前島平左衛門 交渉する 1
「某は、そちらから見ればいわゆる『尾張の柳生』――柳生
「柳生……清厳……!」
三河の山中で追ってきた牢人集団を倒した十兵衛。その際成り行きで共闘した少年が、いわゆる『尾張の柳生家』柳生利厳の長男・清厳だと明かされる。
唐突な江戸柳生と尾張柳生との邂逅に十兵衛も思わず言葉を失った。
江戸柳生と尾張柳生。両家は共に『柳生』の姓を持っているが、これは偶然同姓だったというわけではない。彼らは同じ大和柳生家の系譜であり、つまりは十兵衛と清厳はれっきとした親族であった。具体的に言えば十兵衛から見れば清厳は
しかしさほど遠くない間柄であるにもかかわらず両者は今回が初対面であった。それは単にこの時代の交通の便や日程の都合ではなく、江戸柳生と尾張柳生――彼らが同族であるにもかかわらず良好な関係ではなかったためであった。
両家の不仲。その原因と言えるであろうものはいくつかあるが、一つ上げるとするならばそれは両者の主君の問題であろう。宗矩率いる江戸柳生は家康、秀忠、家光と歴代将軍家・宗家の剣術指南役として仕えてきた。対して尾張柳生の利厳は家康の要請を経て御三家・尾張徳川家の義直の剣術指南役となった。宗家・家光と御三家・義直の関係性は以前に述べた通りで、近年のその冷たい対立は関係者各位にまで、つまりは江戸柳生と尾張柳生にまで伝播していたのだ。
このような背景から十兵衛もどう振る舞えばいいのか困惑していた。下手な真似をすればそれは江戸柳生家だけの問題ではなくなる。
(ちっ、確か清厳とか言ったな。こんなところで正体を明かすとはいったい何を考えているんだ?……いや、何も知らずに切り合ってたらそっちの方が問題となっていたのか?くそっ!急に厄介な展開になりやがって!)
政治的に複雑な状況。これに加えて十兵衛はさらに自分たちに近づく複数の気配を感じ取った。
(何だこんな時に。牢人の残党か?いや、それにしては数が多い……)
はっきりとはしないが向かってくる気配は人間の大人が五人前後。その一団はまっすぐ十兵衛らに向かってきており、やがて互いの姿が見えるところまで来ると彼らは安堵の声を上げて駆け寄ってきた。
「おお!ご無事でしたか、清厳殿」
「十兵衛殿。ご無事そうで何よりです」
現れたのは平左衛門と友重、それに清厳の仲間である尾行していた推定尾張の連中であった。数は二人と四人の計六人。どうやら向こうも向こうで互いに山中で顔を合わせて合流したらしい。そして彼らの登場は今の十兵衛には渡りに船だった。十兵衛、そして清厳はそそくさとそれぞれの陣営に戻った。
「お怪我はありませんか、十兵衛殿」
「問題ありません。それよりもそちらも尾張の連中と合流したのですね」
友重は「ええ、まぁ」と言ってから軽くそこまでの
曰く友重らも山中にて尾張の連中と遭遇、そこに牢人たちもやってきて三つ巴の戦闘が行われたそうだ。と言っても向こうの牢人は本隊からはぐれた二人だけだったためさっさとのされ、戦況はすぐに江戸と尾張の睨み合いとなった。一時はすわ切り合いという空気にまでなったそうだが、ここで平左衛門が推定忍びだと言っていた旅芸人が合流。この忍びと平左衛門が互いに顔見知りだったため両者は矛を収めることとなった。
「なるほど。それで共にいたというわけですか」
「ええ。刀を交える前でよかったですよ。怪我人がいたらそれこそ話がこじれていたでしょうからね。それよりも……」
友重は少し離れたところに立つ尾張陣営、その中の清厳をちらと見た。友重の語りと並行して十兵衛も簡単に己の経緯を話していた。
「あれが利厳様の嫡男ですか」
「ええ。軽く見ただけですがかなり場慣れしてました。年はおそらく又十郎(十兵衛の弟。のちの宗冬の幼名)と同じくらいだというのに、まったく末恐ろしいですよ」
清厳は周囲の大人たちよりも頭一つは小さいものの背すじを伸ばして堂々とその輪の中に混じっていた。幼いながらもしっかりと役儀をこなすその姿は同じ柳生の血を持つ者としては誇らしく、それでいて江戸柳生としては小憎たらしいという相反する感情を抱かせた。
この複雑な心中に十兵衛は思わず友重に尋ねる。
「友重殿。その……私は尾張柳生とはどう接すればいいでしょうか?如何せん彼らと会うのは初めてなものでして……」
珍しく小胆な態度を見せる十兵衛に友重は厳しめの口調で諫めた。
「まったくあんな子供相手に何を弱気になっておられるのですか、十兵衛殿。余計なことなど考えずに柳生家の嫡男らしく堂々としてればよいのですよ。そのような態度ですとそれこそ家の名誉にかかわってしまいますぞ」
「そ、そうですな。確かに友重殿のおっしゃる通りです」
加えて友重はもう一つ忠告をする。
「それと、決してあの少年と腕試しをしようなどとは考えないでくださいね。今や我ら柳生家は天下の柳生家なのですからね」
じとりと見つめて釘をさす友重に十兵衛も「そ、それももちろん承知しておりますよ」と返した。
この頃柳生新陰流は他流試合を禁じていた。理由は簡単で、うっかり負けて家の格を下げたりしないようにするためだ。
こう言うと非常に
さて、こういうわけで新陰流は他流試合を禁じていたが、では他流でなければどうなのか。具体的に言えば尾張柳生との交流試合などは行われていたのかというと、こちらもまた禁止されていた。その理由はやはりそれぞれの主君である家光と義直の関係を
たとえそれが交流試合であっても野良試合であっても、刃を交えれば少なからず優劣は決まる。それはつまり家光か義直のどちらかが『負けた剣客に剣を教わっている』ということになるということだ。未だ武勲を重んじる当世においてこれほど屈辱的な評価もないだろう。そしてその屈辱の矛先がどちらかの柳生家に向けられることも想像に難くない。このように誰が勝つにしても百害あって一利なしとなるため、やはり宗矩は尾張柳生との交戦を禁じていた。
「しかし実際はそれも向こう側次第でしょうな」
尾張とは争うなと言われてはいた。しかしそれは江戸側の一存で決められるものではない。友重の向いた先では尾張の者たちがこれからどうするのかを話し合っていた。そして話はまとまったのかそのうちの一人――前方を歩いていた武士の若い方が一歩前に出て十兵衛たちに向き直り自分の身分を明かした。
「
名指しされた平左衛門は一瞬素知らぬ顔でもしようかと思ったが、向こうには自分の顔を知る忍びがいる。下手に誤魔化したところで時間稼ぎにもならないだろう。平左衛門は十兵衛らに「あまり余計なことは言わないでくださいね」と忠告してから一歩前に出た。
「如何にも。某は従五位下・酒井讃岐守様の家来であるが、いったい何用か」
「我々は尾張
十兵衛らは(さて、来たか)と身構えた。尾張側の目的。それは先程の牢人たちとの一戦をダシにして十兵衛たちを拘束・調査しようとするものであった。
だが相手が尾張とあれば十兵衛たちも簡単に捕まるわけにはいかない。両者はじりじりと睨み合う。
こうして同じ三河山中にて、先程の牢人戦とは全く違う一戦が始まろうとしていた。
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