柳十兵衛 砥ぎ師と対面する 2
翌日。十兵衛は砥ぎ師の報告を受け次第すぐに動けるように良兼宅に待機することとなっていた。その護衛・監督には良兼の家来がついてくるため今日は又三郎は一人で重信の護衛に当たる。又三郎は柳生家の家来として十兵衛の護衛につけぬことを渋っていたが、さすがに時間になればきちんと門を出て重信の方へと向かって行った。
残った十兵衛は報告が上がってくるまで自室でゆったりと過ごしていた。これは単に気を抜いていたわけではなく、これから来るであろう一つの決着に向けて精神を落ち着かせているところだった。最悪の場合は切らねばならぬ。役儀と割り切ってはいるものの、それでもまだ十兵衛は無心で人を切れるような境地には至っていなかった。
その後昼四つの頃(午前10時頃)。十兵衛は誰かが良兼邸の中に入るのを感じた。出迎えの雰囲気がなかったため客ではなく良兼の家来の誰かだろう。そこからしばらくして十兵衛に声がかかった。
「十兵衛殿。
十兵衛がすぐさま承諾すると三十代くらいの体格のいい武士が入室してくる。名前は辻
「今回十兵衛殿たちがお探しになっていた砥ぎ師の正体・居場所がわかりました」
辻は報告書の他に持っていた地図を広げて一点を指差す。
「居所はここから北東に約二里ほどの山中にある
辻が差したのは小田原北東の山中にある小さな村だった。街道からは外れており地図上でも寂れた村であることがわかる。
「思ったよりも辺鄙な場所にいるようですな。してその老人の名前は?」
「それが……かなり昔から村の
「それは仕方がないですね。老人とおっしゃっていましたが年はおいくつほどで?」
「お恥ずかしながらこちらもはっきりとした情報はなく、あくまで噂ですが七十は越えているのではないかという話です」
「七十以上!?」
言うまでもないことだがこの時代に七十歳以上は相当の高齢であり、それでいて砥ぎの仕事を請け負っているというのは驚愕に値することだった。
「石見守様ほどではないにせよ、こちらもなかなかに御高齢ですね……しかしそんな老人がどういう経緯で包丁を砥いで小田原に流しているのですか?」
辻は報告書をめくる。
「始めは近くの掛茶屋(道端で茶をふるまう茶屋)や宿屋に来た行商人に声をかけて無償で包丁を砥いでいたようです」
「無償で?どういうことですか?」
「それはですね……」
辻の話は以下のようなものだった。
藤中村に住む件の老砥ぎ師は時折近隣の宿場や掛茶屋にふらりと顔を出していた。そして刃物を扱う行商人を見つけては声をかけて商品を、包丁を砥がせてほしいと頼み込んでいたそうだ。
だが急に現れた見ず知らずの老人に大事な商品を預ける者などいるはずがない。当然行商人は断るが砥ぎ師もなかなか引かなかった。しばらくの押し問答のうち老人はとうとうと身の上話まで始めたという。
老人曰く自分は近くの村に一人寂しく住んでいる。老い先短く頼れる人もいない日々の中、数少ない慰めが刃物を砥ぐことであったという。老人は昔は合戦場まで出て刀を砥いでいたほどの砥ぎ師だったそうで、刃物を砥いでいるときだけは昔を思い出し心穏やかになれるそうだ。
『刀とまでは言いません。どうかこの哀れな老いぼれに包丁一本だけでも砥がせてはもらえないでしょうか?』
老人はそれに加えて、もし砥ぎに満足がいかなかったら包丁を倍の値段で買い取ってもいいとまで言ってきた。
ここまで言われればさすがに無碍にするのも忍びない。ということで行商人は老人に包丁を一本与えてみたのだが、それが例の『よく切れる包丁』として返ってきたというわけであった。
「そこから噂が噂を呼び、老砥ぎ師のもとには包丁を砥ぐ依頼が入ってくるようになったそうです」
話を聞き終えた十兵衛は困ったように頭を掻いた。
「弱りましたね。聞いた限りでは市井のちょっといい話といったところですな……」
砥ぎ師に悪意があるかどうかは行動の指針の一つとなる。辻もそのことを聞かされていたため神妙な顔で問いかけてきた。
「お切りになるのですか?」
「とりあえず一目見ないことには何とも。今からその藤中村とやらに行くことはできますか?」
「お任せを。山中ですが道を選べば二刻とかからないでしょう」
ともかく会ってみないことには始まらない。こうして十兵衛は良兼の家来一人・辻を連れて例の老砥ぎ師が住む村・藤中村へと向かうことにした。
