柳十兵衛 砥ぎ師と対面する 4
皮と骨ばかりの枯れ枝のような老砥ぎ師は、その深いしわが刻まれた顔をさらにゆがめて問いかける。
「さぁどうします?切って止めますかな?そのためにお越しになったのでしょう?」
(こいつ……!?)
十兵衛は動揺した。十兵衛が役目を帯びた者だと見抜いたこともそうだが『私を止めに来たのでしょう』という発言、それは自分が『捕らえられるだけのことをしている』という自覚がある者にしかできない発言だ。十兵衛は思わず刀を抜きそうになったが寸でのところで思いとどまり浮きそうになった腰を気合で抑えつけた。
「……何か勘違いをされているのではないか?私はただ刀を砥いでもらいに来ただけだぞ」
素知らぬ風を装った返答。それに対し老砥ぎ師は意味ありげににやけながら「まぁそれもいいでしょう」と呟き再度手を動かし始めた。小屋内は静まり返り刀が砥がれる音だけが響くようになった。
十兵衛は態度は平静を装っていたがその内ではとても混乱していた。
(いったいどういうつもりだ、この砥ぎ師は……!?)
百歩譲って乱世を望むというのはまだいいだろう。合戦のある世を望む声はその経験の有無にかかわらず少なからず存在している。しかし例の『私を止めに来たのでしょう』という発言は見逃せない。
(あの異変は意図してやっていたということか?しかしそれを自分から言い出すとは、何を考えているんだ!?)
十兵衛は老砥ぎ師の横顔を穴が開くほどに見つめるがその真意はまるで読めなかった。
こうしてしばらく無言の時間が続いたが十兵衛はふと自分の刀をこの砥ぎ師に砥がせていたことを思い出した。慌てた十兵衛は急いで、しかしその焦りを悟られないようにして尋ねる。
「……よもや貴様、
先の発言を鑑みるにこの砥ぎ師を悪意のない善人だとは思わない方がいいだろう。ならばと危ぶんで尋ねると老砥ぎ師はにたにたと笑って返した。
「ご冗談を。私にも矜持というものがございます。たとえこの刀で切られる未来が待っていようとも手を抜くなんてことはあり得ませんよ」
「くっ……」
押し黙る十兵衛。しかし聞いておいてなんだが、改めて考えれば不思議とこの老人がそんな真似をするとは思えなかった。彼には確かに砥ぎ師としてのプライドがある。きっと大刀の方も素晴らしく砥ぎあげてくれるであろう。
そう自然に思ってしまう自分に十兵衛はぞっとした。
(くっ!なんだ、この思考は!?俺がこの老人に吞まれているというのか!?)
十兵衛の頬を汗が一筋つうと流れる。ここにきてようやく十兵衛も自覚した。たかが老砥ぎ師と侮ったのが間違いだったということに。
(……認めるしかないな。この老人は強敵。いや、強靭な精神の持ち主だ。腹の探り合いでは勝てそうにない。ならいっそ正面から向き合うしかないか……!)
役儀である以上十兵衛も引くわけにはいかない。今の足場が悪いのなら自ら舞台を変えればいい。もしかしたら穏便には済まなくなるかもしれないが……。
(それも覚悟の上よ!)
十兵衛はふぅと大きく息を吐き正面の老人を改めて正視した。
「なぜ私が役儀を帯びていると気づいた?」
十兵衛の問いかけに老人はからからと笑う。
「刀を見ればわかりますよ。お侍さん、アンタの刀はきれいすぎた」
「……どういうことだ?」
「難しい話じゃありません。『本当の刀』を求めている割には刀がきれいすぎる。だが全く使われていないというわけでもない。ということはまぁ多少の荒事も許されている番方さんっていうところでしょう。あとは先程の刀の振りですかね」
「刀の振り?」
「ええ。若いのに腰の入ったいい振りでした。幼い頃からちゃんとした人に鍛えられており、そして自制心も強い。私の刀を受け取った人は皆切りたくて切りたくてうずうずとしてましたよ。それこそ私で試し切りをしかねないほどにね」
修羅場じみた話を笑いながら語る老砥ぎ師。ここまで来ればもう十兵衛もこの老人が狂人の一種であることを疑わない。十兵衛は語気を強めて問いただす。
「ならばもう単刀直入に訊こう。ご老人よ、何が目的なんだ?」
砥ぎ師は手を止めずに訊き返す。
「目的といわれましてもねぇ……お侍さんはどこから来た御人ですかな?」
「……小田原からだ」
「なるほど。ということは包丁の件ですか。」
