柳十兵衛 砥ぎ師と対面する 3

「水はここに置いていいのか?」

「ええ。ありがとうございます」

 桶に水を汲んで砥ぎ師の小屋内に入った十兵衛。そこでまず感じたのは匂いであった。

(臭いな……)

 締め切った部屋には老人の匂いがこもっていたわけだが、それがいわゆる死期が近い人間のそれだった。汗や尿とはまた違う少し酸味を帯びた匂い。おそらくはもう内臓の幾つかがだめになっているのだろう。確か年は七十くらいと言ってたか。年齢を考えればそれもおかしな話ではない。

(あと三年も生きられれば万々歳、といったところか。しかし果たしてそんな人間が今回の騒動の元凶足りえるのか?)

 十兵衛は訝しむが老人の方は慣れた様子で砥ぎの道具をちゃっちゃと準備していく。

「さて、それではお刀を拝見してもよろしいですかな?」

「ああ。……脇差から頼んでもいいか?」

「ふふっ。老いぼれに任せるのが心配になりましたか?まぁ構いませんが大刀の方も拝見させていただきますよ。両方の具合を見てからでなければ砥げませんからね」

「ふむ。気を付けて扱ってくれよ」

 十兵衛は言われた通り大刀小刀共に砥ぎ師の老人に差し出した。この丸腰になるという行為は武士の作法としては評価が分かれるところだが今回の場合は相手に余計な警戒を抱かせないためにさっさと手放した形だ。人によっては怪しく見るかもしれないがよこしまな何かがあると確信するほどではないだろう。仮に怪しんだとしてもあの細腕では何もできやしまい。十兵衛は老人の研ぎがよく見えるであろう場所にどっかりと腰を下ろした。

「さあ、頼む」

「ふふっ。それでは失礼しますよ……ほう、なかなかのものですね」

 老砥ぎ師はゆっくりと刀を抜きその検分を始めた。目の横で構えてみたり大刀小刀を並べて比べたり、手製の定規を使うなどして刀身の反りや肉付きを細かく確認する。しょぼくれた目の奥には確かに職人の鋭い眼光が光っていた。

 検分はとても長く細かく行われたが十兵衛はそれをかしたりせずに、むしろ砥ぎ師の老練さに感心していた。

(どうやらではなく本当に本職の砥ぎ師のようだな)

 これは知り合いの砥ぎ師の言葉だが、いい砥ぎ師ほど下準備の観察を怠らないという。というのも砥ぐという行為は実質刀身を削る行為であり、それはつまり刀身の寿命を削っていることに他ならないからだ。そのためいい砥ぎ師ほど事前に砥ぐべき場所や量を見極め最低限の研磨で最高の切れ味を実現するのだという。

 こうしてしばらく観察をしたのち老砥ぎ師はうれしそうに口を開いた。

「なるほど。脂に血の匂い……全く『使って』いないというわけではないようですな。うれしいですねぇ。たまにいるんですよ。腰に下げているだけの玩具を見栄えよくするために磨いてくれとか言ってくる輩が。一応聞いておきますが、お侍様の望む『砥ぎ』はそんな『砥ぎ』ではないですよね?」

「ああ。切れればいい。それ以外は好きにやってくれ」

「いい客だ。それでは久しぶりに気を吐きますかね」

 そう言うと砥ぎ師はまずは脇差を持って作業台の前に腰かけた。


 刀の砥ぎの工程は大きく四つに分かれる。

 まずは刀身の観察・検分。この段階でどこをどれほど砥げばいいかを見極める。次に大きな汚れ・さび・欠けを除去する砥ぎを行う。古い刀や乱暴に扱われた刀の場合はここに多くの時間を費やす。その次の工程がおそらく多くの人が刀の研磨と聞いて思い浮かべる下地砥ぎだ。刀全体を砥ぐことで成形し切れ味よく、あるいは見栄えよくする。最後に仕上げとして刃文を整えたりつやを出したりする仕上げ砥ぎを行う。

