柳十兵衛 小田原異変を終える(第二話 終)
「遅いですね。どうします?乗り込んでみますか?」
「いや、中にいるのはあの柳生殿の御子息だ。万が一ということもあるまい。もう少し待ってみよう。」
このような会話をしていたのは十兵衛と共に村に来ていた良兼の家来二人であった。二人は息をひそめ近くの茂みから砥ぎ師の小屋を見張っていた。小屋の中には十兵衛と砥ぎ師の老人がいるはずだ。しかし小屋は見た限りしんと静まり返っていた。
十兵衛が「刀を砥いでもらう」と言って中に入ってからもう数刻が経っていた。その間に一度外に出て、砥いでもらったのであろう脇差を振っているのを目にしている。研磨の依頼は上手くいったのであろう。しかしそれ以降十兵衛らは表に姿を現していない。加えて数十分ほど前から中で十兵衛と老人が何やら言い争いをしているのを耳にしている。距離があったため内容までは聞き取れなかったが十兵衛が老人に対して何か詰問しているような感じだった。とにかくそんな音がしばらく聞こえてきたと思ったら数分前からそれがピタリと止み、それ以降小屋は怖いほどに無音であった。
家来の一人、辻
『場合によっては役儀として切るやもしれません』。
(これはやはり、そういうことなのか……?)
よもや死体の検分をするやもしれないと考えると辻はぶるりと震えた。もちろん辻は死体を見たことが全くないというわけではない。親族の死に目に会ったことはあるし偶然上がった水死体を目にしたこともあった。大罪人の晒し首を見たことだってある。しかし今回のような状況――始めから沙汰もなしに切り捨て、そして始めから問題がなかったと証言することが決まっているというのは初めてのことであった。
(よくはわからないが問題はなかったと証言してもいいのだよな?これが天下のためなのだよな?いや、そもそもまだ十兵衛殿が切ってしまわれたかはわからない。あぁ、いっそあの小屋から誰も出てこなければいいのに!)
しかしそんな願いが通じるはずもなく、乱暴に戸板ががらりと開いたかと思うと中からひどく疲れた様子の十兵衛が顔を出した。その体にはかすかに返り血が見える。外に出た十兵衛は周囲に誰もいないのを確認するとふぅと一息吐き、辻たちが隠れている茂みの方を向いて手招きをした。辻は一人をそこに残し十兵衛に近づく。
「……首尾は?」
「……まぁ決着はついた」
辻は小屋内を覗くも入り口付近からでは中はあまりよく見えない。仕方なく覚悟を決めて中に入ると小屋の中はむせかえるほどの血の匂いで満ちていた。辻は立ち眩みにも似た衝撃を覚えたが、それでもどうにか踏みとどまり死体を見つけその検分を始めた。
砥ぎ師の傷は体正面についた刀傷一本のみ。言うまでもなくこれが致命傷だろう。衣服を避けたのか左首すじ近くから入り、左鎖骨をすっぱりと割り、そして水月を通りしっかりと抜けている。剣術に多少の心得がある辻はこの見事な一閃に惚れ惚れし、そして戦慄した。
(見事な一撃だが沙汰もなしにこんな一撃を撃てるとは……十兵衛殿は狂人か?)
ちらと振り向けば十兵衛は相変わらず背を向けて入り口のところに立っている。その落ち着いた背中に辻は寒気を覚えるも自らの職務を思い出し十兵衛に近づく。
「十兵衛殿。これは役儀として仕方のなかったことなのですよね?」
十兵衛は振り向かずに答えた。
「……ええ。切らねばなりませんでした」
こう返されればもう辻の感情が介入する余地はない。ある意味で気が楽になった辻はいろいろな思いを飲み込んで頭を下げた。
「承知いたしました。あとはこちらにお任せください。……話を付けておきますので村の惣堂でお休みください」
「ご迷惑をお掛けします」
その後聞いた話では、辻は今回の老人殺しの下手人をどこかの牢人と偽って村に説明したらしい。どこかの牢人が砥ぎ師の命を狙っている。殿の古い縁で相談を受けた辻たちは調査に来たが一歩及ばず老人は殺されてしまった。惣堂の男は私たちの仲間で第一発見者である。死体を見てショックを受けているのでそっとしておいてほしい。以上が辻が村人たちに聞かせた報告であった。この話が信じられたのか、あるいは誰もあの砥ぎ師のことなど気にも留めていなかったのか、とにかく十兵衛らが特に追及されることなく砥ぎ師殺しの話はやがて誰の話題にも上がらなくなった。
こうして小田原を覆った異変に一つの決着がついたのであった。
十兵衛が老砥ぎ師を切り捨ててから数日後の某日、十兵衛は陰陽術師・黒田重信の屋敷の縁側に座っていた。傍らにはもうすっかり冷めた白湯の入った茶碗が置かれている。十兵衛は特に何かをしているというわけではなくぼんやりと庭木や雲を眺めていた。
そんな十兵衛に声をかけたのは館の主・重信であった。
「だいぶ落ち着いてきたようですな」
気付いた十兵衛は少し照れながら応える。
