第60話

 マナカが飲みやすいよう、紙コップに移したスポーツドリンクを、テツヤはベッド脇のサイドテーブルに置いてあげた。


 するとマナカは食べ物をねだる子犬のような視線を向けてくる。


「テツヤくん、私に飲ませてください」

「だが、しかし、こぼすと危ない」

「いいから、早く早く」


 上体を起こしたマナカの口元に、テツヤは紙コップを近づける。

 原付を運転するときのような慎重さで、ゆっくり傾けていく。


「おいしい。お姉ちゃんが買ってきてくれて、テツヤくんに飲ませてもらうスポーツドリンクが、この世で一番おいしいです」


 マナカがふっと油断したとき、窓の外にピカッと稲光が走った。

 テツヤは窓辺にいき、カーテンを閉めてあげる。


 この季節の天気は移ろいやすい。

 昼間は晴れていたはずなのに、空にはぶ厚い雲がかかっている。


「今日の雷は遠そうだ。これでも頭とか痛む?」

「たくさん寝たのでそれほどでも。それにテツヤくんが近くにいるから平気です」


 マナカが嘘をついているようには見えなかったので、テツヤはスポーツドリンクの残りも飲ませてあげた。


「病人扱いされていると思うと悔しいですが、お姫様扱いされていると思うと楽しいです」

「それは悪くないアイディアだ」


 マナカは両手の指を胸の前で組み合わせる。

 お祈りを捧げる信徒みたいで、テツヤはそっと見守ることしかできなかった。


「お姉ちゃんがああなったの、私のせいなのです」


 3分くらいの沈黙のあと、マナカは口を割った。


「ああなった? ひねくれ者ということ?」

「そうです」

「わからない。昔のレイさんは違っていたの?」

「幼稚園くらいの頃ですが……。お姉ちゃんは社交的な性格をしていて、どっちかというと私の方が引っ込み思案で……」

「えっ⁉︎ マナカさんって元々引っ込み思案なの⁉︎」

「そ……そうですよ……。たぶん、一般の高校に通ったら、少人数でこそこそ群れています」

「それは意外だな。意外すぎるくらい意外」

「私が明るく振る舞えるのは、お姉ちゃんの真似事なのです。昔のお姉ちゃんの……」


 マナカは悔しそうに唇を噛んだ。


「お母さんが家を出ていって、その後に私がこんな体質になって、お姉ちゃんは別人みたいに変わってしまって……」


 七夕の話を聞かせてくれた。


 そういえば、レイからも似たようなエピソードを聞かされたな。

『お母さんがほしい』みたいな願いをマナカが短冊に書いて、イラっとしたレイは1回それを引きちぎった、という内容だった。


 レイは去っていったお母さんの代わりになりたいのだ。

 だから、マナカにとことん優しく接する。

 心の穴を埋めるように。


「あの日、お姉ちゃんは短冊を見せてくれなくて、別の日にこっそり確認しにいったら……『マナカが幸せになりますように』……と書かれていたんです」


 胸にたまったうみでも吐き出すようにマナカが咳き込む。

 テツヤは慌てて背中をさすった。


「お姉ちゃんが学校で独りぼっちでいるの、あれは願掛がんかけなのです。自分がたくさん苦しめば、いつか私に幸せが訪れると思っているのです」

「わからない。そんなことをやっても意味があるとは思えない」

「私もわかりません。でも、そういう人なのです」


 急に口の中がヒリヒリした。

 レイの凄みのようなものが伝わってきて、軽々しく意見できる空気ではなかった。


「マナカさんがお願いしても、レイさんは聞いてくれないの?」

「そうです。姉は自己犠牲の人なのです。私たち、完全にフェアなのです。幸せの量が同じになるよう生きているのです。お姉ちゃんが願掛で調整しているのです」


 とても美しい姉妹の絆。

 なのにテツヤの胸を苦しませる。


 レイの生き方は間違っている。

 それを本人も理解している。


 苦しみの貯金。

 いくら貯めたところで、マナカの幸せには転化されないだろうに。


「だから……だから……」


 マナカは目元に溜まった涙をぬぐった。


「私が幸せにならないといけないのです」

「お姉さんが独りぼっちのままだから?」

「そうです」


 本来のレイのように生きてほしい。

 マナカの願いはその一点だった。


「私が幸せにならないと、お姉ちゃんはずっと歪んだままなのです」


 テツヤとマナカの仲を取り持とうとするレイの気持ちが、この日、はじめて理解できた。

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