 砥ぎ師は観察を終え、かつ十兵衛の刀には大きな汚れ等がなかったため早速三番目の工程・下地砥ぎに取り掛かる。たらいの中に薄く水を張りそこに砥石を入れ軽く水をかける。砥石が程よく湿ったのを確認すると砥ぎ師はゆっくりと砥ぎ始めた。


 砥ぎ師の研磨はとても丁寧なものだった。刀の扱いはまるで幼子の髪をとぐかのように優しく、それでいて砥ぎ師自身は鬼気迫る雰囲気を纏いながら指先に集中している。よく充実している人間を「生き生きとしている」とか「若返ったかのように見える」などと表現することがあるがこの老人の場合は真逆だった。老砥ぎ師は相変わらず次の瞬間には死んでいてもおかしくない雰囲気で、その肉体にかろうじて残っている生気すべてを砥ぐためだけに費やしていた。その気迫は見ている方が思わず息を呑むほどであった。

 やがて砥ぎは最終工程に入る。老砥ぎ師は地肌や働き(刀身が美しく見える紋様)を重視しているようには見えなかったがやはり何かしらのこだわりはあるのだろう、仕上げ専用の砥石を使いながら大まかながらも味のある仕上げを施していく。余談だが砥ぎにも流派があり、そしてこの仕上げの作業が一番流派間の差異が現れるところでもあった。故に十兵衛はその具合を注視していたが、老人のそれは十兵衛が知るものではなかった。

(まぁいいさ。機会があったときにきちんとした鑑定士に見せればいい)

 そう思っているうちに仕上げも終わり、やがて組み立て直された十兵衛の脇差が返ってきた。

「これで如何でしょうか」

「ふむ。拝見させてもらう」

 十兵衛は早速抜いて見やすいように構える。そしてざっと一瞥すると思わず「ほぉ」と感嘆した。刀身に砥ぎ目一つ残っていないのは当然として、統一感のある重厚な黒色と、顧慮していないように見せかけてわずかに匂わせる刃先の白色の対比の美しさはまさに職人芸と評していいだろう。

 だが外見の美しさ以上に十兵衛を惹きつけたのは持ってみた感触、手に返ってくる刀の感覚であった。十兵衛の顔が真剣になる。

「……外で振ってみても構わないか?」

「どうぞどうぞ。やはり振ってこその刀ですからね」

 許可をもらい小屋の外に出た十兵衛は改めて脇差を握り直し上段に構える。そしておもむろに一閃振り下ろした。

 ぶぉんっ。

「!!」

 振り下ろした十兵衛は余韻を受け止めるようにじっと固まった。はたから見れば十兵衛がそうした理由はわからないだろう。だが老砥ぎ師は自身を持って固まる十兵衛に尋ねた。

「いかがでしょうか?」

「……素晴らしいな」

「では大刀の方もお砥ぎしても?」

「ああ。頼む」

 砥ぎ師は満足そうに小屋に戻り再度砥石の前に腰を下ろした。対して十兵衛は未だ戸外に立ち先程の振り心地に感動していた。

(驚いた……同じ刀でも砥ぎ次第でここまで変わるのか……)

 十兵衛は感動したまま再度上段に構えて脇差を振り下ろす。鋭い風切り音が小屋の前で一つ鳴った。


 刀身を砥ぐという行為は決して簡単なものではない。その原因の一つに刀身の部位の多さがある。詳しくない人には刀身は相手を切る刃の部分とそうでない部分の二層でできているように見えるかもしれない。しかし実際は刃、切先、ふくら、帽子、平地ひらじしのぎといった細やかな部位が存在する。これらはそれぞれ個々の役割を持っており、それはつまりそれぞれ違う最適な砥ぎ方があるということだ。刀を砥ぐ者はそれらの差異を理解して砥いでいかなければならない。

 とはいえ片面だけなら素人でも時間をかければそれなりに砥ぐことはできるだろう。砥ぎの難しさ、その真の問題は刀が両刃であるということだった。ここで言う両刃とは刃が表裏から、断面から見て左右からの研磨でできたものであるということである。そして言うまでもなく砥ぎは左右対称、表裏一体であることが求められる。

