柳十兵衛 柳生庄へと向かう 1

 一人の牢人ろうにんが必死の形相で秋の相模さがみの山中を駆けていた。

「ち、畜生!なんだってんだ、あいつはよぉ!?」

 泣き言を漏らしつつ牢人はとにかく道なき道を逃げに逃げる。自分が今どこにいるかも定かではないがそれよりもまずは『あいつ』から逃げなければ。

 やがて息が切れるまで走った牢人は適当な木の根元にうずくまって身を隠した。これだけ走ったのだ、きっと撒けたことだろう。これで見つけられたら相手はきっと妖怪か何かだ。

 そうしてうずくまっているとようやく呼吸も落ち着いてきた。どうやら撒けたようだ。男はほっと一息吐くが安心もつかの間、男の目の前の藪が不意にガサゴソとうごめいた。嫌な予感に男は「ひっ!?」と小さな悲鳴を上げて固まる。そしてその予感は当たった。そこから現れたのは今牢人の男が一番合いたくない相手――男を追いかけ回していた小田原の同心の男であった。

「やれやれ。よくもまぁこんな山奥にまで逃げ込んだものだ。お前は天狗か何かか?」

「ひゃあっ!ば、化け物っ!?」

「おいおい、化け物とは失礼だな。ある意味真逆の存在だというのに」

 同心の男は緊張感のない様子で、しかし隙なく間合いを詰めてくる。その不気味な雰囲気に牢人は自分が逃げ切れないことを察し、覚悟を決めて刀を抜いた。

「くっそ!なんでここまで執拗に追いかけてくるんだよ!」

 牢人は威嚇するようにその切っ先を同心の男に向ける。しかしその男は怯える様子もなくただ心底呆れたようにため息を一つついた。

「街道での強請ゆすりに追い剥ぎ、その他もろもろ。十分追われる身分だろうが」

 そう言うと追手の同心も刀を抜いて構えた。その姿はひどく堂に入っており牢人は思わずうろたえるが今更引くこともできない。牢人はせめてもと心の内で必死に自分を鼓舞する。

(くそっ、落ち着け!抜いた以上は勝負は五分なんだ。それによく見りゃ向こうはだいぶ若いじゃねえか!)

 追われていた時は気付かなかったが向かい合った同心の男は思っていたよりも若かった。おそらくは二十前後だろうか。それに気づくと牢人は急に自信を持ちだした。

(はっ!所詮しょせんは小僧!実戦になればビビって動きは鈍るに決まっている!加えてこの山中。あのデカブツじゃあまともに動くことも難しいはず。その隙をついて一太刀さえ入れればあとはもうこっちのもんだ!)

 そう自分に言い聞かせ牢人の男は先手必勝と言わんばかりに同心の男に飛び掛かった。

「ちぇあぁぁぁ!!」

 実のところ牢人の戦法は悪いものではなかった。瞬間的に思いついたにしては地形や状況を加味したいい案だと言える。

 だが彼の不幸は相手が柳生新陰流師範・柳生宗矩やぎゅうむねのりが長男・柳生三厳やぎゅうみつよしであったという点だ。三厳は相手の刀を難なくさばき、そのまま流れるように刀の峰を牢人の首筋に叩き込んだ。鎖骨が折れる感触と共に牢人の男は「ごひぃっ」と情けない声を上げてその場に崩れた。

「まったく手間を掛けさせやがって。しかし本当に最近牢人が多いな」

 三厳はうずくまる牢人を見下ろしながら指折り数える。三厳がこのような牢人を取り締まるのは今月に入ってからもう八人目であった。

 ここ小田原周辺では最近不審な牢人の目撃情報が増えていた。


 『牢人』とは主君の死や解雇などにより仕官先を失ってしまった武士、つまり無職の武士のことを指す。この牢人という存在はこの頃の幕府にとって悩みの一つであった。というのも先程の例のように各地で悪党・無頼に落ちる牢人が多発したからだ。

