柳十兵衛 邂逅する 4

 三十六計逃げるに如かず。牢人たちに囲まれた十兵衛一行であったが一瞬の虚を突きその包囲を突破。そして今彼らは追手から逃れるために街道かられ三河の里山を駆けていた。

 里山は地元の農民らが踏み入るふもと付近は手入れがされていたが、少し奥に入るとすぐに自然のままに木々が生えた森林地帯となった。そこを十兵衛は脇目も振らずにやたら滅多らに走る。これは平左衛門からの指示があったためだ。

『この逃走には牢人だけでなくあの尾行をしていた推定尾張の連中を引き離すという目的もあります。向こうには忍びの者がおります故半端な逃げは意味がありません。とにかく今は周囲を気にせず走ることだけを考えてください』

 故に十兵衛は身を隠すように乱雑に生えた木々を右に左に駆けていく。十兵衛がその足を緩めたのは体感一里(4㎞)ほどを過ぎた頃だった。

(さて、そろそろ撒いたかな?)

 歩速を緩めた十兵衛は木の影に身を隠しつつ背後を窺う。そこには静かな里山が広がっていた。たたずむ木々に風に揺れる草花。遠くでは鳥が鳴いていたりと呆れるくらいに長閑のどかな風景だった。

(……どうやら撒けたようだな。だが平左衛門様たちともはぐれてしまったか)

 周囲を見渡せば敵だけでなく平左衛門も友重もいない。どうやら走っているうちにはぐれてしまったようだ。だがこれに関しても先に指示が出ていたため焦りはしなかった。

『もし互いにはぐれてしまった時は戻って二川宿で落ち合いましょう。いいですか?吉田でも御油ごゆでもなく二川で合流です』

 二川宿とはすでに通過した二つ前の宿場だ。追手側から考えれば普通逃げた十兵衛らは次の宿場・御油宿か直前の宿場・吉田宿へと向かったと考えるだろう。だが敢えてさらに逆行することで追手の目から逃れる作戦だ。また二川宿周辺は天領(幕府の直轄地)であるため推定尾張の連中も迂闊には手を出せない。こうして時間を稼いでいる間に態勢を整え、隙を見て先に進んだり脇道を選んだりすればいい。

(よくできた策だ。こんな策を瞬時に思いつくとは、さすがは平左衛門様だな)

 感心しながら十兵衛は東へと進む。二川宿は東に二、三里ほどのところにある。正確な現在地はわからないが近づけば人もいるだろうからそこで改めて道を訊けばよい。とにかく今は追手に気を配りつつ東に向かうことだ。

 しかしその道中で十兵衛はちょっとした失態を犯すこととなった。


(……何かいるな。野犬か、うりぼうか?)

 身を隠しながら二川へと向かう道中、十兵衛はそう遠くない背後に小さな気配を感じ取った。十兵衛は立ち止まり振り返る。左後方約数百メートルのところに小さな気配。しかし草木に隠れてその姿は見えない。

(……)

 少し考えたのち十兵衛はこれを気にも留めず再度歩き出した。気配の大きさからして人間の大人ではない。つまりは牢人でも尾行者たちでもないと判断したからだ。おそらく小鹿か野犬かうりぼうかといったところだろう。しかしやがて開けたところに出て、藪からばっと飛び出てきたそれを確認して十兵衛は自分の短慮を恥じた。

(しまった!そうだ、この子供がいたんだった!)

 十兵衛が邂逅したのは少年――尾行していた山伏親子の子供の方であった。驚き硬直する十兵衛。しかしこの邂逅は少年にとっても予想外のものだったらしく、少年は目を見開きひどく驚いた顔で「柳生……三厳……!」と呟き固まっていた。

(くそっ!まさか子供一人で追跡させるとは。それともはぐれたのか?いや、あるいは……!)

