柳生三厳 両名を『柳十兵衛』とする 2

 翌朝。三厳は七つ半頃(日の出約1時間前)に目を覚ました。仮眠程度の睡眠時間だったがそれでも体の疲れはすっかり取れていた。「あるいは上等な布団のおかげかもですな」と三厳が軽口をたたくと宗矩はあきれた様子で「早く仕度をしろ」と促した。

 三厳は布団を脇に片付けるとあらかじめ持ち込んでおいた半裃はんかみしもを着込む。さすがに昨夜が特例だっただけでこれ以上城内で小袖に袴というわけにはいかなかった。下城の準備を終えた三厳は宗矩と共に静かに開門の時を待つ。

 江戸城の門は明け六つに(日の出時、午前6時前後)、くぐり戸はそれより少し早い時刻より開けられる。そして開門してすぐは夜勤交代の者や火急の用を持つ者がこそこそとここを通る。三厳らはこれに紛れて下城するつもりだった。これに少し遅れると本格的な旗本らの登城時間になってしまうため早くから準備をしておく必要があったのだ。


 こうして待つ三厳らであったが間もなく開門という頃に部屋に訪ねてくる者がいた。

「柳生殿。今よろしいかな?」

「はい?こ、これは讃岐守様(酒井忠勝さかいただかつ)!」

 訪ねてきたのは、三厳らと同じく江戸城内で一夜を明かした老中の酒井忠勝であった。思わぬ来訪者に宗矩と三厳は慌てて身なりを正し頭を下げる。一通りの礼を受け取った忠勝は三厳らに楽にするよう命じた。

「そうかしこまらなくともよい。ちょっとした世間話をしに来ただけだ。時に三厳殿、昨夜は見事だったな。正式な沙汰は少し先になるが色よい返事を期待してもよいぞ」

「はっ。もったいなきお言葉、至極恐悦にございます」

 頭を下げる三厳。しかし忠勝の目的が単なる世間話ではないことはわかっていた。事実すぐに忠勝は本題を切り出した。

「さて時間もないので本題に入るが、三厳殿は上様の御小姓からしばし離れるのであったな?」

「はい。万一のためにけがれを落とす期間を設けております」

 三厳の正式な怪異改め方への着任はまだ少し先であり、それまではまだ三厳は家光の小姓である。しかし三厳は昨晩あやかしを切った。それが陰陽師が管理する式神の一種だったとはいえあやかしはあやかし。それに触れたことでどのような穢れが三厳に溜まっているかはわからない。そのため用心のために三厳はしばらく小姓の仕事から離れることになっていたのだ。

「うむ。それで相談なのだが、この暇に三厳殿には武蔵国本庄(現在の埼玉県本庄市周辺)の方に出向いてはもらえないだろうか?」

「武蔵国にですか?あ、いえ、お望みとあらば是非もなし。しかし何故に?」

 尋ねると忠勝は少し説明に困るような顔をした。

「実は最近本庄周辺に山賊が出るらしくてな。規模は少数だそうだが、その山賊にあやかしが係わっているという噂が出ているのだ。三厳殿にはその噂の真偽を確かめてきてほしい」

 忠勝の話によると最近武蔵国本庄周辺に小規模の山賊が出るようになったという。このような破落戸ごろつき共がふと現れることは珍しくはないのだが今回の彼らはなかなかの手練れらしく、現地の番方らが何度か捕縛を試みたものの賊の一人どころか尻尾の一つも掴ませずにいるらしい。

「とうとう大規模な山狩りも行ってみたそうだが、それも何の成果も出なかったらしい。こうして困っていたところに偶然立ち寄った僧が忠告をしたそうだ。道中にあやかしの気配がしたとな」

「それが山賊に関わっていると?」

「いや、そこまではわからん。しかし他に手もない。ということで先日本庄よりあやかしが係わっているかどうかがわかる者を寄越してほしいとの請願が来たのだ。そして折よく手の空いている者が出てきた」

 そう言って忠勝は三厳を見る。あやかしを見る力を持つ者。言うまでもなく三厳のことだ。三厳は丁寧な所作で頭を下げた。

「承知いたしました。柳生三厳。讃岐守様の命を受けて本庄へと向かいます」

「うむ。そう言ってもらえると助かる。宗矩殿も問題ないかな?」

「どうぞご自由にお使いくださいませ」

「かたじけない。道中の案内人はこちらで用意しておいたのでこれ以上の話はその者に訊いてくれ。手形や旅費等もその者に持たせる。おそらく五つ半(午前9時前後)あたりにそちらの屋敷を訪ねてくるだろう。それでは三厳殿、多幸を祈っておるぞ」

「はっ!」

 三厳は自信に満ちた声で返答をした。


「では失礼する」

 こうして要件を済ませ去ろうとする忠勝であったが、ふすまに手をかけたところで「おっと。それともう一つ」と思い出し三厳の方に向き直った。

「三厳殿。金地院こんちいん殿から、改め方の任に就く際に両名(別の名前)を名乗った方がいいとの進言がなされた。非公式の役儀故に他の年寄衆からも同様の意見が出ている。せっかくだしこの機より名乗ってみてはどうだろうか?」

「両名ですか……」

 両名とは簡単に言えばある程度公的に認められている偽名・別名のことである。ある役職に就く際に本名あるいは本当の身分では問題がある時に使用される。今回は一つに怪異改め方が非公式の役職であること。そしてもう一つ、怪異の穢れ等から身を守るという名目で両名の使用が推奨されたのだろう。

「苗字の方はわかりやすく『やなぎ』を名乗れるようにしておいた。あとは名前の方だが何か名乗りたい名はあるか?」

 忠勝の問いに三厳はさほど間を置かずに返答した。

「さすれば偽名として使おうと思っていた名前『十兵衛じゅうべえ』を名乗ろうと思います」

「ほう、十兵衛か。ふふっ。七郎と三厳で十兵衛か。いいな。そのくらいわかりやすい方がかえって混乱もしないだろう。よしわかった、『柳十兵衛やなぎじゅうべえ』よ。改めて尋ねるが、武蔵国に行ってくれるな?」

「命とあらば喜んで」

 こうして柳生三厳改め『柳十兵衛』は老中・酒井忠勝の命を受け武蔵国へと赴くこととなったのであった。

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