あやかしの罠かもしれないだろ!敵の術が付いていないかを確認せずにつれて帰ればこっちの身まで危うくなる。故に十兵衛殿の目が必要なのだ!」

「な、なら某が一人で行っても……」

「尾張のお前が一人で行って十兵衛殿が素直に信じるわけがないだろうが!最終的には来るだろうが訝しむ時間が無駄になる!ほら、友重殿はこの廃寺の裏にいるから連れてさっさと行って来い!」

「……っぅ!承知した!」

 種長は平左衛門の指示ということで嫌な顔こそしたが、それでも向こうに理があることを認め友重を連れて駆けていった。小さくなっていく種長と友重の背中を見送りながら平左衛門は(どうやら罠ではなく本当に想定外の出来事だったようだな)と心中で呟いた。

(自分で言うのも何だが尾張の連中にとって一番厄介なのは私だ。その私を討てる千載一遇の機会が今だった。適当に間者襲撃をでっちあげて有無も言わさず切ってしまえばよかったのだ。だが種長は私を討とうとせず、むしろ私の指示に従いすらした)

 それはつまり――少なくともこの件に関しては――尾張は敵ではないということだ。だがそう結論付けた平左衛門の表情は暗かった。なぜならそれは間者が気絶する前に残した言葉、それもまた罠ではなく真実であるということだからだ。

『三ケ日宿と気賀関所が襲撃される』

(牢人たちの暴動の気配。これに尾張はどう動く?そして我々はどう動く?)

 思わぬ選択に迫られているのは尾張だけではない。平左衛門は焦りを感じつつも、まずは無数の傷を受けた間者の治療から手を付けた。


 平左衛門が現状できる限りの治療を済ませるとちょうど十兵衛と種長が到着した。道中で事情を聞いていたのだろう、やってきた十兵衛は一二もなく間者および周囲に目を走らせる。凡人には見えぬあやかしの術などが掛けられていないかを確認するためだ。

 険しい顔でしばらくせわしなく首を動かした十兵衛は、やがて安堵した表情で「大丈夫です。この者、および周囲にあやかしの気配はありません」と断言した。

「道中にも気配はなかったため問題なく運び出せるはずです。平左衛門様たちは準備を。周囲の警戒と殿しんがりは任せてください」

 そう言うと十兵衛は哨戒へと駆けていく。追手やあやかしはこのまま十兵衛に任せていいだろう。その間に平左衛門らも間者を運び出す準備を進める。

「具合はどうだ?」

「ここでできる限りの手当てはした。まだ息はあるがそれもどこまで持つかわからない。やはりどこか安全な場所できちんと治療をし安静にさせるべきだろう。匿える場所は?」

「候補はいくつか用意してある。今久助殿らが問題がないか裏を取っているところだ。向こうに着くころは準備を終えていることだろう」

「よし、ならばすぐに運び出そう。古い寺だが戸板の一枚くらいは残っているだろう」

 こうして平左衛門らは間者を戸板に乗せ担架代わりにして急いで廃寺から去った。手早い行動が功を奏したのか廃寺から去る彼らを見咎めるような者はどこにもいなかった。

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