十兵衛はくっと舌打ちをした。老人の言い方が暗に余罪があるという言い方だからだ。そのまま「他にも似たようなことをやっていたのか」と尋ねると老人は特に隠し立てもせずに白状した。
「ええ。牢人の方々の刀を数本ほど。皆さん大層満足した様子でした。もっともその後のことは私も存じません。知らぬうちに『使われた』かもしれませんね」
悪びれることもなく語る砥ぎ師に思わず十兵衛が片膝を立てる。
「お前は自分の砥ぎの腕をわかっているのか!?お前の砥いだ刃物は何かを切りたくなる不思議な力がある!もはや妖刀と言っても過言ではない!何故そのような刃物を市井に流す!?」
「なぜと訊かれても目的なんて大層なものはございませんよ。大体砥ぎ師が持てる技量を注いで砥ぐというのは別段おかしなことではないでしょう?」
「はぐらかすな!……よもや本気で乱世になるとでも思っているのか?」
砥ぎ師の刃物は確かに脅威ではあったが、この老人一人が気を吐いたところで時代がまたあの戦国の世に戻るとは考えられない。ならば目的は他にあるのではないかと考えた十兵衛であったが、老砥ぎ師はそれすら見抜いているといった顔で十兵衛をあざ笑う。
「甘いですなぁ、若いお侍さん。乱世はそう遠くはない。そもそも人の世は常に争いが道理。今の太平こそが
「馬鹿を言うな。今はもう天下の大名旗本すべてが御公儀に恭順している。大坂以降大きな合戦が起こっていないのがその証左であろう」
しかし老砥ぎ師はやれやれといった様子で首を振る。
「太閤様(豊臣秀吉)が武士の棟梁となられたときも皆似たようなことを想ったものですよ。日ノ本六十余州が皆一つとなりて、もしかしたらこれでもう合戦は起こらないかもしれないとね。始めは皆半信半疑でしたが大きな争いは確かに少なくなり平穏な日々が続き、誰もが太平を疑わなくなった。太閤様が逝去なされた時ですら遺言通り御子息の秀頼様に跡を継がせれば太平のままだと思われておりました。しかし結果はどうなりましたか?他でもない徳川の初代様が挙兵。かくして太平なんぞどこ吹く風か、数年ぶりの
老人はいわゆる秀吉の死から家康の台頭。そして大坂の役での豊臣秀頼討伐までのことを言っている。
「確かにここしばらくは大きな合戦は起こってませんな。ですがそれが永遠に続くと誰が保証が出来ましょうか。徳川の先々代が突然弓を引いたように、今日誰かがどこかで弓を引かないと誰が断言できましょうか」
「……そのための引きやすい弓ならぬ抜きやすい刀というわけか?……本気で乱世にするつもりなのか?」
老砥ぎ師はにやりと笑った。
「なるんですよ。望めばどこだって合戦場だ。ほら、できましたよ。あなたの刀だ」
そう言うと砥ぎ師はまるで何事もなかったかのように十兵衛に砥ぎ終えた刀を差しだした。
「どうぞ検分なさってください。私の生涯最後の研磨かもしれませんので」
「くっ……!」
十兵衛は躊躇いながらも刀を抜いた。この得体のしれない老砥ぎ師が変な砥ぎをしていないかを確認するためだ。だが実は渡された時からわかっていた。この老人が最高の研磨をしたということに。
「くうっ……!!」
抜いて刀身を改めた十兵衛は歯を食いしばり苦し気に感嘆した。それほどに美しく完璧な砥ぎであった。全体的に黒色で重厚感のある見た目はもちろん、持っただけで刃先の切れ味も全体的なバランスもこれ以上ないほどに仕上げられているのがわかる。
「今回は刃先周りを少し肉厚にして仕上げてみました。これにより深い傷をつけるには技量が必要になりますが、五六人程度なら切り捨てても刃こぼれすることはありません。もちろん切る場所にもよりますがお侍さんなら問題はないでしょう。さぁそれじゃあ合戦といきましょうか」
「……どういうことだ?」
「どうもなにも、あなたは私を止めたい。私は止まる気がない。意見が食い違えば力づくで相手を屈服させる。この粗暴さ、まさに合戦じゃあないですか」
実際十兵衛は意見がまとまらなければ強硬手段に出るつもりでいた。しかし今ここでそれを認めるのは気が引けた。
十兵衛は納刀して返答する。
「……力づくでない解決法もあるかもしれないだろう」
「では私を放っておくんですか?いや、それはあなたにはできない。なぜならあなたはもう私の刀を知っている。太平の世とやらに似つかわしくない刀があることを知っている。あなたの正確な立場は知りませんが、少なくとも無視していいものではないでしょう」
