第54話

 今日はそんなに遅くならないうちに帰ろう、とテツヤは考えていた。


 というのも、午後になると天気が下り坂に入るからだ。

 場所によっては小雨がちらつくだろう。


 マナカの症状について、詳しく知らないけれども、頭上に爆弾を抱えている、と思っていた方が良さそう。


 肝心のマナカはというと、天候のことを毛ほども心配していないらしく、


「ねえねえ、美術館いきましょうよ〜」


 と恋人みたいに甘えてくる。

 あまりの距離の近さにドキッとしたテツヤは、


「じゃあ、いこっか」


 と二つ返事でOKしてしまった。

 しまった! と後悔したが、もう遅い。


「やった! 美術館デート、一回やってみたかったんです!」


 ピュアすぎる笑顔に毒気を抜かれてしまう。

 こんな場面、レイが見たら怒らないかな、と心配しつつ、テツヤは歩き出した。


「ここの美術館、地元の企業がやっているんですよ」

「へぇ〜、詳しいね。来たことあるの?」

「いえ、初めてです!」

「……」

「あ、でも、昨夜にちゃんと調べたんですよ!」


 マナカは今日をよっぽど楽しみにしていたんだな。

 1秒1秒を大切に生きている感じが、テツヤにとっては新鮮だ。


「ほらほら、見てください」


 美術館の中でも、絵の中の人物と同じポーズを取ったりして、テツヤのことを楽しませてくれた。


「大きい美術館もいいですけれども、小さい美術館もいいですね」

「美術館、好きなの?」

「う〜ん……美術館に1人でいると、素敵な異性から声をかけられるんじゃないかと、勝手に妄想しています」


 テツヤはうっかり笑ってから、失礼、と誤魔化した。


「でも、今日はテツヤくんがいるから、そんな妄想はしませんよ」


 そういう少女の瞳は、宝石みたいにキラキラしていて、この館内に存在するあらゆる絵画より美しかった。


 マナカはいいな。

 好きなものを好きという。

 こんなにも姉妹は似ていないのに、どうしてテツヤは2人を好きになったのか。


 1枚の前でしばらく沈黙していた。

 何の変哲もない、貧しそうな女が洗濯しているだけの絵。

 この絵のどこに芸術的価値があるのか、テツヤは死ぬまで理解できないだろう。


「美術館っていいですね」

「どうしてそう思うの?」

「無言がまったく苦にならないじゃないですか。こういう静謐せいひつさが、美しいです」

「マナカさんでもそういうこと意識するんだね」

「意識しますよ。私のこと、何だと思っているのですか」

「う〜ん、マシンガントークが似合う女性」

「なっ……」


 猫みたいにキッと目を吊り上げる。


「まあ、否定できません」


 おどけたように笑うマナカは、どこまでも天使だった。


 美術館を一周して、退館ゲートが近づいてきたとき。

 マナカが小さくうめいて側頭部を押さえた。


「近いです」

「ん?」

「雨が……」


 窓の外に目を向ける。

 いまにもドロリと溶け落ちてきそうな暗雲が、いつの間にか街の上空を支配していた。


 窓ガラスに細い線が走る。

 針のような雨粒だった。


「マナカさん、ごめん、気づかなくて」

「いえ、いいんです。テツヤくんは悪くありません」


 そういうマナカの顔には、若干の苦しさがにじんでいる。


「とりあえず、駅まで急ごう。今ならそんなにれない。何だったら、ここからタクシーで帰ろう」


 説得を試みるテツヤの服を、マナカは頼りない力で引っ張ってきた。

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