柳十兵衛 三ケ日へと向かう 2
江戸時代の旅人は早朝・日の出前後に宿場から出る。これはできるだけ歩行時間を確保するためだ。なにせこの時代、道には街灯なんて気の利いたものはなく一度日が暮れれば外はもう歩けないほどに真っ暗となるからだ。
故に日が昇っているうちに歩けるだけ歩いておきたい。特に日が落ちるのが早い秋冬はその傾向が顕著であった。
しかしながら御油宿で一夜を過ごした十兵衛一行は明け六つの鐘が鳴ったにもかかわらず、特に急ぐ様子もなくのんびりと各々朝の仕度を行っていた。彼らがこれだけのんびりとできたのはその目的のためであった。
十兵衛らの今日の目的は本坂通道中の調査である。牢人徒党の頭領の蜘蛛のあやかし――その人物が道中に罠などを仕掛けていないかの調査だ。そのため急ぐ必要がないどころかむしろ往来に人影がない方が好都合であった。
そんな理由であえて出立の時刻をずらしていた十兵衛たちであったが、そこに一人の与力が訪ねてきた。
「久助殿、いらっしゃいますか?」
急な来訪者に何事かと身構える十兵衛と友重。しかし尾張方や平左衛門は来ることを知っていたのか落ち着いている。それを見て友重が平左衛門に尋ねた。
「平左衛門様、あれは?」
「あぁ、実は種長が十兵衛殿用の変装衣装を用意させていたのです」
「変装?なんでまた?」
「また昨日のように牢人に襲われてはたまりませんからね。少しでもその確率を下げるために種長が幾つかの変装を用意させていたようです。出立に間に合うかは微妙なところでしたがどうやら届いたようですね」
そう言われて届けられた荷物を見てみれば、それは確かに十兵衛サイズの様々な衣装の詰め合わせであった。小綺麗な商人風の着物に旅芸人風の軽装。地元の農民のようなものに所々に穴の開いたあえての牢人風の衣装もあった。
そんな中一同はとある衣装に目を留める。
「これは……」
「山伏の衣装ですね……」
少しくたびれた簡素な修験服。それは清厳が来ているそれと非常によく似ていた。
「……」
一同の間に妙な沈黙が広がった。おそらく全員が同じことを思いついたのだろう。
『これを着て清厳と兄弟のふりをすれば、おそらく誰も十兵衛だと気づかぬだろう』
だがそれを口に出すのははばかられた。十兵衛にはまだしも、清厳に『十兵衛と兄弟のふりをしろ』と言うのは何となくまずい気がしたからだ。
だが当の清厳はあっさりとその修験服を手に取った。
「この山伏の衣装など如何でしょうか。これなら私と共に歩けば武士とは思われないでしょう」
「えっ!?」
「……何か?」
「い、いや、何でも……」
一同が言葉を失う。よもや清厳本人からそのような案が出るとは思ってもみなかったからだ。久助が恐る恐る横目で見れば清厳は非常に涼しい顔をしている。
(気にしていないのか?……いや、おそらくあえて気にしていないふりをしているのだろう。家の問題が役儀の邪魔にならないと印象付けようとしているのだな)
涙ぐましい努力である。ならばそのままその意見に乗ってもいいだろう。
「そうですな。それが一番効果がありそうですな」
「刀も上衣に隠せそうですし悪くないですね」
「お召し物は預かってもらいましょう。どうせ一度戻ってきますからね」
こうしてあれよあれよという間に十兵衛は山伏の格好をすることとなったのだが、いざ着替えて清厳と並んで見せると一同は再度言葉に困った。
「これは……」
「まぁ不自然ではないですね……」
十兵衛と清厳。両者の顔つきは特別似ているというわけではなかったが、それでも同じ柳生の血が流れているだけあってか並ぶと妙にしっくりと馴染んでいた。
それこそ本当に兄弟だと言っても怪しまれないほどに。――あるいは本来はこのように並ぶことこそが両者にとっての自然だったのかもしれない。
思いがけず部屋に不穏な空気が流れるが、それを振り払うかのように久助は話題を変えた。
「あー、そうでした。変装に関してはまだあるんですよ。この眼帯なんですが、平左衛門殿か友重殿がつけていただければ……」
そう言って久助が取り出したのは片目を覆うタイプの眼帯であった。
「これを私か平左衛門様がですか?一体何故……?」
「これも十兵衛殿を隠すためのものです。牢人たちの気持ちになって考えてみてください。近くに十兵衛殿がいらっしゃるかもしれない。そんな折に半端に顔を隠した武士がいたらそちらに注目するものでしょう?」
「なるほど。その分十兵衛殿に向かう注目が減ると」
「いかにも。種長殿の案です。してどちらがお付けになられますか?」
「では私が……」
眼帯は迷うことなく友重が付けた。十兵衛の囮役を平左衛門にさせるわけにはいかないというのもあるが、他にも平左衛門に負担をかけない方が尾張側にとっては嫌だろうと思ったからだ。
実際付けてみれば眼帯には小さな穴が開いており完全に見えないわけではない。それでも平時よりは視界は狭く遠近感も微妙に狂っている。いざ戦闘になったときには眼帯を外す分一手遅れるかもしれない。だがそれは尾張側には伝えない。
「いかがですか?」
「……まぁ悪くはないですよ」