 ここで十兵衛はふと昔知人の忍びに聞いた話を思い出した。

『とある流派では背の低い忍びを子供に変装させて油断させるなんて手を使うところもある。見た目が子供だからといって侮ってはいけないぞ』

 この話を思い出した十兵衛は油断しかけた自分を諫め改めて相手を見定める。するとどうだろう、なんとこの少年はいつの間にか腰に脇差を一本下げていたのだ。改めて言うがこの少年は山伏の格好で尾行をしており、その腰にこのような物騒なものを下げていなかったのは道中で確認済みである。背中にでも隠し持っていたのだろうか?いや、隠し場所などどうでもいい。大事なのは彼が刀を下げて十兵衛を追ってきたという点だ。

「……っ!」

 警戒から十兵衛の右手が腰の刀に伸びる。それを見て少年も一気に険しい顔つきとなり、同じく腰の脇差に手を伸ばした。そして両者は抜刀寸前の体勢で固まる。

 三河の山中でにわかに十兵衛と少年との睨み合いが始まった。


 抜刀体勢のまま睨み合う十兵衛と少年。しかし実は十兵衛はここから先どうするかをまったく考えていなかった。

(どうする?まさか子供を切るわけにはいかないし……)

 先程十兵衛はこの子供を忍びの変装やもと疑ったが――もちろん未だその可能性は残ってはいるが――それでも相対する少年は普通に元服前後の子供にしか見えない。筋肉の付き方等を見るに下の弟・宗冬むねふゆと同い年くらいだろうか。さすがにそのくらいの子供を切り捨てるわけにはいかないが、かといって東に向かう姿を見られた以上放っておくわけにもいかない。

(まさか飴でもやれば懐いてくれるわけでもないし……さて、どうするか)

 十兵衛は何かいい案が思い浮かぶまで間合いを詰める等の牽制をして時間を稼ごうとした。

 これに対して少年の行動はある意味素直であった。十兵衛が睨みつければ同じように睨み返す。十兵衛が間合いを詰めれば下がり、下がれば詰めてくる。彼自身の目的はわからないが一応剣士として対峙しているようだ。しかも見たところ少年の動きは見様見真似のそれではなく、きちんとした師の下で鍛錬を積んでいるような動きであった。勝負の際にするべきこと、してはいけないこと、つまりは剣士としての基礎がしっかりとできていた。特に十兵衛を感心させたのが、少年がある距離になるとピタリと止まるという点であった。

「……くっ」

(ふむ。やはりこの少年、できるな……)

 少年は過剰に踏み込みもしなければ過剰に下がることもしなかった。しかし何度も押し引きを繰り返せばふとその距離が異様に近づくこともある。それでも少年はある一定の距離内には入らないように心掛けていた。その距離おおよそ八尺(約2.4m)。これはぎりぎり十兵衛の一刀が届かない間合いであった。抜刀をしていれば、あるいは路盤が整っていれば届いただろうが今の状況では一足では届かない。少年はその距離をきちんと見極めていた。

(いい目を持ってる。もう少し成長していたらいい勝負になったかもな)

 だがそれは二人が互角というわけではない。悲しいかな両者の間にはいかんともしがたい刀と体格の差があった。今の間合いは半歩踏み込めば十兵衛の間合いとなるが少年にとってはまだ間合いの外である。一手では確かに届かない。しかし三手四手と続いたら……。

 少年はその点もきちんと理解しているようで、両者互いに抜刀もせず足でのみの攻防であったにもかかわらず、彼の表情は喉元に刃を突き付けられたかのような切羽詰まったものになっていた。


 だからこそ先に引いたのは十兵衛の方だった。十兵衛は数歩下がり右手は柄に添えつつ、目に見えるほどに体の緊張を解いた。

「焦るなよ、小僧。俺は無駄に争うつもりはない。それはお前だって同じはずだ」

 十兵衛に小僧と言われた少年は一瞬酷い憤怒の表情を見せたが、それをすぐに収めて同じように一歩引いた。

「……こちらも無駄に争うつもりはございません」

 少し声変りが始まっていたが少年らしい高い声だった。こちらもやはり右手は添えたまま力を抜く。信用できるとまでは言わないがどうやら交渉はできるようだ。十兵衛はそのまま少年に尋ねる。

