柳十兵衛 小田原を調べる 1

 小田原には嫌な空気が広がっていた。梅雨の暗雲だけではない。何とも言えぬ不安や狂気が不快な湿気のように小田原の底を淀めていた。

 それを感じ取った十兵衛であったがよほど神妙な顔をしていたのだろう、異変を察した又三郎がこっそりと近くに寄る。

「……何かあったのですか?」

「……ちょっと不穏な空気がな。だがまぁ気にするな。具体的に何かがあったというわけではなさそうだ」

 小田原を包む空気は確かに不穏であったがまだ一つの形として顕現された気配はない。良兼からの報告でも具体的な被害はまだ出ていないはずである。

 しかし見た限りそれもいつまで持つかはわからない。それは例えるならば梅雨の曇天だろうか。雨自体はまだ振っていないがいつ急変し振り出してもおかしくない。そんないつ暴発してもおかしくない悪しき雰囲気が静かに小田原を覆っていた。


 この雰囲気だけでも異様であったのに、何より十兵衛を悩ませたのはこの異変と陰陽術師・黒田重信をどう評価するかであった。

(結構広がっているようだが、これはどの段階なんだ?重信殿とやらの術は効いているのか、いないのか?)

 小田原で唯一の術師・黒田重信。その重信が陰陽術的な処置をしてこの程度なのか、それとも処置が効かないためにこうなのか。重信に話を聞けば早いのだが今はそれもためらわれる。というのも今になって良兼の聞かせた噂話、重信自身が黒幕だという説に無駄に信憑性が出てきたからだ。

(陰陽生にまでなった陰陽術師。それほどの人物がいてここまで酷いことになるのか?)

 もちろん重信にも得手不得手があるだろうし、そもそも黒幕なら江戸に助っ人を求めたりもしないだろう。だが十兵衛が思い及ばない何かがないとも限らない。

(可能性は低いが、もしそうなら厄介なことになるな……)

 仮に黒幕が重信だとすれば相手は元陰陽寮所属の術師。悔しいが今の十兵衛では力不足は否めない。それだけでなく重信は秀用の家来でもある。他家の家来を処罰するなど下手をすれば大きな政治的問題にもなりかねない。

(せめて証拠でもあれば……白でも黒でもいい、はっきりとした証拠があればどちらかに動けもするのだが……)

 頭上の分厚い雲のように重い気持ちのまま十兵衛は良兼、又三郎に続いて小田原の門をくぐった。


 小田原に着いた十兵衛たちはまず良兼の屋敷へと向かう。良兼の屋敷の一室を小田原での寝床として使わせてもらうこととなっていたためだ。屋敷に着いた十兵衛は荷物を降ろし草鞋を解くとふぅと一息、などという暇などなく良兼に連れられて多くの人に顔を見せに行く。相手は小田原城守衛や与力筆頭といった小田原での重要人物たち。面倒ではあるが自分はあくまで余所者である。こういった顔合わせも政治的には必要なことであった。

 面会予定の者の中には黒田重信その人もいた。しかし十兵衛は重信と直接会うことをやんわりと避けた。名目は「話を聞いて先入観を持つ前に小田原を見て回りたい」という理由であったが本音はもちろん重信を警戒してのことである。野良術師ならいざ知れず正式に学んだ陰陽術師と相対して無事でいられる自信はさすがの十兵衛にもなかった。

 ただし何もせずにいるのは礼に欠けるし逆に相手に警戒されかれない。そこで又三郎に名代として到着の挨拶に行ってもらうことにした。無茶な振りを任された又三郎は珍しく緊張している様子であった。

「だ、大丈夫ですかね?」

「珍しいな、緊張しているだなんて。心配することはない。あくまで完全な白でないから警戒しているというだけで、黒幕である可能性は低いと睨んでいる。仮に黒幕だったとしても名代を攻撃して怪しまれるような真似はしないさ」

「うぅ……全然安心できないのですが……」

 ぶつくさと言いつつも又三郎は仕度を進める。

「……そういえばちゃんと聞いてなかったのですが、小田原の雰囲気が悪いとはどういうことですか?梅雨で皆滅入ってますけどそれとはまた違うんですよね?」

「ああ、全然違うな。なんと説明すればいいのかな。具体的な被害がまだ出ていないようだからまだ何とも言えないんだが……」

「そんなに問題なんですかね?言ってしまえば空気が悪いってだけでしょう?」

 怪異を感じ取れないとはいえ少々のんきすぎる又三郎に十兵衛は苦笑する。

「場の雰囲気は舐めないほうがいい。雰囲気は想像以上に人の行動を誘発するからな。又三郎だって覚えがあるだろ?酒でも飲んで楽しい雰囲気の中つい歌い出してしまったり、あるいは全員が喧嘩腰の一触即発の中で些細なことに怒鳴ってしまったりと。今回小田原を覆っているのはこれの狂気を強くしたもの。そこからどんな被害が誘発されるかわかったもんじゃない」

 一呼吸置き十兵衛は声を低くして続ける。

「そして厄介なのは――逆説的な話になるが――これが俺や重信殿が感じ取ることのできる怪異だということだな。怪異ということは怪異的な原因があるということ。人か、物か、呪術かはわからないが……ともかくその原因が重信殿だとしたら、かなり厄介なことになるだろうな……」

 十兵衛の神妙な語り口に又三郎はぶるりと肩を震わせる。

「普通なら原因を取り除いたり、あるいは時間が経てば勝手に霧散するものなのだが話を聞く限りではだいぶ前から滞留しているようだ。まったく、これで被害が出ていないというのは奇跡に近い」

「重信殿が色々と手を講じたと言われてましたが、それの成果でしょうか?」

「わからない。意図して何も起こらないようにしているかもしれないしな。まぁとにかくそれを探ってくる時間をお前に作ってきてほしいんだ」

「うぅ、わかってますよ。骨は拾ってくださいよ?」

 話している間に覚悟も決まったようだ。こうして十兵衛に見送られて又三郎は重信の屋敷へと向かった。

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