「それは何より。では準備も済みましたしそろそろ向かいましょうか」
こうしてようやく十兵衛たちは宿から出た。時刻は七つの鐘が鳴る頃であった。
さて、紆余曲折あったがようやく本坂通の調査が始まった。調査内容は御油から三ケ日までの区間にあやかしの罠等が仕掛けられていないかを調べるというもの。この調査はあやかしが見える者でしかできず、つまりは十兵衛しかできないため残りの者はサポートに回る。
具体的にはまず久助、友重、平左衛門が先導し道中に牢人その他調査の邪魔になるものがないかを調べる。そうして安全が確認されたところで十兵衛が検分を行う。その傍らには清厳が立ち周囲を警戒。また清厳には十兵衛の変装に説得力を持たせるという役割もあった。最後に御油方面・背後からの問題は種長が殿として対処するという布陣だ。これにより十兵衛は集中してあやかし調査が行える。
しかし当の十兵衛は(おそらく道中には何もしかけられてないだろうな)と予想していた。これは単に油断しているわけではなく、あやかしの術も万能ではないことを知っているからだ。
あやかしの術は確かに人知を超えているように見えるが、それはあくまで人の目線がためであり紐解いて見れば存外単純なものが多い。例えば単に影を大きく見せたり、五感を強化したり、火を起こしたり霧を発生させたりといったものだ。
確かに人の理を越えているものもあるが何でもできるというわけではない。特に御油から徒党の本拠地・三ケ日周辺までは軽く五里は離れている。それほどの距離があり、かつこんな無駄に人通りが多い場所にどんな術を仕掛けておくというのだろうか。事実それらしいところを見て回るも十兵衛は罠の痕跡すら見つけることはできなかった。
「ふむ……どうやらここも何もないようだな」
十兵衛のつぶやきに清厳が相槌を打った。
「ここもですか。いかにも何かありそうな
十兵衛と清厳。その背景には複雑なものがあるが、それを除けば何の因縁もない二人である。気付けば軽く会話をするくらいの仲にはなっていた。
「なんの痕跡も見られないようですが、これが普通なのですか?」
「まぁまだ三ケ日まで遠いからな。
本坂峠とは三ケ日の手前二里ほどのところにある峠である。逆に言えば十兵衛は五里中三里は何もないだろうとみなしているということだ。
「……意外でした。もっと細かく、嫌らしく罠が仕掛けられていると思っておりましたので」
「まぁ知らないとそう思うだろうな。だが実際のところあやかしの術なんてどれも慎ましいものさ。こんな人通りの多い場所に無差別にばらまけるようなもんじゃない」
「……十兵衛殿はいろいろなことを知っておられるのですね」
「なに、役儀柄というやつさ。そもそも俺の方が十ほど年上だからな。単にそれだけの差だ」
「そう、ですか……」
その後も十兵衛らは調査を続けるが本坂峠を越え、さらにはとうとう三ケ日宿に着いてもなお罠らしきものは見つからなかった。十兵衛は適当な茶屋に入り、客のふりをしながら久助に報告をする。
「少なくとも今日私が見て回った範囲には仕掛けらしきものはありませんでしたね」
「そうですか。蜘蛛ということで何か仕掛けているかと思ったのですがね」
「一口に蜘蛛と言っても多種多様おりますからね。あるいは彼らのねぐら周辺に集中して仕掛けているのかもしれません」
この報告を受けて久助は「ふむ……」と考え込むようなしぐさを見せた。もしかしたら十兵衛の報告を疑っているのかもしれない。久助はしばらく考え込み、やがてハッと気づいて十兵衛に頭を下げた。
「いやはや、ご報告いただきありがとうございました。これでこちらの調査もよりはかどることでしょう」
「お役に立てたというのなら何よりです。……何なら牢人らがたむろしているという山周辺も見てまいりましょうか?」
「いえいえ、それはさすがに頼りすぎというもの。残りはこちらでどうにかしますよ。十兵衛殿はどうかゆっくりとお休みください」
久助にそう言われれば無理に調査をする道理もない。十兵衛は素直に引き下がった。
「それではゆっくりと休ませてもらいますが、確か今日の宿は別に取ってあるんですよね?」
「ええ。昨日みたいに武士と山伏が同じ部屋に泊れば怪しまれますからね。十兵衛殿と、それと清厳殿とで同じ部屋に泊まってもらいます。清厳殿、問題ありませんね?」
久助が尋ねると清厳は涼しい顔で返事をした。
「ええ。何の問題もありません」
こうして今日の分の調査を終えた十兵衛と清厳は少し早いが指定された宿へと入った。予約されていた部屋は四畳一間のごく普通の部屋だった。一夜を過ごすだけなら何ら問題ない部屋だ。――共に寝る相手が尾張柳生の長男という点を除けばだが。
(いや、気にしすぎだな。向こうも下手なことをすれば柳生家だけの問題ではなくなるとわかっているはずだ。うむ、一夜限りだ。何も起こりやしないさ)
そう内心で自分に言い聞かせてから十兵衛はあえて隙多く畳に腰を下ろした。
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