藤中村には、地理に覚えのある者が同行していたために一刻半ほどで着くことができた。十兵衛らは村人に怪しまれないように迂回して、近くの里山の茂みから老人の家を見張っていた別の家来と合流する。辻が周囲を窺いながらその見張りに尋ねた。
「変わりないか?」
「はい。しばらく前に一度
「ふむ。如何なされますか、十兵衛殿?」
十兵衛は小屋を一瞥してから答える。
「あやかしの気配はありませんのでおそらく砥ぎ師も砥ぎ師に依頼する側も普通の人間でしょう。ならばさほど時間をかける理由はないかと」
辻はあやかしについては半信半疑という顔をしたが長居するべきではないという点には同意した。
「時間をかけるべきではないというのには同意ですな。こんな寂れた村で長居すればそれだけで変な噂も立ちますしね。しかしどうします?正面から行ってもすべてを話してくれるかはわかりませんよ」
「そうですな……」
これが今回の泣き所の一つ、客観的な証拠の少なさであった。もとよりあやかし関係は対象や影響を目視できない人が多いため証拠不足になりやすい。加えて今回の老人でわかっていることはただ包丁を砥いでいるということだけである。しょっ引くどころか接触する理由すら簡単には捻出できない。
そんな中十兵衛がふと思いつく。
「確か砥ぎ師は昔は刀も砥いでいたと言っていたそうですね」
「ええ。その昔を思い出したいから包丁を砥がせてほしいと嘆願していたとか」
「ふむ。なら私が刀の砥ぎを依頼する形で潜入する、というのはいかがでしょうか?これで相手をよく観察できますし、口も軽くなってくれるやもしれません」
十兵衛の大胆な案に辻らは目を丸くする。
「き、危険ではありませぬか?」
「危険も何も中は老人一人でしょう?後れを取ることなんてありませんよ。それよりも……」
十兵衛の声色が一段低い真剣なものになる。
「確認をしますが、これは怪異改め方の役儀の内。故にその老人を切ったとしても、それもまた役儀の内である。相違ないですね?」
辻らはぶるりと背すじを震わせた。十兵衛の言葉は場合によっては老人を切るという宣言に他ならない。なんだかんだで今の時代はもうすっかり太平が板についている。そんな中で一昔前のような暴力的な解決方法を提示する十兵衛に辻は戦慄しつつも頷いた。
(これが江戸の怪異改め方か……)
「もちろん役儀ならば仕方がありません。……ですができる限り穏便に済むことを願っております」
「それは相手次第ですな」
そう言うと十兵衛は茂みから出てゆっくりとその老砥ぎ師が住んでいるという小屋に向けて歩き出した。
砥ぎ師の老人の家は村のはずれの方にポツンと一軒建っていた。十兵衛はそういう身分の者なのかと思ったが、周囲を見るにどうやらかつては他にも普通に数軒並んでいたようだ。昔はここも村の一角だったが開発の過程でいつの間にかはずれとなってしまった、といったところか。家があったらしき場所にはイネ科の雑草がぼうぼうに生えている。この老人の小屋だけが時の流れに置いていかれたようにも見えた。
そんな小屋に近づいた十兵衛は周囲に人影がないことを確認してから薄い戸板を叩いた。
「御免。砥ぎ師はいるか」
一度目は何の反応もなかったが二度三度と戸を叩くと家の中でもぞりと何かが動く気配がした。
しばらくするとゆっくりと戸が開き、背中の丸まった細い手足の枯れ木のような老人が顔を覗かせた。
「……どちら様でしょうか」
「貴様が隠居している砥ぎ師か?」
「……どなたかと勘違いをなされているのでは?」
「噂は聞いている。刀を砥いでほしい」
「……江戸か小田原あたりにでも行けば砥ぎ師もごまんといるでしょうに、何故わざわざこんな寂れた村の隠居に頼むのですか?」
相手の警戒はもっとも。だからこそ十兵衛も殺し文句を考えてきた。
「何人かに頼んだことがあるがどれもしっくりこなかった。戦場を知っている砥ぎ師に砥いでほしい」
「……」
『戦場を知っている』。これほど彼ら世代に自負心を抱かせる言葉もないだろう。事実砥ぎ師の瞳がスッと鈍く輝いたのを十兵衛は見逃さなかった。
老人は相手を値踏みする視線を、それを全く隠さずに十兵衛に向ける。そしてやがてぷいと十兵衛に背を向けて小屋の中に入ろうとする。
「すみませんが水を汲んできてはくれませんかね。この老いた身では砥ぎに必要な水すら碌に汲めないんですよ」
「ああ、任せろ。この桶でいいんだな?」
十兵衛は玄関先に転がっていた桶を抱えて近くの川へと小走りで駆けていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます