柳十兵衛 柳生庄へと向かう 2
ある秋の某日。
十兵衛は小田原にて世話になっている
そんな珍しく浮き足立つ様子の十兵衛を見かねた家来の一人がとうとう本人に声をかけた。
「どうかなされたのですか、十兵衛殿。先程から門の方へと行ったり来たりして。誰か来訪の予定でもあるのですか?」
尋ねるとそわそわしているところを見られたためか、十兵衛はばつが悪そうに苦笑しながら答えた。
「実は江戸から
「讃岐守というと年寄衆様の!?……あぁ、そういえば十兵衛様のなんとか改め方は年寄衆直属とかおっしゃってましたね。それ関係でしょうか?」
「ええ。いろいろと定期的に報告することがあるんですよ。それで前もって届いた手紙には昨日お見えになるという話だったんですがいらっしゃられなくって……。特別時間に厳しい人ではないですけど遅れたことはなかった人だけに少々心配でして」
「それは確かにちょっと気になりますね。ここ数日は日和もよかったですし、それに牢人の噂もありますしね」
江戸から小田原までは東海道を普通に進めば二日から三日で着く距離だ。道中は路盤もよく難所も特にないため、よほどのことがなければ予定が崩れることはない。にもかかわらず忠勝からの使いはまだ現れていない。
「まぁ大丈夫だとは思いますが、それでも気になることには変わりなくって。屋敷から離れることもできなくてちょっと困っているんですよね」
十兵衛は頭を掻きながら門の方を見るがやはり誰かが訪ねてくる気配はない。
結局この日も老中からの使いは来ず、彼らが良兼宅に到着したのは翌日昼前のことだった。
「いやはや十兵衛殿。この度は遅れて申し訳ない」
翌日の昼前八つ半の頃。良兼より借りている十兵衛の自室で老中・酒井忠勝の使いの者たちは軽く頭を下げた。結局彼らは予定より二日遅れてやってきた。何かあったのかと気を揉んだが少なくとも外傷等はないようだ。
「いえいえ、ご無事で何よりです。それにしても遅れるとは珍しいですね。江戸で何かあったのですか?」
「うむ。江戸というよりは……いや、それは後で話しましょう。先にいつもの報告をしてくれますかな?」
「はっ。それでは……」
使いの者の妙に含みのある言い方は気になったがそれを無理に聞き出せるような立場でもない。十兵衛は言われた通り素直に定期の報告を始めた。
十兵衛が彼らに報告するのは主に二つ。一つはあやかし関連の報告。そもそも怪異改め方の十兵衛はこのために小田原へと来たのだ。しかし原因となった異変はもう解決しているし、その他の事件もこの地の陰陽術師・
ここ小田原は幕府にとって戦略上の要地である。そのため一般的な旗本ではなく、より幕府に近しい者――老中直下の
とはいえ秀用家臣らは真面目に役儀をこなしており、また現在小田原付近に特に不審な動きはなく、その点で報告は気が楽であった。
「以上のように現在小田原公儀には特に問題はございません。強いて言うならば周囲に牢人を見かけることが多くなったくらいでしょうか。ですがそれも今のところよく対処しております」
十兵衛がそう報告すると使いの者は「ふむ……」と考えるように黙った。
(おや、何かまずいことでも言ってしまったか?)
どきりとする十兵衛。間者のような真似事をしてはいるが別に小田原の知人らを
「実はですな、今回到着が遅れたのは他でもないその牢人の調査が原因だったのです」
「先日の上様上洛を契機に牢人が大都市から地方に流れ出てきている、というのは十兵衛殿も存じておりますな?」
「ええ。向こうで起こった大規模な対牢人政策がためですよね」
数か月前、将軍・徳川
「当然こちらも奴らの動向には目を光らせているのですが、どうも分析の結果ここ最近小田原周辺に多く現れるようになっているのです。いや、小田原へと流れていく者が増えたと言った方が正しいですかな?」
「ここにですか?確かにここ最近牢人の数はぐっと増えましたけれど、それにしても何故?」
十兵衛が当然の疑問を口に出すと使いの者は神妙な顔でこう言った。
「それがですな、奴らの一部は十兵衛殿を……いや、『柳生三厳』が目的のようなのです」
「なっ!?私をですか!?な、何故に!?」
当然十兵衛は驚くし簡単に信じられもしない。しかし語る使いの顔は変わらず真剣である。
「奴らはどうやら十兵衛殿を――三厳殿を討って名を上げるつもりのようです。どうも最近十兵衛殿が江戸の外で活動しているということが知られてしまったようで。江戸外ということは必然周囲の仲間や護衛の数は少なくなる。ならばこれを機に……という考えを持つ牢人が出てきたようです」
「それはまた……面倒なことに……」
十兵衛は心底厄介そうにため息をついた。
言うまでもないことだがこの時代であっても下手に刃傷沙汰を起こせば捕らえられて裁かれる。加えて十兵衛は幕府要人の親族であるため手を出せば当然ただでは済まないだろう。しかし一方でこの頃まだ戦国の気風が残っている時代でもある。著名な剣士を討ち取ったとなれば一目置かれるのもまた間違いではなく、それにより仕官の道が開かれるということもない話ではない。危険な賭けだがどうせ失うものは何もない牢人たちである。今の十兵衛がちょっとした御馳走に見えてしまうのは致し方ないことであった。
「……それはやはり結構な数なのでしょうか?」
「いえ、まだそれほどでは。ただ全くいないというわけではないですね。今回道中の宿場で調査したところ、確かに牢人たちの間に『柳生三厳が小田原周辺で牢人狩りを行っている』という噂が広がっていました」
「弱りましたね。小田原にいるというのはごく一部の人しか知らないはずなのですが……」
「まぁ人の口に戸は立てられぬといいますからね。いずれ露見はしたことでしょう。問題はどこから漏れたかではなく、漏れた今どう動くかという点です。幸い今はまだ噂の段階ですが……」
「ええ。いずれ乗り込んでくる牢人が現れてもおかしくはない。そうなればここ小田原にも本格的に迷惑が掛かってしまう。……ということは私は江戸へと戻るのでしょうか?」
十兵衛がそう尋ねると使いの者はふむと言ってこう尋ね返した。
「そのことなのですが、十兵衛殿。十兵衛殿がよろしければ
「柳生庄でですか!?」
思ってもみなかった提案に十兵衛は驚いた。
柳生庄とはその名の通り柳生家父祖伝来の地。場所は現在で言う奈良県の北県境付近、奈良市から見て北東の山中にある小領であった。領主はもちろん父・柳生宗矩で、十兵衛も幼少期を過ごしていた土地である。
「ええ。十兵衛殿を柳生庄に送り、その後虚実混ぜた噂を流せば牢人らも十兵衛殿をあきらめることでしょう。実はこの件は御父上である宗矩殿にも相談をしてまして、その際に宗矩殿が出された案なのですよ。あそこなら十兵衛殿も土地勘があります故動きやすいだろうと。もちろんその他年寄衆様も承認しております。動かせる者を西に置いておくのは心強いとのことです」
どうやら話はすでに上の方でまとまっていたようだ。こうなればもう十兵衛も受け入れる他ない。幸いなのは知らぬ土地ではないということだろう。
「承知いたしました。それでは柳生庄へと向かいますが……それは今すぐに、でしょうか?」
十兵衛が伺い立てると使いの者は一転気さくそうに笑って首を振った。
「いや、さすがにそこまで性急な話ではないですよ。今回は定期報告のついでに道中の牢人調査、それと十兵衛殿に柳生庄の案をお話ししに来たただけです。正式な辞令及び同行者は数日後改めてそちらに遣ります。それまでに諸々の仕度を済ませておいてください。ふふっ。十兵衛殿もこっちにいい人の一人や二人位いるでしょうからね」
にやりと笑った使いに対して十兵衛は「ご、ご勘弁を……」と言って話をかわした。
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