柳十兵衛 東海道を西へと進む 2
部屋に入った十兵衛は心底残念そうにため息をついた。
「はぁ……」
「気持ちはわかりますが自然ばかりはどうしようもできませんからね。素直に待つしかないですよ」
慰めるように声をかけたのは平左衛門だ。ちなみに友重は全員分の食事を買いに外に出ている。
「あ、いえ、わかってはいるんですよ。旅にはこういうこともつきものだとは。しかし今回は暇なときに散策もできないですからね。それを考えるとどうしても憂鬱で……」
「あぁなるほど。今は人目を避けていますからね。痛み入りますが大事を考えればそれも仕方がないですよ」
「わかってはいます。ですがこれならひたすら峠を越えている方がまだ楽しいですよ」
十兵衛は諦めた顔で苦笑した。
今回の旅のそもそもの目的は牢人の追跡から逃れるためである。そのため十兵衛は極力他人に顔を見せないようにしていた。街道で誰かとすれ違う時は自然に顔を伏せ、茶屋での休憩中も往来には背を向ける。そして宿場では極力外出しないことになっていた。友重が一人買い出しに出ているのもそのためだ。
ただ若く体力も有り余っている十兵衛にとってこんな真昼間からの軟禁は相当つまらないもののようだ。十兵衛は自分でも意識していないうちに、つい用もなく窓から外を見たり貧乏ゆすりをしてしまう。見苦しい行為ではあったが気持ちがわかるだけに平左衛門も特に口酸っぱく注意することもなかった。
こうして怠惰に時間が過ぎる中、ふと思いついた平左衛門が十兵衛に向かって尋ねた。
「それならば『
その名を聞いて十兵衛はまた一つ憂鬱そうにため息をついた。
「あぁそうでした。それもまもなくでしたな。いや、本当どうしましょうか」
今切とは現在で言う静岡県西部の湖・浜名湖から太平洋へとつながる幅約3㎞の水路のことである。ここもまた大井川のように橋が架かっておらず渡るには舟に頼るしかない。天候によっては運航が停止するところも同様で、今回のように思いがけず足止めをくらう人が多かったため『今切の渡し』という名所・難所として知られていた。
今十兵衛たちが滞在している島田宿から船乗り場のある舞坂宿までは約十五里・60㎞ほどで、明日朝一で大井川が渡れるようになれば明後日の昼頃には着くこととなる。そしてそれだけの距離であるために大井川と同じように天候により通れなくなっている可能性は十分にある。また昼から足止めをくらうかもしれないと思うと十兵衛は明らかに嫌そうな顔をした。
「さすがにあそこら辺まで行けば私を探す牢人もいないでしょうが……いや、でもあいつらは想像以上の行動力がありますからな……」
「半端はよくないですよ。やはり柳生庄に着くまでは極力人目は忍ぶべきかと」
「ですよね……。でしたら脇道を、確か
本坂通とは東海道の脇道の一つで、現在では『姫街道』という呼び名で知られている道である。区間は遠江・
「それは何とも言えませんね。一応本坂通にも
「東海道からの
「江戸からなら見附宿か天竜川を渡った後で
「最悪浜松まで様子を見れるということですか」
平左衛門は頷いた。
「明日朝一で川を渡れれば宿もおそらく浜松になるでしょうから、そこで情報を集めてから選ぶのもいいかもしれませんね」
「そうですね。そういたしましょうか」
話がまとまったところで友重も戻ってきた。十兵衛らは食事を取りつつ先ほどの話を共有し今日の日を終えた。
翌日の四日目は昨日から一転、非常に順調に進んだ。
まず川止めは朝一で解除されほとんど待たずに大井川を越えることができた。その後も難所は続くが半日休んだことが功を奏したのか十兵衛らは順調に踏破する。東海道三大峠の一つ『
「それでは少々噂を集めてまいります」
宿に着くと平左衛門は十兵衛と友重を残し街に出ていった。この先の今切や本坂通についての情報を集めるためだ。そして一刻ほどして戻ってきた平左衛門の報告は以下のようなものだった。
「どうやらこのまま素直に進んで今切を渡った方がいいかもしれませんね」
「本坂の方で何かあったのですか」
「それがあくまで噂なのですが本坂の道中、正確には
友重が「それはまた剣呑な」と唸った。
「ええ。しかも不気味なことに噂では、その徒党の首魁は蜘蛛のあやかしの力を授かっているというんです」
「あやかしですか」
ぴくりと反応する十兵衛。しかし平左衛門はすぐに釘を刺す。
「いけませんよ、十兵衛殿。我々は今旅の身。正式な依頼があればまだしも、他国で不要な真似はするべきではありません」
「わ、わかってますよ。役儀柄つい反応しただけです。……それでその徒党故に本坂は避けるべきだと?」
「ええ。対し今切の方はここしばらく舟が止められた日はないようですので、おそらく足止めされることはないかと」
報告を聞き終えた十兵衛が友重を見ると友重も納得したように頷いた。
「承知しました。それではこのまま東海道を進み、明日は今切を渡りましょうか」
当初の予定通り今切を進むことにした十兵衛たち。そして翌日彼らは今切の東岸・
舞坂宿は今切を渡るための船着き場がある宿場だ。そしてその今切水路の方に目をやれば、十人程度を乗せられる小さな帆掛け船が数隻行ったり来たりをしていた。舟は運航しているようだ。早速友重が調査に出て、そして戻ってくる。
「どうやらすぐに舟に乗れるようですが、いかがなさいますか?」
江戸側からの舟が混んでいなかったのは大井川で一日足止めがあったためだろう。十兵衛らはちょうど旅人たちの流れの隙間に来れたようだ。
「何か食べてからにしますか?確か向こうに着いたらすぐに関所でしたよね?」
十兵衛が言ったのは対岸・新居宿にある今切関所のことだ。ここ今切は古来からの交通の要所であるため御公儀の目も厳しい。対岸の船着き場は今切関所の柵内に置かれており、そのため向こうに着けばすぐにその身の改めで待たされることとなる。
「そうですな。それでは軽く腹に入れたらすぐに出ましょうか」
「ではそのように」
十兵衛らは軽く豆餅を腹に入れてから舟に乗る。
今切の渡しは難所とされていたが、それはあくまで厳しい関所や天候によるものであって一度舟に乗ってしまえばあとはただ対岸に着くのを待つだけである。こうして新居宿に着いた十兵衛らはその後の関所も問題なく通過し『今切の渡し』を背にした。
さて、このように大井川の一件を除けば十兵衛たちの旅路は順調なものだとと言えた。必然彼らの表情に緊張はなくその足取りも軽い。しかし吉田宿を越えたあたりからだろうか。十兵衛一行の口数が明らかに減り歩く姿にもどこか力みが見られるようになった。十兵衛らは視線を余計な方に向けないようにし、普通の旅人に見えるよう振る舞いながら道を進む。
そんな中極力自然に平左衛門が口を開いた。
「……あそこに掛茶屋(路傍で営む茶屋)が見えますね。少し休んでいきましょうか」
十兵衛と友重も自然に頷き、三人は道中に道具を広げる掛茶屋に近づいた。
茶を受け取った三人は適当な並木の下に腰を下ろす。会話なく薄い茶をすすり、同時に買った茄子の漬物をかじる。漬物は塩が効いており疲れた体によく沁みた。ふと見上げれば空は秋晴れで高く、遠くで
「……十兵衛殿。友重殿。気付いておられますか?」
十兵衛もまた茶をすする振りをしながら答えた。
「……ええ。
十兵衛がちらと友重を見ると無言で小さく頷く。友重もまた気付いていたようだ。今自分たちが得体のしれない連中に尾行されているということを。
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