柳十兵衛 柳生庄へと向かう 3

「というわけで近々柳生庄に発つこととなりました」

 十兵衛はそう言うとぐっと御猪口を傾けた。空になったそれに酒を注ぐのは柳生家家来・大場又三郎おおばまたさぶろうの叔父だった。

「また急な話ですな。しかし見知らぬ土地でないだけまだマシなのかもしれませんな。ささっ、どうぞどうぞ」

「これはかたじけない。……ふぅ。それにしてもいい酒ですね」

 十兵衛は例の小田原異変以降こうして時折又三郎の叔父の家に赴き酒盛りをするようになっていた。どうも叔父の酒の趣味は十兵衛と合うらしく、小田原における十兵衛の密かな憩いの場となっていた。そして当然そこには又三郎も同席している。

「ところで十兵衛様、私はどうなるのでしょうか。私も柳生庄にお供するのですか?それとも江戸に戻ることに?」

 又三郎は十兵衛のお供として小田原に来た。必然十兵衛の人事は又三郎の人事でもある。ちなみに現在又三郎は良兼宅ではなくこの叔父の家で寝泊まりをしていた。そのためか叔父の方も気持ちそわそわとして聞き耳を立てていた。

「あぁそのことなのだが、お前はここに残って引き続き良兼殿や重信殿に協力してくれ。加えて小田原の内偵もお前が引き継ぐこととなった。二月に一度讃岐守様の使いが来るから卒なくこなすように。……と、これは叔父上殿の前で言うことではなかったな」

「ふふっ。私はもうすっかり酔ってますからね。何も聞いちゃおりませんよ」

「それは重畳。ならばもっと酔わせてしまおうか」

 十兵衛はそう言って叔父の御猪口に酒を注いだ。叔父はそれを楽しそうに傾けた。


 数日後、改めて江戸から辞令を携えた使いの者が訪れた。その使いの者を見て十兵衛は驚いた。二人とも見知った人物だったからだ。

 一人は前島平左衛門まえじまへいざえもん。老中・酒井忠勝の家来で半年ほど前に本庄での山賊騒動で世話になった相手だ。そしてもう一人は柳生家家来にして新陰流の高弟・木村友重きむらともしげであった。

「お久しぶりです。友重殿もですが、まさか平左衛門様がいらっしゃるとは思ってもみませんでしたよ」

「ちょうど私も京方面に用事があったんです。そしてそれを知った殿がならばと手配したようで。また道中よろしくお願いします。……準備はもう少しかかりそうですか?」

「あ、いえ。荷物はもうほとんどまとめております。あとはもう旅装束に着替えるだけですので少々お待ちください」

 立ち上がった十兵衛に友重が付き従う。

「私もお手伝いいたしましょう」

「それでは私は改めて良兼殿に挨拶をしてきます。終わった者から門前で待つということでよろしいですかな?」

「承知いたしました。では門前にて」


 良兼より借りていた自室へと戻った十兵衛。出立の準備はしてあったので部屋に物はほとんど残っていない。あとはもう旅用の装束に着替えるだけだ。着替えつつ十兵衛はついてきた友重に声をかけた。

「それにしても家の者が誰か来るとは思っていたがまさか友重殿がいらっしゃるとは。驚きましたよ」

 木村友重。柳生家・宗矩の古くからの家臣であり同時に新陰流の高弟でもある人物だ。その腕前は門弟筆頭と目されるほどで、家光の受太刀役として選ばれたこともある。そんな重要な人物に江戸を離れる許可を出すとは、父・宗矩も随分と思い切ったことをしたものだと驚いた。

「殿が機会のある時に故郷を見ておけとおっしゃられたので、僭越ながらお言葉に甘えさせてもらいました」

「故郷。そうか、確か友重殿は……」

「ええ。柳生庄のすぐ近く、邑地おおじの生まれにございます」

「そうか。それなら道中に寄れそうだな」

 さて、そんな世間話をしていた十兵衛たちであったが、十兵衛が着替え終える頃になると急に友重がその声の調子を一段下げて呟いた。

「ところで十兵衛殿。殿より言伝を承っております」

 急ではあったが、なんとなくそんな気がしていた十兵衛は草鞋を締めつつ「ん。」とだけ言って話を促した。友重は周囲に誰もいないことを確認してから十兵衛だけに聞こえる声で話す。

「『向こうに着いたら怪しまれない範囲でいいので、沢庵たくあん和尚の噂を集めてきてほしい』とのことです」

 十兵衛はやはり一言「ん。」とだけ応えて立ち上がった。そして何事もなかったかのような顔で、

「さて、それでは参ろうか。平左衛門様も待ちくたびれているはずだ」

と言って歩き出した。

 友重も「そうですな」と応えてそのあとに続いた。


 沢庵和尚。現在ではたくあん漬けを作ったという伝承で知られるこの人物は実はこの時代の人で、そして当代でも有数の禅僧でもあった。人柄、説法、知識、どれをとっても一流で交友関係も天皇、公家、僧侶、大名と幅広い。十兵衛の父・柳生宗矩もまた沢庵とは深い親交があり、その縁で子である十兵衛とも交流があった。

 だが一方で和尚のような影響力のある人物を幕府は快く思っていなかった。権力の一極化を望む幕府にとって寺社勢力は無視できるものではない。対して和尚は和尚で権力になびくような人物ではなかっため、両者の間でいずれ何かが起こるのではないかと彼の友人らは戦々恐々としていた。宗矩もそんな人物の一人であったために今回十兵衛にこのようなことを頼んだのであろう。

 余談だが歴史に詳しい人ならば沢庵和尚と聞いて『紫衣事件しえじけん』を思い出すかもしれない。これは徳川幕府と朝廷および寺社勢力が大きく対立する事件なのだが、沢庵和尚はこれの中心人物の一人であった。その紫衣事件が起こるのは西暦1627年。対し現在十兵衛たちがいるのは1626年。つまり今は紫衣事件の前年の年であった。


 閑話休題。

 こうして十兵衛らが仕度を終えて門前へと向かうとそこには平左衛門と、どこから聞きつけたのか又三郎が待っていた。

「おや、来たのか。人目を忍びたいから見送りなんぞ要らんと言ったのに」

「へへ。叔父が行っておけとうるさくって……友重様もお久しぶりです」

「うむ、久しいな。よく励んでいるという話は聞いているぞ」

 友重がそう労うと又三郎は素直に照れた。実際又三郎は小田原に来た頃と比べると数段成長している。それこそ十兵衛が安心して後任を任せられるほどにだ。

「ではこちらのことは任せたぞ。重信殿にもよろしくな」

「はっ。道中お気をつけて」

 丁寧に頭を下げて見送る又三郎を背に十兵衛たちは歩き出した。

 しばらく歩き又三郎が見えなくなったところで友重がぽつりと呟いた。

「又三郎、だいぶ顔つきが変わりましたな。男子三日会わざれば、というやつですかな」

「ええ、まったく。こちらも気合を入れなければ笑われてしまいますな」

 やがて十兵衛らは小田原宿の端まで来た。宿場の境を示す門。その先には長く続く東海道。そして遠くには箱根の険しい峠が見える。しかしそれですらまだ序の口である。ここから柳生庄までは約百里、約400㎞の長い旅路だ。当然難所はまだまだある。しかし気後れしても仕方がない。

「それじゃあ行きますか」

「ええ」

 こうして十兵衛ら一行は気合一つ入れて柳生庄への一歩を踏み出した。

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