大場又三郎 重信と向き合う 1

 三日目の朝。又三郎は六つの鐘が鳴る前に目を覚ました。ゆっくりと戸を開けて外を見ると夜空にはうっすらと瑠璃色が引かれている。日の出まではあと半刻といったところだろうか。だがこんな時間でも活動している人はいるもので、耳をすませば廊下が軋む音や井戸から水をくむ音、通りをかける奉公人の足音などが聞こえた。

 そんな平穏な小田原の朝を感じながら又三郎は自分が不思議になくらいに落ち着いていることに気付いた。

(不思議だ。昨晩あれほど熱くなったというのに、腹を切らなければならなくなるかもしれぬというのに不思議なくらいに落ち着いている)

 又三郎は淡々と寝具を片付け寝汗をかいた体を清める。やがて六つの鐘が鳴ると身なりを正しすっと十兵衛のもとに馳せ参じた。その落ち着いた振る舞いは顔を合わせた十兵衛が思わずぎょっとするほどであった。

「おはようございます、十兵衛様」

「お。おぉおはよう、又三郎。……落ち着いているようだが、昨夜のことは忘れてはおらぬよな?」

「もちろんでございます。早速これから重信様宅へと向かおうと思います。入手した情報は一度戻ってお渡しした方がよろしいでしょうか?」

「いや。俺も後で門前まで向かう。そこで渡してくれればいい。その後お前は重信殿の監視を行え。……あまり遅いと踏み込むやもしれぬからそこは覚えておけ」

「承知いたしました。それでは行ってまいります」

 そういうと又三郎はさっそうと良兼宅から出ていった。そのさっぱりとした振る舞いは昨日までの又三郎とはまるで違う。十兵衛は又三郎の一晩での成長に多少困惑しつつもその背中を見送った。


 まもなく重信宅にたどり着いた又三郎は門番の奉公人にお目通りを願い出る。朝一で無礼だということは承知していたが重信が館を出る前に話を付けなければならないからだ。そんな又三郎側の意を汲んでくれたのか、たいして待たぬうちに重信との面会は叶った。場所は前回と同じ奥座敷に重信と又三郎の二人。その重信は又三郎が一人で来たことに少し戸惑っているようでもあった。

「お久しぶりです、又三郎殿。……十兵衛殿はご一緒ではないのですね」

 小田原に着て四日になるが十兵衛と重信は未だに顔を合わせていない。さすがに怪しまれても仕方がない頃だろう。

「……それについてものちに説明させていただきます。今回はこちらの調査のご報告と、それとちょっとしたお願いがありまして参上させてもらいました」

「お願い、ですか……とりあえず話してください」

「はっ。それではまず調査の報告の方から……」

 又三郎はここ数日の調査結果を重信に報告した。市中を見て回ったこと。十兵衛もおかしな気配を感じていること。その十兵衛が感じた殺気のこと。一帯を見て回ったが何も見つけられなかったこと。ただし重信自身を疑っていることと昨日見つけた術式のことは黙っていた。これはまだ言うべきことではない。

 その後二三問答をして報告を終えると重信は重々しく頷いた。

「やはり原因は見つけられませんでしたか。いや、わかりますよ。私もこのような事態は覚えがありませんからね」

 深刻そうに眉根にしわを寄せる重信は本当に小田原を憂慮しているように見える。少なくとも又三郎にはそう見える。だが十兵衛はそう思っておらず、そして又三郎は今からそのことを重信に伝えなければならない。

 今日一日泰然自若の心地だった又三郎もこれはさすがに躊躇われた。だがしないという選択肢はない。

(疑っていると伝えるのは心苦しいがこれもお役目。大丈夫。重信様ならわかってくれるはずだ)

 又三郎が一つ覚悟を決めたところで折よく重信の方から話を振ってきた。

「報告は以上ですかな?では先ほど言っておられた『お願い』とやらをお聞かせ願いますか。朝一番に来たということはよほど大事と見受けられる」

「……はい。お話させていただきます」

 又三郎は深く頭を下げてから正面の重信に向き直った。


「ではお話いたします。実は先ほどの報告には一部伝えていないことがありました。それがこちらの『お願い』にも関わっております」

「ほう。聞きましょう」

 興味深げに前のめりになる重信。しかしこれから聞く話は気分のいいものではないだろう。申し訳なさを感じつつも又三郎は本題を切り出した。

「要点を先に申し上げますと、十兵衛様は今回の異変の件にて重信様の潔白が確認できないことを非常に憂いておられます」

 数秒、痛いくらいの沈黙が続いた。

 又三郎が恐る恐る重信の顔を覗き込むと、重信は仰々しく反応こそしなかったものの明らかに動揺を抑えきれずにいた。

「……潔白!?私の!?私が今回の異変を起こした犯人だと疑っておられるのですか!?」

 重信の顔が徐々に険しくなっていくのを見てこれはまずいと思った又三郎は慌てて落ち着かせにかかる。

「お、落ち着いてくださいませ!疑っているというわけではありません!十兵衛様にもお考えがあってのこと。どうかこちらの話を最後までお聞きください!」

 又三郎が額を床につけて嘆願するとさすがに冷静になったのか、重信はいろいろと口に出したかったことをぐっと飲み込み一息吐いてからその理由を聞いてきた。

「……失礼。何故そのようなお考えになったのか、又三郎殿はお聞きしておりますか?」

「幾つかございますが、十兵衛様はどうも重信様ほどの術師が異変に対して何も手出しができていないという点が引っかかっておられるようでした。重信様は陰陽寮出の術師。陰陽五行だけでなくその他多くの怪異妖術に通じておられるはず。そんな重信様がいる小田原がこれほどまでに異変に蝕まれているというのはおかしいというのが十兵衛様のお考えです」

