柳十兵衛 黒田重信の噂を聞く
翌朝。十兵衛は小さく雨戸を叩く音で目を覚ました。ゆっくりと覚醒しつつあたりをうかがえば良兼と又三郎はまだいびきをかいている。体感としては日の出半刻前と言ったところだろうか。十兵衛が他二人を起こさぬように静かに窓を開けると外はまだ薄暗く、霧にも似た小雨が降っていた。
(朝から雨か。気が滅入るな)
この時期は仕方がないとはいえ今日もまたこの雨の中を一日歩くと考えると思わずため息の一つも出る。そう外を見ていると後ろでごそりと気配が動いた。見れば又三郎が気だるげに半身を起こしていた。
「ん、すまない。起こしたか」
「いえ、どうせそろそろ明け六つでしょう。それにしても今日も雨ですか。仕方ないとはいえ滅入りますね」
「まぁこの時期はな。小雨な分ましなくらいだ」
その後良兼も目を覚まし全員で朝食を食べて宿を出た。雨は相変わらず降っていたが昨日と比べれば気にならないほどの小雨であった。
この日は順調に進み昼前には戸塚宿に着いた。本来一日目の宿を取る予定だった宿場だ。十兵衛たちがここで早めの昼食を取っているとその間ににわかに雨脚が強くなる。しかし雲はそれほど厚くないため食後の休憩がてら店内で雨が弱まるのを待つことにした。今日のうちに小田原に着くのはもうあきらめていた。
この折に十兵衛は昨日良兼に聞きそびれていたことを訊いてみることにした。
「そう言えば良兼様。昨日聞きそびれたのですが、小田原には何かしらの術師はいらっしゃらないのですか?」
怪異改め方の例で分かるように幕府は非公式ながらも怪異あやかしの存在は認めており、それに対抗する組織も用意している。それが安定した統治のために必要だと判断されたからだ。ならば小田原とて天下の要所の一つ。それに見合っただけの人材が控えていてもおかしくはない。いや、いるべきですらある。
そう尋ねると良兼は「あぁ……」と少し困ったような顔をしてから答えた。
「もちろんいないわけではありません。
それを聞いた十兵衛は「それはなかなか」と感嘆した。詳しくは後述するが陰陽生とは
だがそんな重信を紹介する良兼の表情はどこか堅い。
「……何か問題のある方なのですか?」
「いえ、そういうわけでは……ただ実際のところどれほどの力量があるかは私どもではわからないんですよ。なにせ怪異の類は我々はわかりませんからね」
「あぁ、それはまぁ仕方がないですね」
あきらめとも同情ともとれる口調で十兵衛は肩をすくめた。普通の人には怪異あやかしの類は見えない。故にその仕事ぶりが評価されづらいというのはこの手のお役目の宿命でもあった。
十兵衛の怪異改め方も常に全員に認められていたというわけではない。事情を知る小姓仲間や家来から「本当に意味があるのか」「今からでも小姓仕事に戻ったらどうだろうか」などという意見が出たのは一度や二度ではない。しかも彼らは親切心からこう言っているのだ。それだけ怪異改め方が胡散臭く見られているということだ。
だが詳しく話を聞くに、どうやら重信への不信はそれよりも一段二段上をいっているようだった。
「平時からいろいろと言う人はおりましたが此度の騒動でその声も大きくなってきました。ええ、もう本当にいろいろと……」
「それほどひどいのですか?」
「ええ、まぁ。そもそも此度の件、本当に怪異が起こっているのかすらはっきりとしていませんからね。江戸でも言いましたが具体的に何かがあったというわけではないんですよ。悪い病が流行ったわけでも不審な死があったわけでもない。単に怪異が見える者、つまり重信殿が怪しい雰囲気が漂っていると言ったからそれを信じているというだけなんです」
(そういえばそうだったな)
十兵衛は自分が見える側であるためつい深く考えていなかったが確かに見えない者からしてみれば大概な話だ。何も見えない、何も感じない、何も起こっていない。にもかかわらず言われれば信じる他ない。それは相当な精神的負荷であろう。
「我々は感じることができませんが言われれば信じるしかない。重信殿の進言に基づきいろいろとやりましたよ。
良兼もまた思うところがあるのだろう、言葉は中立的であるよう選んでいたがその口調にはほんのりと冷たいものが混じっていた。昨日秀用の話をしていたときとはまるで違う、突き放したかのような言い草にむしろ十兵衛はそちらの方が気にすらなった。
(昨日の感じから小田原の家臣団は仲睦まじいと思っていたが、そうでもなかったのか?)
そう訝しむ十兵衛をよそに良兼は言葉を続ける。
「城の上役たちは重信殿の具申通り江戸に助けを求めるかで悩んだそうです。なにせ証拠らしいものは何もなく、あるのは重信殿の証言だけですからね。これで何もなければ重信殿だけでなく我々の評判まで堕ちてしまう。ただ最後には万が一を恐れてということで承認されました。このことでもやはり不平を訴える者は少なくなかったですね」
そして良兼は最後に思わず寒気がするほどの声でぼそりと言った。
「実のところ、すべて重信殿の妄言で、この混乱を機に小田原を乗っ取るなんて噂すら出ているくらいです」
これには十兵衛も思わず口を出した。
「それはさすがに誇大妄想では?それならば江戸からわざわざ私を呼ぶなんて真似はしてないはずですし」
「それはそうですが……まぁこういう意見も出ていると参考程度にとどめておいてください、ということですよ」
「……覚えておきます」
話し終えたところでちょうど雨脚も弱くなった。店を出た三人は遅れを取り戻すためか口数少なく街道を進み、やがてたどり着いた平塚宿で二日目を終えた。
三日目は曇りであったが連日の雨で路盤は悪く湿気もひどく蒸し暑かった。それでも十兵衛らは黙々と進み、とうとう小田原まであと一里のところまで来た。
「この木が小田原まであと一里の目安なんですよ」
半身振り返りそう言った良兼の顔ははっきりとは見えない。
出会ってからまだ日は浅いが良兼からは確かに小田原という地への愛情が感じられる。主君への忠も感じられるし、そこから家臣団の仲が良好であることもうかがえる。
だがそれなら昨日の陰陽術師・黒田重信に対する冷たさは何だったのか。重信もまた同じ小田原を守護する家臣のはずだ。もちろん重信が見える成果を上げていないというのもあるだろうが、それにしても擁護の一つもないというのは何か溝を感じずにはいられない。
重信は小田原で唯一の術師であり、また今回の異変とやらを始めから見ていた人物でもある。つまり小田原で十兵衛が頼ることになるであろう人物だ。できることなら余計な人間関係など気にせずに気兼ねなく接したいのだが、果たしてそれができるかどうか。
このとき十兵衛は重信に同情的な感情を抱いていた。対怪異あやかしを生業とする者は職務の都合上どうしても胡散臭く見られてしまう。重信への当たりの強さもそこから来ているのではないだろうか?ならばあやかしが見える自分こそ彼の協力者とならなければ。このときの十兵衛はそんな自負だけでなく、不遜ながら彼らと重信との橋渡しにでもなれはしないかとすら考えていた。
のちに思えばこの楽観的な考えは難事であってほしくないという願望の裏返しだったのかもしれない。しかしそんな思いも小田原まであと四半里というところで消え失せた。
「これはまいったな……」
誰に聞かせるつもりでもない小さな呟きであったが又三郎の耳には届いたようだ。
「いかがなさいましたか?」
何も感じずにキョトンとした顔で尋ねる又三郎を十兵衛は少しうらやましくすら思った。
四半里先からでもわかる不穏な雰囲気。それが小田原という町一つを完全に覆っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます