柳十兵衛 幼き日を語る 2
「チョウ、ですか?」
「あぁそうだ。デカい蝶だった。片方の羽だけで手の平くらいはあった。
どこからともなく道場に入ってきた妖艶な黒い蝶。それを十兵衛は剣を止めて見入ってしまった。
「それがきっかけだな」
「ん?その蝶に何かあったんですか?」
「ああ。実は後から聞いた話だが、この蝶は陰陽術師が放った式神でな。俺にあやかしを見る才があるかどうかを調べるためのものだったんだ」
「なっ!?何でそんなことを?」
「上様の小姓に就く者に対しての身辺調査さ。そしてこの場合は見えない方がよかったんだ」
将軍とは決して飾りの役職ではない。江戸幕府という政治集団の頂点であり象徴でもある。そんな将軍のそばに下手な人材を寄せ付けるわけにはいかない。
そのため小姓候補に挙がった者には徹底的な身辺調査がなされた。健康面、精神面、家柄に思想その他もろもろ。こうして調査する項目の一つにあやかしが見えるか否かという項目があった。今回の場合はあやかしが見えないことが求められる。なまじ見えてしまうと将軍がその者を特別扱いしてしまうかもしれないからだ。現代でも著名人に占い師や霊媒師などがついておかしなことになる話があるが、幕府の年寄りたちもそのような事態を恐れたのだ。
「んー?でも三厳様は小姓になられましたよね?」
「あぁ、実は話には続きがあってな……」
十兵衛は御猪口を一杯傾けてから話を続けた。
「俺の様子は陰陽師が隠れて見張ってたらしくてな。俺が蝶を目で追ったのを見て一時は『不合格』と一筆入れていたそうだ」
だがまだ続きがあった。黒い蝶を目で追う十兵衛。始めは呆けたように見守っていたが、ふと我に返ると袋竹刀を構えてその剣先を蝶に向けた。中段、正眼の構え。距離はまだ遠く一足では届かない。幼き十兵衛はふぅと余計な息を吐き、いつでも飛び掛かれるように後ろ脚を下げた。それはまるで小さな肉食獣が獲物を仕留めようとしているようだったという。
黒い蝶は優雅に舞いながらゆっくりと十兵衛に近づいていく。実は式神にはあらかじめ十兵衛に近づくように命令が組み込まれていたのだが、それを知らぬ十兵衛は間合いに入るその一瞬を逃さぬように集中を研ぎ澄ませていた。そしてやがて蝶は十兵衛の間合いに入る。と同時に十兵衛は鋭く息を吐き、板張りの床を蹴る。最小限の動きで、最短の軌道で、十兵衛の切っ先が黒い蝶を打った。打ち付けられた蝶は霧散した。
これに驚いたのは監督していた陰陽師であった。なにせ蝶は小さいとはいえ式神。多少の物理的な衝撃ではその術式が解かれることはない。それが解かれたということは十兵衛の一撃に物理的衝撃以外の何かが乗っていたということだ。強い陰陽の力か、生命力を由来とする法力か、あるいは退魔の波長か。詳しくは調べなければわからないが稀有な才能であることは間違いない。陰陽師は『不合格』に修正線を入れて『要審議』と書き足し老中に提出した。
「噂の又聞きだが、俺をどうするかは大分揉めたそうだ。規定通り小姓にはさせないか、稀有な人材として上様の近くに置くか。噂では金地院様の強い要望で小姓になれたとか聞くが、まぁ真偽は知りようもないことだ」
「なるほど、そのようないきさつで。しかしまぁ流石は三厳殿で!そんな幼いころから目にかけられていたとは!」
「調子よく褒めるな、まったく……それにそれほどいい才でもないさ。特に幼い頃は自分の才が理解できずに悩んだこともあって……と、この話はいいか。それよりももういい時間だな。明日もあるしそろそろ寝るか」
「左様で。ではおやすみなさいませ」
こうして十兵衛と又三郎も床についた。横になり目を閉じると、やはり疲れがあったのか落ちるように眠りについた。十兵衛たちの一日目が終わった。
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