柳十兵衛 三ケ日の危機に直面する 1
尾張から派遣された間者から調査報告を受け取るという依頼。その間者と落ち合う日が今日この日であった。
時刻は明け六つ直前。とある宿屋の門前で平左衛門と友重、そして久助がその最後の打ち合わせを行っていた。
「ではこれより平左衛門殿たちには間者との合流場所に向かってもらいます。場所は昨晩申しあげた通り、ここ三ケ日より北に歩いて四半刻(三十分)ほどのところにあります廃寺。一本道故に迷うことはないでしょう。ただし合印を忘れないようにしてくださいね」
「もちろん承知しておりますよ」
そう言って友重が懐から懐紙をちらりと見せると久助は満足そうに頷いて話を続ける。
「合流時刻は明け六つの鐘が鳴ってから半刻(一時間)ほど経った頃。間者は待ち合わせ場所に長く留まることはありませんのでこの機を逃さず接触してください」
「久助殿はついては来られぬのですね」
「ええ。下手に顔を覚えられると今後に響きますからね。ただ……言っておいてもいいでしょう。種長殿が離れた所より監視を行いますので下手な真似はなさらぬように」
そう言われて平左衛門らは軽く周囲を見渡すが種長の姿は見えない。おそらくもう道中にて待機しているのだろう。
「他に確認しておきたいことはございますか?」
「ええと、昨晩も訊いたのですが間者の外見的特徴は左手の甲でしたよね?」
「はい。左手の甲に方形の入れ墨が入った者です。向こうもそれを目印としていることは承知しておりますので、近づけばそれとなく見せてくることでしょう。他には何かございますか?」
平左衛門と友重は互いに顔を見合わせるがこれ以上は特に何もない。それを確認した久助は改めて二人に向かって頭を下げた。
「それではよろしくお願いいたします。問題は起こらないと思いますがそれでも道中お気をつけて」
やがて明け六つの鐘が鳴り各門が開かれる。他の旅人や商人が各々往来を進む中、平左衛門と友重は目立たぬように視線を伏せながら三ケ日宿の北門をくぐった。
久助曰く待ち合わせ場所の廃寺までは四半刻もあれば辿り着くと言う。だがそれはあくまで道なりに進めばという話だ。平左衛門と友重は途中までは道なりに進んでいたが、あるところから急に道から外れ獣道へと入った。
この行動の理由は二つ。一つは牢人たちの目に留まらぬようにするため。もう一つは尾張側の反応を確かめるためだ。どのくらいこちらを信用しているのか。そう獣道に入った平左衛門たちは、まずすぐ近くの木の陰に隠れて後方を確認する。
「いかがですか?平左衛門様」
「特に何も見えませんが、一つ気配はしますね。おそらく種長でしょう。……特に焦った様子は見られませんね」
「このくらいは想定の内と?」
「おそらくは。あるいは……」
とここで平左衛門が不意に笑った。友重がどうしたのかと尋ねると平左衛門は軽く口角を上げたまま説明をする。
「いやぁ、あまりに種長の気配がはっきりとしておりましてね。これは種長からの無言の伝言です。『こんな分かりやすく尾行しているのはお前たちが変に勘繰らないようにするためだ。だから余計なことを考えずさっさと仕事を終わらし尾張から出ていけ』――と言ったところでしょうな」
「……わかるものなのですか?」
「まぁ同業者ですからね。何事もないことがどれだけありがたいことかは互いに骨身に沁みてますよ。さて、それでは急ぎましょうか。寺の下見もしたいですしね」
こうして平左衛門は特に背後を気にすることなく草木を分けて獣道を進み、友重もそれに続いた。そして出発から二十分ほど経った頃、二人は指定された廃寺の屋根瓦が見えるところにまでやってきた。
指定された廃寺は小さな山の中腹あたりにあった。草木が生い茂っているためその全容は見えないが、遠くからでも屋根に開いた複数の大きな穴が確認できる。全体的な朽ち具合から廃寺になってからそれなりの月日が経っているようだった。
そんな廃寺のある山のふもとにまで平左衛門と友重の二人は来ていた。だが二人はすぐには踏み込まない。二人はしばらくその廃寺のある場所を見上げ、そして呟いた。
「……嫌な場所ですね」
「ええ。確かに隠れて会うには最適ですが、それはつまり隠れて襲うにも都合のいい場所だということ。……少し周囲も見てみましょうか」
さすがにいきなり踏み込むほど馬鹿正直ではなかった。尾張の罠とまではいわないが牢人がたむろしている可能性は十分にある。間者とやらが来るまでまだ時間の猶予はあるということで平左衛門と友重はとりあえず寺の背後に回ることにした。
さて、背後に回ると簡単に書いたがそれは決して楽なものではなかった。なにせ整備されていない山な上に友重らの履物は草鞋。加えて朝露のために平左衛門ですら一度、友重は数度滑ってどうにか寺の背後にまで回り込めた。
「……大丈夫ですか、友重殿?」
「どうにか。まったく、ここで懐紙を濡らしておきましょうか」
「はは。それもいいかもしれませんね」
友重らがこう言ったのは待ち合わせの合図のことだ。久助曰く今回の間者との合図は『濡れた懐紙を乾かす』というものだった。この頃の紙はまだ貴重品であり、ちょっとした汚れ程度なら捨てずにとっておくというのが普通だった。ましてや濡れた程度なら乾かせばいい。というわけでこれは少しは怪しまれるかもしれないが完全に怪しまれたりはしない、そんなギリギリの合印というわけだ。
「まぁ濡らすのはまだいいとして、それでどうですか?中の気配は」
「もう少し近づかなければ断言はできませんが、少なくとも集団がうろついているという気配はありません。正直この時期は猪とかの方が怖いですね。冬前で気が荒くなってることが多いですから」
「あぁ確かに獣が縄張りとしているところで待つのは少々危険かもしれませんね」
平左衛門らは(もちろん小声で)そんな他愛のない会話を交わしながら寺に近づく。実のところこのとき彼らは警戒はしていたが実際は何も起こらないだろうと高をくくっていた。しかし崩れかけの土壁に近づいた時、急に平左衛門の雰囲気が変わった。
「……っ!?」
友重は瞬時に平左衛門の異変を感じ取り、理由はわからないものの身を屈めて小声で尋ねる。
「ど、どうかなされましたか、平左衛門様?」
「あの木の幹に付着しているもの。あれはおそらく血です……!」
「なっ!?」
友重は平左衛門の視線を追う。しかしどの木かわからない。
「ど、どの木でしょうか?」
「……ここより二丈半(7m)ほど先の土壁に人がくぐれるくらいの穴が開いているでしょう。そのすぐそばの木です」
言われて見てみればその木には確かに朝露でもない木の蜜でもない何かが付着していた。平左衛門は冷静に気配を探ったのち、周囲に他の者がいないとわかるとその血の跡に近づいた。
「どうですか?」
「……乾いてはいますがそれほど古い血でもないですね。おそらくここに付着して半日も経ってはいない。あくまで推察ですが数刻ほど前の血でしょう」
「数刻……と言うとまだ日も昇っておらぬ頃ではないですか!?一体そんな時刻に何が……」
平左衛門が木と地面に残る血の跡を目で追い、そして顔をしかめる。その血の跡は土壁に開いた穴を越え、平左衛門らが間者と待ち合わせをしていた廃寺内へと続いていた。
「どうなされますか?」
友重が緊張した様子で尋ねてきたが平左衛門すぐには答えず、しばらく考えてから「ここで待っていてください」と言って廃寺内ではないどこかに消えていった。正直こんなところに置いていかれるのは心細かったがそれでも友重は素直に待った。平左衛門は程なくして帰ってきた。
「お待たせしました」
「……どちらに行かれていたのですか?」
「少し種長の場所を確認してきました。あやつ、のんきにも廃寺正面の木の上で見張っておりました。おそらくあそこで間者が来るのを待っているのでしょう」
「ん?血の相談をしに行ったのではないのですか?」
「まだ正体がわかっておりませんからね。もしかしたら尾張の罠かもしれないし、まったく関係のない者の血かもしれない。種長に話すのは正体を確認してからでも遅くはないでしょう。それで今から中に入って調べるのですが……」
ここで平左衛門は声の調子をさらに一段下げ、真剣な口調で友重に語り掛けた。
「中には私一人が入ります。友重殿は離れたところにて待機していてください。そして何かありましたら、私も十兵衛殿も気にせずに真っすぐに江戸へと戻ってください。この意味、わかりますね?」
友重は息を呑んだ。そう、平左衛門の言わんとしていることはわかる。しかしまさか自分がそのような場面に遭遇するとは思ってもみなかった。友重は一瞬ひるんだが、そこは新陰流門弟筆頭とも呼ばれる実力者。すぐに胆力を整え、余計な言葉なくまっすぐに頷いた。
「承知いたしました。お気をつけて」
「うむ、頼んだぞ」
こうして友重が少し離れたのを確認すると平左衛門は慎重に土壁を乗り越えて廃寺敷地内へともぐりこんだ。
土壁を乗り越えた平左衛門はすぐに身を屈め周囲を見渡す。少なくとも今の乗り越えを見咎めた者はいないようだ。平左衛門は続けてそのまま廃寺内の気配を探る。
(さて、潜んでいる者は何者だ?どこにいる?)
呼吸を整え、忍びの鍛錬で取得した感覚で気配の出所を探る。
しばらく探った結果、か細い呼吸を敷地の北西側で感じ取った。現在平左衛門がいるところからは真逆の位置に当たる。
(ちっ、遠い。……だが向こうはこちらに気付いていないようだ。うまくいけば背後まで回れるかもしれない)
こうして平左衛門は気配を消しつつその対象に向かって移動し始めた。幸いなことに廃寺内は伸びた草木や朽ちた建物の残骸で隠れられるところは山ほどにある。平左衛門程の実力者になればそこを縫うように進むことも難しいことではなかった。
(だいぶ近づいたが未だこちらに気付く様子はなし。一体何者なんだ?気配が漏れてることから本職の忍びではない。そも一人だけというのがまず不可解だ。罠か?いや、罠にしても中途半端だ。他にも仲間が潜んでいるのか?くそっ。わからないことだらけだ)
しかし平左衛門はそれでも勇気をもって歩みを進める。そして平左衛門はとうとうその潜む者が目に入るところにまでやってきた。
「なっ!あれは……!」
平左衛門が目にした者。それは傷だらけで倒れている一人の男であった。傷と言っても転んで出来た擦り傷のような生易しいものではない。遠くから見えるだけで十を越える刀傷。無数の青あざは暴行を受けた痕だろう。か細い呼吸は骨も数本折れているのかもしれない。そして何より注目すべき点はその転がる男の左手の甲に方形の入れ墨があったという点だ。
この男こそまもなくこの場で合流することとなっていた尾張が牢人徒党に送り込んだ間者その人であった。
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