 これは決して簡単なことではない。なにせ一方を終えて逆側を砥ぐ際に刀の向きや砥石の角度も変えなければならないからだ。さっきまでとは違う体勢、力加減、手の位置で左右対称の研ぎを要求される。それを素人が行えば当然大なり小なりの表裏差、左右差が生まれる。その左右差は重心の乱れを生み手元に違和感として返ってくる。また聞こえる風切り音も妙に間延びした締まらないものになるだろう。

 その差をできる限り抑えるのが本職の本職たる所以ゆえんなのだが、それにしてもこの老砥ぎ師の砥ぎは左右差が全くなかった。変な引っ掛かりもなく風切り音だけで何かが切れそうな気にすらなってくる。全体的なバランスも完璧で手元から切先まで滞りなく自分の意思が伝わるのを感じた。

 十兵衛は感動して二度三度と刀を振っていたが、やがて自分がこの刀に呑まれていることに気付いた。

(おっといけない。これでは菜っ葉を切った又三郎と同じではないか)

 十兵衛は慌てて脇差を納め小屋に戻った。小屋では砥ぎ師が早くも下地砥ぎに入ろうとしていた。


 老砥ぎ師は本日二本目の砥ぎであったがやはり集中した様子で刀を砥いでいた。その真剣な表情を見て十兵衛はとある思いを抱く。

(これほどの砥ぎを行う者、異変の原因に間違いないだろう。しかしこの腕を無下にするのは気が引けるな……)

 人を惑わすほどの砥ぎをすることができる砥ぎ師。それは確かに脅威ではあるが一方で失われるにはあまりにも惜しい。十兵衛は何とかしてこの老人を救えないものかと思案した。

(今回は運悪く異変の原因となってしまったが正道へと導いてやればきっと多くの人に求められる砥ぎ師となることだろう。さすがに年だから店を構えるのは難しいだろうが、せめて懇意にしている数人か、または父上の刀くらいは砥いでほしい。きっと喜んでくれるはずだ)

 そのためにはもう少しこの老人のことを知る必要がある。十兵衛は機を見て砥ぎ師の横顔に声をかけた。

「ご老体。今日二本目だが休まなくて大丈夫か?」

 砥ぎ師はちらと一瞥してから答える。

「お気遣いなさらずに、お侍様。私はこれくらいしか取り柄のない者ですが、砥ぐだけなら日がな一日やっていても全く苦になりませぬ。私にとって砥ぐことは呼吸に等しいものなんですよ」

「立派な職人魂だな。ならば店を持つ気はないのか?聞けば包丁の砥ぎをやっているそうだが、私見だが貴殿は刀を砥いでいる方が性に合っているように見える。店とまでは行かなくとも何人かいい刀を持つ者を紹介することもできるぞ」

 老砥ぎ師は手を止めずに、うすら笑いを浮かべながら答える。

「ありがたいお話ですな。ですが腰に下げるだけの刀を砥いで何になるって言うんですか。やはり刀は『使って』こそですよ」

「その考えは否定しないが、しかし時代でないのも事実だ」

「いやいや、太平なんて嘘っぱちですよ。人はそうそう変わらない。誰かがほんの少し口火を切ればまたすぐに乱世に戻るでしょうよ」

 十兵衛は思わずむっと眉根を寄せる。

「……その言いぶりだと乱世になってほしいみたいに聞こえるぞ」

 十兵衛がそう言うと老砥ぎ師は初めてその手を止めて十兵衛の方を向き、そして躊躇ためらうことなくこう言った。

「ええ。私はまたあの乱世の世に戻ってほしいと思っております。そしてその口火を切るのが私の砥いだ刀というのなら、それこそ砥ぎ師の本望ですよ」

 あまりに唐突で正直な物言いに十兵衛は言葉を失う。しかし真に十兵衛を戦慄させたのはこの後であった。老砥ぎ師はそのしわ深い顔をにやりとゆがめて十兵衛に問いかけた。

「さぁ、どうします?私を切って止めますかな?そのためにお越しになったのでしょう、若いお侍さん?」

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