柳十兵衛 東海道を西へと進む 1

 牢人たちに小田原にいることがばれたため急遽柳生庄やぎゅうしょうに向かうこととなった十兵衛一行。そんな彼らは現在小田原宿の次の宿場・箱根宿の茶屋にいた。箱根の峠を越える前に一つ英気を養っているところだ。

 ここで十兵衛らはついでにこの先の旅程について確認し合う。

「我々は近江おうみ水口宿みなくちしゅくまで行って、そこから南下して柳生庄へと向かうつもりですが平左衛門様もそれでよろしかったでしょうか?」

 十兵衛たちのいる箱根宿は現在の神奈川県の西端・箱根町に相当する。対し目的地である柳生庄は現在の奈良県北東部、京都との県境付近にある。京都付近ということで途中までは東海道が使えるが、直接柳生庄にまでは続いていないためどこかしらで脇道に逸れる必要がある。

 十兵衛たちが想定したルートは近江の水口宿から脇道に入るものだった。水口宿は現・滋賀県南部にある宿場で、そこから甲賀、伊賀、上野と南下しその後西に向かえば柳生庄である。江戸方面からならおそらく一番無難な行程であろう。平左衛門も特に異論なく頷いた。

「ええ、構いませんよ。私の用事は特に急ぐようなものではないですので。問題は日程ですね。あまり急ぎすぎると却って目立つかもしれません」

「そうですね。まぁ急ぐ旅路ではないですし、のんびりと行きましょうか」

 十兵衛と友重は鍛えていたし平左衛門も忍びの訓練を受けていた。そのため彼らなら五日もあれば柳生庄へとたどり着くことはできるだろう。しかし今回の目的はあくまで牢人の目から逃れること。目立つような行動は本末転倒である。というわけで十兵衛らは常人よりもやや健脚な程度、十日ほどかけて東海道を進むことにした。


 こうして改めて出発した十兵衛たちはまずは箱根の峠に挑む。箱根峠とは相模さがみ駿河するがを分ける箱根山を越えるための山道で、距離は短いながらもその分高低差が激しく、江戸から出て最初の難所ともいわれている。しかしそれも十兵衛たちにとってはただの景勝地けいしょうちであった。富士の山を右手に拝みながら難なく峠を越えるとその後もその健脚で富士川、薩埵峠さったとうげと名所・難所を越えていく。

 こうして一日二日と歩き、その二日目の日が傾きかけてきた頃、十兵衛らは駿府すんぷの城が見えるところまでやってきた。

「見えてきましたね。駿府城です」

「おぉ、あれが……」

 遠くに見える城郭を十兵衛は感慨深く眺める。実際のところ十兵衛は駿府城を見るのは初めてではない。柳生庄から江戸へと向かうときに一度拝している。しかしその時はまだ幼く世事にも疎かったため、ただ(あぁ、城があるなぁ)程度にしか思っていなかった。

 だが今は多少の勉強をしてその歴史的政治的な背景を知っている。例えばここ駿府は古くからの要地であり戦国時代には今川、武田、そして徳川家康が戦火を交えた土地であるということ。家康は晩年駿府城にて政治を行っていたこと。その家康が没した城であること。そして……。

「確か今の城主は……」

 十兵衛の小さな呟きに平左衛門は平素な声で答えた。

権大納言ごんだいなごん様。上様の弟君ですね」

 駿府城の現城主は徳川家光の実の弟・徳川忠長ただながであった。


 徳川忠長。二代将軍・秀忠の実子であり、また現将軍・家光の二つ下の弟でもある。後世に伝わる彼のエピソードで最も有名なのは、やはり幼少期は家光よりも次期将軍を期待されていたという話だろう。

 幼き日の家光は病弱で振る舞いも愚鈍だった。対し忠長は幼い頃から聡明かつ活発で、家臣らの中でも次期将軍は忠長がふさわしいのではないかという声は決して小さくなかったという。この噂に憂慮したのが家光の乳母であったお福ことのちの春日局かすがのつぼねである。彼女は家康に直訴。その後家康が正式に家光を次期将軍に指名したことにより後継者争いに幕が下ろされたという。

 この話がどこまで真実かは定かではないが、それでも将軍の実子でありかつ歳も二つしか離れていないというのなら忠長も十分将軍の地位を狙えただろう。しかし実際は何の混乱もなく将軍職は家光のものとなった。その後忠長は肩書こそ権大納言、駿府城城主にまでなったが政治の中心からは遠ざけられ冷遇をされている。時代と言えばそれまでだが、たった数年生まれるのが遅れただけでこうも異なる道を歩むことになるとは運命とは無慈悲なものである。


 十兵衛らもまた忠長の不幸の星にはそれなりに思うところがあった。しかし複雑なことに十兵衛らの主君はその忠長の政敵である家光である。故に単純に忠長に同情するわけにもいかない。見れば平左衛門も友重も何とも言えない、奥歯に物が挟まっているかのような顔をしていた。

 それに気づいた十兵衛らは互いに苦笑し合い、「行きますか」と言ってまた歩き始めた。その後十兵衛らは駿府城のお膝元・府中ふちゅう宿にて静かに一夜を過ごした。


 三日目。特に何事もなく府中を七つ立ちした十兵衛らは正午ごろに大井川手前の宿場・島田宿近くまでやってきた。

 川の気配を感じ取った平左衛門が十兵衛らに「まもなく大井川ですな」と声をかける。平左衛門がこう言ったのは一つにこの大井川が当時の国境いだったからだ。

 現在は共に静岡県の一部であるが当時はこの川を境に東は駿河、西は遠江とおとうみに分かれていた。ちなみにこの分割は斜陽となった今川家の領土を狙う徳川家康と武田信玄の密約によって決められたと言われており、十兵衛らにとってそれほど縁遠い話ではない。しかし声をかけた理由はそれだけではなかった。というのもこの大井川は東海道でも有数の難所と知られていたからだ。

 現・静岡県中部を流れる大井川。現在で言う南アルプス・赤石山脈を源流とする川であり、その長い延長上で蓄えられた水が集中して流れてくるために下流はかなり急流で、また増水・洪水もたびたび起こっていた。そんな川であるために舟はおろか常設の橋すら架けられず、渡河には川札を買って人足や馬に乗って渡る必要があった。後世の民謡に『箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川』と唄われているあたりその難所っぷりが伺える。

 というわけで十兵衛らも例に漏れず川札を買って渡ろうとするが、どうもその川札売り場のところが何やら騒がしい。友重が代表して近くの旅人に声をかけてみた。

「すみませんが、何かあったのですか?ここで川札が買えたと思ったんですが……」

「ん?あぁ、今日はもう『川止め』だとよ」

 川止めとは増水等で危険なため人足や馬の渡河を一時禁止することである。そして彼らが川を渡れないということは必然旅人たち、十兵衛たちも足止めをくらってしまう。

「えっ、そんな!こんなに晴れてるというのにですか!?」

「上流の方で降ったんだろうさ。なんせこの川はかなり山奥まで続いてるっていうからね」

 大井川の延長は160㎞を越える。加えて上流には水を貯える山々が連なるため、上流で降った雨が数日後に下流を増水させるということは珍しいことではなかった。川札売り場に集まっていた人たちもそのこと自体は理解しており、ある程度不満や愚痴を吐き出したらさっさと今日の宿を取りに散っていった。そして十兵衛たちもそれに続く。

「まぁよくあることですからね。諦めてどこかで宿を取りましょうか」

 その後十兵衛たちは一番最初に声をかけてきた宿の呼び子についていき今日泊る一室を借りた。

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