「ええ。お恥ずかしながら、ようやくあの日の一振りを受け入れられるようになってきました」
「それはよかった。……あれは仕方がなかったことなのです。特に我々のような人とは違うものが見えてしまう側にとってはね」
「ええ、わかっております。これは私自身の問題ですからね」
十兵衛が気に掛けていた『あの日の一振り』。それは数日前に十兵衛が老砥ぎ師の命を奪ったあの一撃である。
あの日十兵衛は納得してあの一撃を振り下ろしたわけではない。迫ってきた白刃や異変の再発の防止、その他さまざまな要因に押されてあの最後の一撃を放ってしまった。自分の意志ではなく勢いと外圧によって抜いてしまった刀。果たしてそのような刀が太平を守る、家を御公儀を守る刀といえるのだろうか。
『お侍さん。次に乱世を求めるのはあなたかもしれませんよ』
それがここ数日十兵衛を悩ませていたことだった。
だがそれもだいぶ落ち着いてきた。ゆっくりと禅を組み丁寧に自省を繰り返してようやく十兵衛はあの日のことを受け入れられるようになっていた。あの時は切り捨てる以外の道がなかった、そして私は乱世など望んでいない。太平の世のために刀を振るっている。
行きついて見ればごくごく平凡な答えである。しかし人一人を切り捨てて、切った感触がまだ手に残っている中でこれに納得するのはとても難儀なことだった。
(しかしここまで悩んでしまうとは、本当に自分の未熟さを思い知らされるな)
十兵衛は冷めた白湯をすすり、ふぅと一息吐いた。十兵衛は自省中何度か父・宗矩の言葉を思い出していた。
『新陰流は天下の剣であり匹夫の剣にあらず。剣を抜くだけが道ではない。剣を抜かない道もあるということを忘れるな』
実のところ十兵衛はこの言葉の意味を完全に理解しているわけではない。もちろん何となく把握はしているものの、実戦で表現できるほどに体に染みついているというわけではない。宗矩ですら晩年になって辿り着いた剣の極地だというのだから今の十兵衛が至ってなかったとしてもそれは仕方のないことだろう。
(では父上ならどうしたのだろうか)
もし父・宗矩があの日の十兵衛と同じ場面に遭遇したらどのような行動をとったのだろうか。刀を抜かずに解決する策を見出したのか。それとも老人の戯言などに惑わされずに刀を抜いたのだろうか。どちらにしてもあの日の十兵衛以上に醜態をさらすということはなさそうだった。
十兵衛は思わぬところで改めて父の大きさと自分の未熟さを思い知った。
「……大丈夫ですか、十兵衛殿?」
「えっ、何がですか?」
「いや、何か深刻そうな顔をしてらしたので……」
「あ、これは失礼。少し考え事をしていただけです。ご心配をおかけしました」
どうやら知らず知らずのうちに酷い顔をしていたようだ。心配そうに覗き込む重信に十兵衛は愛想笑いで返す。
「いやぁ、この忙しい時に
実は十兵衛はあの日から、藤中村から帰ってから良兼宅ではなく重信宅に滞在していた。理由は祓え――殺生を行ったことによる穢れを落とすためである。祓え自体は良兼宅でもできたのだがやはり気味悪がられるというのと万が一を考えて専門家である重信宅にて行っていた。
その祓えが終わるまでは一種の自粛期間となっており市井の調査にも出ていない。代わりに小田原を巡回しているのは十兵衛が手紙で呼んでおいた江戸の陰陽術師であった。陰陽術師は十兵衛が砥ぎ師を切ったその日の午後に入れ替わるように小田原にやってきて十兵衛の業務を引き継いだ。今日もまた又三郎の案内で小田原市中を回っているはずだ。
そう考えていると重信がちょうどその話を振ってきた。
「そう言えば先程又三郎殿が報告にまいりましたよ。どうやら市中はだいぶ落ち着いてきたようです」
「それはよかった。しかし又三郎め。祓え中とはいえ来たというのなら顔くらい見せてもいいものを」
十兵衛の冗談めいた愚痴に重信が笑って返す。
「大事を取ったのでしょう。それよりも又三郎殿から言伝を預かってますよ」
「ほう。なんですか?」
「『叔父が会いたがっているから早く穢れを落としてほしい。いい酒もたくさんあるからきっと楽しめるはずだろう』とのことです。異変は治まったのですから明日にでも行ってきてはいかがですか?」
又三郎なりの慰めなのだろう、十兵衛はまんざらでもない顔で「まったく……」と苦笑した。
「いい家来ではないですか。勤勉でよく働き、気も効く」
「あいつはそんな奴じゃあないのですが、まぁ今回はよく働いたものですよ。……そうですな。久しぶりに浴びるほどに飲んできましょうかな」
「ふふふ。飲みすぎには気を付けてくださいね」
そんな他愛のない話をしながら二人は何となく空を見上げた。梅雨明けまであと少しの小田原では雲の切れ間から初夏の晴天が顔を見せていた。
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