 これに重信は「あぁ……」と唸った。ただその顔は先ほどのような動揺のそれではなく、痛いところを突かれてしまったと言いたげな顔であった。おそらく何もできていないという自覚はあるのだろう。自らの不甲斐なさを悔いるような表情で重信は続きを聞く。

「そこから十兵衛様はこの異変の仕掛け人が重信様なのではないかとお考えになりました。もちろんちょっとした可能性のつもりのお考えでした。本心ではございません。ですがいざそれを否定しようとするとどうしても客観的な証拠が見つからない。重信様はなまじ力をお持ちなだけに捨て置くこともできず、結果として調査に支障が出てしまったというわけです」

 説明を聞く間、重信は苦々しい顔のまま固まっていた。そして聞き終えると今度はままならない現状を憂うかのように宙を見上げ、そのまま何かを考え込んだ。両者の間に再度長い長い沈黙が横たわる。その間又三郎はまるで針の筵の上にいるような心地で重信の反応を待っていた。重信が再度口を開いたのは又三郎の額の汗がつうと頬を伝って落ちた頃だった。

「……なるほど。それで『お願い』とは?」

「えっ?」

「言っていたでしょう?『お願い』があると。そちらのある程度の事情は分かりました。なるほど確かに私がこの異変に対して後手に回っているのは否めませんし、そこから不信感を抱かれても仕方のないことでしょう。そんな中で私に何を望むのですか?」

 重信の深い瞳が又三郎に向けられる。又三郎はここが一つの正念場だと気づいた。こちらの返答次第では重信もまた何かしらの覚悟を決めるつもりだ。

 だからこそ又三郎は正直に打ち明けた。

「私は重信様と十兵衛様、お二人が敵対するべきではないと考えております。故に改めて調査をするために重信様の調査の記録と市中に施された術式の情報を教えてほしいのです。それが私からの『お願い』でございます」


 重信は又三郎の言葉をゆっくりと噛み締めたのち、ふと何かに気づいたのか眉根を寄せる。

「なるほど。あの術式を見つけたのですな。それに……敵対?十兵衛殿はそこまで私を不信がっているのですか?」

(おっと、そうか。そこまで細かく話していなかったか)

 又三郎はおおまかな報告はしたが心情の機微までは伝えていない。ではどこまで話したものかと考えるが下手に誤魔化そうとすれば不信につながる。又三郎は重信の信を得るためと洗いざらい吐くことにした。

「いえ、不振がっているというよりは……先ほど潔白が証明できなくて困っていたと申し上げましたが、十兵衛様はそれの対処として数日間の間は重信様を潔白と見なして調査をするとお決めになられたのです。そして数日の調査の結果それらしいものは見つからず、代わりに見つけたのが用途のわからない術式が一つ」

「なるほど。それで今度は黒幕と見なして、というわけですか」

「いかにも。実を申しますと十兵衛様は今日にでもこちらのお屋敷へと参り、多少強引にでも重信様から話を聞くおつもりでした。それはもう、最悪の場合は刀を抜くことも辞さないほどのお覚悟で」

 これにはさすがの重信も驚愕する。

「なんと!?十兵衛殿はそこまでするおつもりでしたか」

「ええ。ですがこれは十兵衛様なりに天下や小田原を想ってのこと故どうかご理解くださいませ。ただ一方で私はそれは早計だとも十兵衛様に申し上げました。直接お会いした私の印象では重信様はそのようなことをなさる人ではないと。それを十兵衛様はある条件をもとに聞き入れてくださいました」

「それが先ほどの調査報告書の話ですか……」

「あるいは重信殿が潔白であられるという何か客観的な証拠でもあれば、十兵衛様も気掛かりなく重信様と協力することもできましょう」

 又三郎は深く頭を下げた。

「改めてこれが私よりの『お願い』です。争う必要のないお二人が争わないためにも明確な潔白の証拠か、それが無理でも重信様の調査結果や術式の内容だけでもお教えくださいませ」


 三度目の沈黙。だが今回はもう又三郎はすべてを話し終えたため重信の返答を待つばかりである。頭を下げたままその時を待つと、やがて重信のはぁというため息が聞こえた。

「面を上げてください、又三郎殿。事情は分かりました。私がこの異変の黒幕かと聞かれればそれは違う、誤解ですと言う他ありません。ですが出せる証拠もありません。それっぽいものを出そうと思えば用意もできますが、疑われればどうしようもありません。十兵衛殿は私の術を警戒しておられるのでしょう?」

「それは……はい。高度な陰陽術を使われては見破ることはできないだろうと言っておりました」

「十兵衛殿からすれば疑うのもやむなしか……おい、誰かいるか!」

 廊下に向けて声を上げた重信は奉公人を呼んで紙と筆を持ってこさせた。

「これまでの調査経過と術式についてでしたよね?」

「重信様!」

 年下の十兵衛に疑われるのは屈辱だったかもしれない。小田原唯一の術師という自負もあったかもしれない。それでもどうやら重信はこちらのお願いを聞いてくれるようだ。

「そもそも疑われてしまったのも自らの未熟さ故。これで小田原が助かる見込みがあるのならこの程度の恥辱くらい飲み込みましょう」

 自嘲気味に軽く笑って見せた重信はゆったりと筆を走らせた。

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