大場又三郎 気を吐く
「どうか明日の重信様邸宅への訪問は御考え直しくださいませ」
「……」
又三郎の申し出に十兵衛はさほど驚きはしなかった。ここ数日の振る舞いを見ていれば又三郎が重信に一種の敬意を抱いていることは見て取れた。そこからこのような行動に出ることも十分想像できる範囲だった。
問題はその源泉である敬意をどう言った経由で抱いたかという点だ。素直に重信の人柄に惹かれてというのなら問題ない。だがもし何かしらの術による催眠だとしたら……
(最悪、切らねばならないな)
十兵衛自身、多忙を理由に又三郎の問題から目を逸らしていたことは自覚していた。だがこうなればもう向き合う他ない。十兵衛は静かに呼吸を整え又三郎の方を向いた。
「一応確認しておくが、これが役儀であるということはわかっているのだろうな?」
「もちろん承知しております。十兵衛様のお考えもまた承知の上。承知の上で今しがた考えを改めてほしいのです!」
「我々の不手際はそのまま父上の風聞に関わっていることも承知の上か?」
「くっ……承知の上でございます……!」
主君である宗矩の名前を出すとさすがに一瞬たじろいだが、それでも又三郎は引かなかった。
「ほう、承知の上か。……何がそこまでお前に確信めいた行動をさせる?ここ二日、重信殿を白だと思い調査をしてきたが結局潔白を証明するものは何も出てこなかったのだぞ?」
「ですが黒だという明確な証拠もございません」
「それは否定しない。だがもう時間もない。多少強引でも駒を進める他ない。そして重信殿は力のある術師だ。半端な覚悟で相対すればこちらが負けるかもしれない。それでもなおお前は重信殿を黒だと思うなというのか?」
「……はい。お願いいたします」
「何か証拠でも出せるのか?」
又三郎は一瞬言葉に詰まる。だがそれでも言い切った。
「証拠はありません。私の勘にございます」
「なるほど。勘か」
証拠なんぞないことはわかっていた。故にそう答えることもわかってはいたが、いざ力強く言い切られるともはや呆れる他ない。
十兵衛はふぅと一息吐いて、ずいと体を近づけた。
「呆れるな。ここ天下の要所・小田原が
十兵衛は刀の柄に手をかけた。これは半分は
そして対する又三郎は新陰流の門下生。十兵衛の本気がわからぬほどの凡夫ではない。言葉を間違えれば切られる。死ぬ。裂帛の気合に圧されつつ、それでもなお又三郎は頭を下げた。
「もう一日だけ時間をください。それでも何も出なければ私自らが重信様を討ち、その後腹を切りましょう」
「小田原を天秤に乗せておいて、それで足りると思っているのか?」
「それ以上私に出せるものはありませんので」
「……」
「……」
月明りだけが照らす部屋で二人は静かに向かい合っていた。
針一本でも落とせば崩壊しかねない緊張感の中、先に口を開いたのは十兵衛であった。
「明日朝一で重信殿の家に行き監視を行え。加えて小田原各所に残した術式の場所とその効果を聞き出せ。それが一日待つ最低条件だ」
「……っ!ありがとうございます、十兵衛様!」
又三郎は額が擦り切れんばかりに畳に頭を下げた。
又三郎が去ったのち、十兵衛は自室で月を見上げながら先程のことを思い出していた。
(しかしまさか又三郎があそこまで気を吐くとはな)
又三郎はもともと柳生家の
そんな又三郎が一家来となるのは数年前に別の家来の一人が体調不良から暇をもらったことがきっかけだった。これにより柳生家家来の椅子に一つ空きができた。この頃武士は石高に応じた一定数の家来を有する必要があったため、柳生家もまた空席分の一人を新たに召し取ることとなる。
しかし実はこの頃の柳生家の台所事情は芳しいものではなかった。ここでは詳しくは語らないが坂崎事件の後始末や兵法指南役としての見栄などで家計は切羽詰まっていた。故に新たな家来はできる限り安くで雇いたい。だが素性の知れない者に来られても困る。一家の長である宗矩は将軍その他幕府重鎮ともつながりがあるため下手な人材は雇えない。
そんな中で白羽の矢が立ったのが又三郎であった。素性もわかっているし剣の腕も立つ。そして何より台所事情を分かっているため多少の無理も理解してくれる。こうして又三郎は名目上
こういった経緯があったためか又三郎は今でも若干下に見られているきらいがあり、また又三郎自身も負い目か引き目があるのか卑下するように一歩引くことが多かった。今でも小者のように家の雑用に駆けまわることも少なくない。普段の軽薄な態度も何割かはそこに由来していたのかもしれない。
そんな又三郎がここに来て武士としての気を吐いた。自分が信じるもののために命を懸けた。もちろん又三郎が操られているという可能性もわかっている。だがそれでも武士として応えなければならない、そう思わせる気概が又三郎の瞳にはあった。
「これに応えなければ男ではないな」
十兵衛は少し楽し気にそうつぶやいて寝酒を一気に煽った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます