柳十兵衛 幼き日を語る 1
小田原へと向かう十兵衛たち。彼らはその初日の暮れ六つ前、滑り込むように神奈川宿の門をくぐった。宿の並ぶ通りを見て安堵と疲労の混じった声で呟いたのは良兼であった。
「はぁ、よかった。どうにか日の入り前に宿場に来れましたね」
雨宿りの立ち往生やぬかるんだ路盤のせいで予定は大幅に狂っていたが、どうにか日暮れまで宿場に来ることはできた。最悪野宿やどこかの村に頭を下げることも覚悟していただけに宿場の看板を見た時は十兵衛ですら安堵したほどだ。
彼らは「部屋なら空いてますよ」と寄ってきた呼び子に言われるがままに部屋を一室借りる。合羽や草鞋を解くと一日締め付けられた四肢は一気に解放され、しびれるような少し心地よい疲労感が体を包んだ。ようやく一日目が終わったという実感がわいてきた。
「はぁ……いやぁ、この時期は本当に参りますな」
「まったくですね。ところでこの調子だと、やはり明日のうちに小田原は難しそうですかね?」
「さすがに明日は厳しいですな。天候次第ですがおそらく平塚あたりでもう一泊かと。小田原到着は早くて明後日の昼頃でしょうね。まぁ考えるのは明日にしましょう。今日はとにかく早く寝て明日に備えましょうぞ」
見れば良兼はもう疲労困憊なのか頭をふらふらとさせている。今にも寝落ちしてしまいそうだがそれでもまだ起きているのは武士の意地だろうか。事実十兵衛が「気にせず先に横になっていてください」と言うと良兼はさっさと横になってさっさといびきをかき始めた。
ただ年や体力を考えればこうなるのは当然のことで、この点ではまだまだ余力のある十兵衛と又三郎の方が異常なのだ。そんな十兵衛たちは日の入りまでのわずかな明かりを頼りに晩酌を楽しんでいた。
「そういえば三厳様とこうやって差し向って飲むのは初めてですね」
「今は十兵衛だ。いや、今はいいか。だが外では間違えないでくれよ」
そんな二人の話は昼間のように特に脈絡もなく天気の話、流行の話、剣術の話ときて話題は十兵衛が怪異改め方になった経緯の話となった。
「そう言えば三厳様はいつ頃から改め方になることが決まっていたんですか?」
「ん?改め方になるのが決まったのはつい先日だが?」
「いや、そうではなくって、年寄様方が三厳様に改め方になるよう打診したんですよね?その年寄様方は一体いつ頃から三厳様の才を知っていたのかと思いまして」
「ああ、きっかけか。それなら多分……八年前。俺が十二の頃だな」
「へぇ!そんな昔から!」
「噂で聞いただけだから実際はどうかは知らんがな。だがあの日のことはよく覚えているよ」
十兵衛は次の一杯を御猪口に注いでからその日のことを語りだした。
「あれは八年前。上様の小姓になる前だから俺が十二の頃だな。俺はあの日父上に道場で一人竹刀を振っているように言われたんだ」
そういえばあの日も梅雨の頃だった。朝夕がようやく寒くなくなったと思ったら今度は湿気で蒸す日が多くなった時分。幼き十兵衛は父・宗矩から今日は一日道場で素振りをしているようにと言われた。
『今日は大人は全員忙しいからお前一人になるが、決して手を抜くでないぞ』
『はい!わかりました、父上!』
今思えば忙しいのならば弟たちの世話を任されるのが普通だろうが、幼き十兵衛は特に不信に思うことなく言われた通りに一人道場で素振りをしていた。
幼き十兵衛は熱心に袋竹刀を振る。この頃の十兵衛は丁度武士の長男としての自覚が芽生えてきたころであった。自分はいずれ柳生家という家を背負うこととなる。家を守れるほどの強い武士にならなければならない。幼い弟や病床の母の存在もそんな思いを後押ししていた。
また他の家来が言うには近々次代将軍・家光の小姓に抜擢されるだろうとのことだ。実のところ幼き十兵衛は次の将軍だの小姓だのが何なのかをよく理解していなかった。しかし周りの大人たちの反応を見るにそれが誉れなことであることは幼子ながらに理解できた。そんな思いが重なったためか、この日の十兵衛の剣の冴えは特に研ぎ澄まされていた。
そんな最中のことだった。幼き十兵衛の視界の端に、黒く優雅な蝶が現れたのは。
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