 悪事に手を染める牢人が、あるいはその前身である単なる牢人が増えた理由は複数の時代的な要因のためである。まず一つに徳川家による他家勢力の弱体化政策があった。徳川の太平を守るために転封てんぽう改易かいえきなどを行い他有力大名の力を削いだのだが、この余波で多くの武士が仕官先を失い牢人となってしまった。職を失ったというのならまたどこかに仕官すればいいのではと思うかもしれないが、この頃はそれも御公儀が制限していた。牢人とは武士でありつまりは兵士、兵力である。誰かが兵を集めて徳川に牙をむいてはいけない。そのため幕府は牢人の表立った再仕官を禁止した。ただこれには大名側もある程度同調していた。世は太平。果たして戦闘職である武士を新たに雇用する意味はあるのか?それよりも経済政策や他家との交際に力を注ぐべきではないだろうか?以上のような要因から一度牢人となってしまった者はなかなか牢人から抜け出せないという環境が出来上がってしまった。

 こうして生まれた牢人たちであったが、もちろんすべての牢人が悪事を働いたわけではない。実際は伝手つてを頼りにこっそりと再仕官したり、武士の道をあきらめて商人や百姓の道を歩む者が大半であった。しかしそうでない奴らも当然いた。彼らは元が戦闘階級であるために腕っぷしに自信のある者が多く、加えて失うものもほとんどない上に結局捕まりさえしなければお咎めもないのだから一度悪事に手を染めてそのままずるずるとその道に堕ちていく者も少なくなかった。

 これは為政者側からすれば当然見逃せない案件だ。職に就こうとしない牢人は潜在的な危険因子であり、また彼らは主従関係を持たないため既存の社会構造に基づくコントロールもできない。そのため大都市は牢人対策として牢人の捕縛や追放を行った。江戸はもちろんのこと、有名なのは京都所司代きょうとしょしだい板倉重宗いたくらしげむねの指揮の下行われたそれだろう。この牢人追放政策により京都およびその周辺の大都市では牢人の数が激減した。

 しかしそれは牢人そのものが減ったというわけではない。あくまで大都市から追いやったというだけである。そして追いやられた牢人たちは今度は小村や街道付近にて小規模な徒党を組み悪事を働くようになった。今回三厳が捕らえた牢人もそんな牢人の一人であった。


「さてと」

 牢人を縛り終えた三厳は懐から懐紙をねじったようなものを取り出した。そして周囲が開けたところを見つけると今度は火打石を取り出し先ほどのねじった紙に火をつける。紙はすぐに燃えて黒い煙を出す。燃える紙をを地面に投げ置けば黒煙が真っすぐ一筋に天へと昇っていく。携帯用の狼煙のろしであった。紙の中には松脂やオオカミの糞、硫黄などが入っており専門的な訓練をうけなくとも火をつけるだけで簡単に狼煙を上げることができる。携帯用なのでその煙は細くて頼りないが、この秋の晴天下ならば目印には十分だろう。予想通りしばらくしてからガサゴソと見知った顔が現れた。三厳と同じく牢人捕縛に駆り出されていた小田原の同心たちであった

「ご無事ですか、十兵衛じゅうべえ殿」

「ああ。問題ない。そっちの方はどうだ?」

「こちらも破落戸ごろつき共の隠れ家を突き止めました。ただ中に複数人いるようで、踏み込む際には十兵衛殿のお力が必要かと……」

「わかった。すぐに行こう。代わりに誰かこいつを連行していってくれるか?」

「ではそれは某が」

 こうして三厳は牢人の縄を別の同心に預けて次の現場へと駆けだした。ここ数か月の間に三厳は小田原同心らに頼られるほどの存在となっていた。

 なお彼らは三厳のことを十兵衛と呼んでいたがこれは間違いではない。当時は理由があれば複数の名前を使うことは珍しいことではなかった。彼は確かに柳生三厳であったが、同時に老中直属で天下の怪異あやかし事件に対応するお役目・怪異改め方の柳十兵衛やなぎじゅうべえでもあった。

 柳十兵衛は先日の小田原異変以降小田原に常駐してこの地の治安維持に協力していた。

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