6.




 男は一人、焦っていた。


 紫陽花ばかりが咲き誇る、梅雨の季節で止まったままの部屋。

 本日のヨコハマは晴天模様で、コンクリート打ちっぱなしの殺風景な部屋に投影された空も晴れ渡った快晴だった。

 その中で、紫陽花を生かすために植木鉢に水をやりながら、男は一人考え、静かな焦りを抱えていた。

 人呼んで『首くくり犯』………そう呼ばれている男は今はポートマフィアの一員、名も知られぬような下っ端として、ポートマフィア幹部の一人中原中也が寵愛している(最も本人はそんな事実は認めないのだが)女の部屋で紫陽花の面倒を見ている。

 時折男は部屋の隅に目をやる。そこには水色の病院着姿の女が一人、じっと紫陽花の花を見つめている。

 かれこれ一時間はそうしているのだが、紫陽花に関しては飽きを知らない彼女は石のごとく動かない。紫陽花の前にしゃがみ込み、膝を抱えたまま、その姿勢で一時間固まっている。

 植木鉢の一つ一つに丁寧に水をやりながら、男は考える。

 男の異能力は強力なものではない。ただ、それだけだ。

 それも、ただの紐にするか、ロープのような丈夫なものにするか、そういった選択で男自身の疲労度が変わってくるという不便なもの。

 自分という異能の存在が知れ渡ってからというもの、ポートマフィアの人間は皆大振りのナイフを持ち歩いており、ただの紐のようなものでは簡単に切断され、首くくりが成功した試しがない。

 しかし、首くくりの紐を工場にあるような鉄製のものにして生成してみたところ、一人、二人、とポツポツとではあるが首くくりに成功している。

 ただ、その疲労は相当なもので、一日にそう何度も生成できるようなものではなかった。

 手堅くいくのであれば、ナイフで切断できない丈夫な首くくりの輪を形成、仕掛け、ゆっくりじっくりとポートマフィアを追い詰めていことが定石なのだが………。

 しかし、男は焦っていた。

 このままではポートマフィア殲滅、ヨコハマを自由にするなど夢のまた夢。時間がいくらあっても足りない。ポートマフィアは人員だけは多いのだ、もっとペースよく首をくくらせていきたい。


 男は静かに焦っていた。


 焦っていたので、『ポートマフィア幹部の一人、中原中也の弱点』たる女を殺し、幹部の傷になる成果を残そうと思った。

 監視カメラにはあらかじめ、今日は同じ映像が映るよう細工をしておいた。やるなら今日だ。

 もともと代わり映えのしない部屋の風景しか映さない監視カメラに、やる気のない警備員が仕事をサボりがちなのはリサーチ済みだ。今日と言う日が終わるまでカメラの異常に気付く事はないだろう。

 男はゆっくりと立ち上がるとじょうろを置き、首くくりの紐を切断するために支給されたナイフを手に、静かに女の背後へと忍び寄った。

 女は紫陽花を見つめたまま動かず、そういう人形なんじゃないかと思うほどに微動だにしない。

 とにかく成果を求めていた男は、大振りのナイフを構える。

 男の思考は焦りで鈍くなっており、たとえば『ナイフを首に刺したあとの返り血はどうするのか』という具体的な問題がすっぽ抜けていた。

 成果を求めた男は、無防備な女の背中に若干の躊躇いのあと、その首めがけてナイフを振り下ろす……刹那、ギン、と甲高い音とともにナイフが手から弾き飛んだ。

 ナイフを弾き飛ばしたのは黒い一閃。「あ…?」その一閃はナイフを弾いた返しで男を壁へと叩きつけた。大して鍛えてもいない男は呆気なく壁にめり込み、実に呆気なく気を失う。


「悪いな芥川。助かったぜ」

「……お安い御用です」


 黒い外套を変形させて部屋の入り口から件の男を弾き飛ばした芥川龍之介は、口元を押さえて咳をしながら一礼した。

 このために部屋から退出していた中原中也は足早に女へと歩み寄る。「怪我は…ねェな」紫陽花からのろりと顔を上げた女の首に異常はない。その事に胸を撫で下ろした中也は、壁にめり込み気を失っている男にやる。その眼光は剣呑な光を帯びている。


「………拷問の必要性があります」

「分かってる」


 念のための芥川の進言に中也は口をへの字に曲げながら男の首を掴んで浮かせ、無重力で浮いている男を部屋の外へと連行した。



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