「争うつもりはないと言うがならば目的は何だ。どうして俺たちをつけていた」

「……お答えできません」

「どこの手の者だ。牢人か?あるいは三河の者か?」

「……」

「……牢人だというのなら切って捨てるが?こちらはそのくらいの権限は持っているぞ?」

「……どうぞご随意に」

 十兵衛は小さくチッと舌打ちをする。どうせきちんとした回答は帰ってこないだろうと思ってはいたが、いざこうも袖にされると気分も悪くなる。それにしたって今は牢人に追われている身だ。こんな少年にいつまでも構ってなどいられない。十兵衛は最後のつもりでもう一つ尋ねた。

「せめて名前くらい教えろ。さすがに名も知らぬ奴に追いかけ回されるのは気分が悪い」

 そう尋ねつつ十兵衛は(きっとこれも答えないのだろうな)と踏んでいた。しかし意外なことに少年は名前と聞いてピクリと今までとは違う反応をした。

「名前……それがしの名前は……」

 躊躇ためらいながらも少年は名乗ろうとした。意外ではあったが相手の情報が手に入るのなら願ったりだ。十兵衛は静かに少年の答えを待つ。

「某は……」

 そして少年が自分の名を名乗ろうとしたまさにその時、それを遠くから酒に焼けたしゃがれた声が邪魔をした。

「いたっ!あそこだ!柳生三厳だ!」


 驚いた二人が声のした方に目をやれば、遠い木の上から牢人の一人がこちらを指差しているのが見えた。そしてその指示に合わせて牢人たちが一気に十兵衛たちのもとにやってくる。その数六人。木の上にいた奴も含めれば七人だ。全員でないのは山中ではぐれたからだろうか。だがそれでも多勢に無勢なのは変わりない。一見圧倒的な状況に頭領らしき男が改めて勝ち誇ったかのように笑う。

「へへへ。舐めた真似してくれたな、柳生三厳。だがもう逃げられねえぞ」

「まったく、しつこい……その意気を別のことに向ければいいものを……」

「ふん、言ってろ。……あん?なんだ、そこの小僧は?」

 牢人が目に止めたのは十兵衛の傍に立つ少年であった。彼らもこんな少年が先程の十兵衛一行にはいなかったことは覚えていたようだ。

「あぁ、こいつは……」

 十兵衛はどう答えたものかと思案した。当然だが味方ではない。あえて言えば敵ではあるが同時に子供でもある。うっかり牢人に切られでもしたら寝覚めが悪い。

(『偶然会って道案内を頼んだ。相手をしてやるからこの子は見逃せ』あたりが妥当か)

 しかし十兵衛が答えるより先に少年は迷わず脇差を抜いて構えた。

「三厳殿。ご助力いたします」

「なっ、お前……!」

 凛々しく構えた少年に牢人たちが鼻で笑う。

「はっ、何だ小僧?お前も戦うっていうのか?」

「おいおい。切られたらチビるくらいに痛ぇんだぞ。わかってんのか」

「俺たちの目的はそこの柳生三厳だけだからよ、素直に逃げたっていいんだぜ」

 あざ笑う牢人たち。しかし少年は引かず、わずかに怒気を含んだ声で「……見くびるなよ」と呟いた。少年は完全に臨戦態勢であった。


 この流れに最も困惑したのは十兵衛であった。

(おいおい。俺はこいつの名前すら知らないというのに……)

 牢人たちはこの少年を十兵衛の味方だと思っているようだが、当の十兵衛からしてみれば自分を尾行していた怪しい少年である。しかもどうやらそこそこ腕も立つようで、うっかり背中を見せたがために切られてしまった――なんてことが起こらないとも限らない。

 なら無理にでも引きはがすべきなのだが、真剣に構える少年の横顔を見てそれも言い出せなくなった。十兵衛も幼き頃より剣士だったからわかる。牢人を見据える少年の目は大人や子供など関係ない剣士の目、剣士であろうとする者の目であった。こうなればもう言って聞くようなものではない。十兵衛は仕方がないとため息を吐き、少年に「無茶はするなよ」と声をかけてから自身も刀を抜いた。

 こうして三河の里山山中にて牢人たちとの一戦、そして謎の少年との共闘が始まった。

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