「貴様が我慢をすればいいのではないか?」
「ご冗談を。砥ぎは私が生きている証ですよ。手を抜くことなんてできません。私だけじゃない。刀を抜くことでしか、合戦でしか、太平の世とやらに似合わぬ方法でしか自分を表現できない『誰か』はまだまだたくさんいる。そういった『誰か』はいずれ乱世を求めるようになる。その次の『誰か』は、お侍さん、あなた自身かもしれませんよ」
「そんなことはない!」
十兵衛は反射で叫んだ。自分はあくまで太平の世のために、御公儀として天下の平和のために暗躍しているという自負からの叫びだ。しかし砥ぎ師はそれすらもあざ笑う。
「何が違うというのですか。あなたはただ幸運にも御上に刀を振るう場所を与えられただけ。本質的には我々のような合戦場でしか生きられない者と変わりない。……やれやれ。どうやら見込みよりも幼かったようですね。それならばこれでどうですか?」
そう言うと老砥ぎ師は小屋の奥から隠してあった刀を取り出し、そしてそれを抜いた。狭い小屋の中でゾッとするほどに美しい白刃がきらめいた。
「さて、久方ぶりの合戦ですな」
「っ!?」
十兵衛は瞬時にそれが老砥ぎ師渾身の『切れる刀』であることを見抜いた。
狭い室内で刀を抜いた老砥ぎ師は挑発するように十兵衛に向かって刃先をちらつかせる。
「さぁどうしました?私は刀を抜いているのですよ。あなたも抜いてはどうですか?」
「うるさい。皮と骨ばかりの老人に抜く刀など持ち合わせていない。それよりお前こそどういうつもりだ?勝ち目のないことくらいわかっているのだろう!」
だが老砥ぎ師は十兵衛の言葉にただただ笑うばかりであった。
「では私が刀を砥ぐことを黙認していただけますかな?もちろん半端な砥ぎではない、乱世がごとき砥ぎですが」
「できるわけがないだろう!お前こそいい加減にあきらめろ!なぜそうも太平の世を乱そうとする!」
「それが私の生きる場所だからですよ。あなただって同じだ。刀を抜いて誰かを切らなければ、混沌の中に身を置かなければ自分を表現できない!」
「そんなことはない!」
「さぁどうですかね」
そう言うと老人は一歩間合いを詰め、その分十兵衛は一歩下がった。
十兵衛はこの間も左手は刀を押さえいつでも抜ける態勢でいた。しかしまだ抜く覚悟ができずにいた。いざ刀を抜こうとすると老人のしわ深い顔が脳裏にちらつく。
『お侍さん。次に乱世を求めるのはあなたかもしれませんよ』
違うと叫びたかった。しかし十兵衛が武者働きをしたかったのは事実である。自分の武を示すために怪異改め方に就いたのも事実である。もちろんそれは太平の世のためであり乱世なんて望んではいない。本当にそうか?自分は本当は乱世を望んでいるのではないか?武勲を望むことそれ自体が乱世への渇望ではないのか?多くの武将が名乗りを上げる合戦場で自分の名を叫んでみたかったのではないか?刀を抜いてしまえばそれを肯定してしまうような気がして十兵衛は刀を抜けなかった。
だがそんな十兵衛を砥ぎ師は待ってはくれなかった。
「ひゅっ!」
砥ぎ師は刀を横に構え体を小さくして十兵衛の懐に一気に潜り込もうとする。そしてそのまま間合いギリギリのところで刀を振るう。正面に自分の体を曝け出し、それに気を取られている相手に対して視界外からの横薙ぎである。型も何もない、実戦で磨かれた捨て鉢の一手だ。十兵衛の視界端から白刃が迫る。それは足に迷いがあった十兵衛がかわせるものではなかった。
「!!」
次の瞬間、十兵衛は流れるように刀を抜いた。幾千幾万と繰り返された鍛錬は十兵衛に無意識のうちに最善の行動を取らせた。つまりは眼前に迫った老人の刀を抜きざま鎬で弾き、そしてそのままの勢いで袈裟型に切り裂いた。衣服に絡まぬように首すじ付近から振り下ろされた一撃は老人の薄い皮を、肉を、骨を断ちその傷跡からは血が噴き出した。
老人は自分が切られたことがわからぬかのように数秒立ち尽くしていたが、やがて力を失いそのまま崩れ落ちる。もはや二度と立ち上がることはないだろう。事実老砥ぎ師はその後一言呟いただけでこと切れた。
「あぁ……ようやくお迎えが来たようだ……」
狭い小屋の中は十兵衛の荒い呼吸と生臭い血の香りで満ちていた。
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