5 言えないよ

言えないよ


「……と、言うことで。わが夏山愛生堂はアメリカのマサチューセッツ工科大学と研究開発を進めており……」

札幌卸センター総合ビル大会議室。全道の所長を集めた会議。慎也社長は新しいプロジェクトを話していた。

「そこで!全所長にもこの内容を理解いただき、情報を共有したいのですが、みなさん。いかがでしょうか」

すると札幌中央第二営業所の渡が、すっと手を挙げた。

「どうぞ。渡部長」

「遅入ります。今の話。自分には難しかったのですが、そのマサツーセッツというのは」

「あの渡部長。マサチューセッツ工科大学です」

「ああ、そのマサツーセッツは、どこの島にあるのでしょうか」

「島って?渡さん。これはアメリカですよ?それにマサチューセッツ!大学名くらいはちゃんと言って下さいよ」

「すんません」

済まなそうな顔をした渡を隣席の腕を組んで聞いていた石原はヒヒヒと笑った。これに渡は肘で彼を突いた。

「おい。そんなら、石原が言えよ」

「マサチューセッチュだろ」

 言えていない状況。これに気が付いていない全道の所長。慎也はこの事態を重くみた。

「ダメだこりゃ?おい。済まないが廊下にいる姫野を呼んでくれ!」

会議中、廊下で待機していた姫野は役員に呼ばれ、会議室に入った。他の役員も居並ぶ会議。営業成績は確かにトップであるが。この日は会議の運営係であり、一介の係長の立場の姫野。呼ばれた理由が不明である。なんのことだが訳のわからない姫野は、首をひねったまま登場した。

「社長。どうされました?」

「おい。姫野?助けてくれ。皆、マサツーセッツって言えないんだよ」

「……社長。マサチューセッツでは?」

姫野の真面目な指摘。所長達はドッと笑った。中でも札幌営業所の二人の部長は遠慮せず、ガハハハと下品に笑った。

「あはは。ほら渡、社長も言えてないぞ」

「ふふ。なら俺たちが言えるはずもない。そもそも名前を言えない大学と業務提携するのは危険ではないか」

「そうだな。他の大学がいいんじゃねえか」

勝手に二人。慎也は真っ赤になって怒った。


「ううう、うるさい!姫野!おい」

「はい。そこの二人。今すぐ黙ってください」

姫野の本気の目。睨まれたおじさん子供は背筋を伸ばした。

「よし、姫野。まずは全員が言えるようにしてくれ」

他の所長達が自分を見つめる中、姫野はため息で彼らに向かった。

「わかりました。えー。では皆さん。私の後に続いて下さい。『マサチュー』……」

所長達は、マサツーと唱えた。

「『セッツ』」

所長達は、セッツと唱えた。

「工科大学」

所長達は、工科大学と唱えた。これに慎也はうなづいた。

「工科大学は滑らかだな」

「日本語ですからね」

腕を組んだ慎也は、椅子に背持たれた。その脇に立っていた姫野は、所長達が座る円卓テーブルに歩み寄った。

「でも、みなさん。マサチューのチューの音が弱いです」

「姫野。チューだけ頼む」

「わかりました。いいですか?『チュー!』」

すると所長達は チューと唇を尖らせた。これに慎也はうなづいた。

「なるほど。分割すれば言えるんだな」

 一つ一つは言える言葉。ここで深夜は繋げてくれと言った。

「わかりました。では、続けて言ってみましょう。ゆっくりでいいですよ。『マ サ チュー セッ ツ 工科大学』」

所長達は』マ サ ツー セッ ツー 工科大学』とゆっくり唱えた。

「ダメだな?これは」

椅子からズッコケボケをした慎也。これに秘書の野口が時計を見た。

「社長。そろそろ会議が終わる時間です」

「もう?これで終わりかよ」

肝心の話ができなかった会議。しかし多忙な慎也は切り上げた。

「練習しても無理そうだし。あの!では所長の皆さん。これは宿題です。家で練習して下さい。プロジェクトの内容は、それからにします」

こうして月に一度の所長会議は終了した。




その翌日。全社員には社長メールが届いていた。朝の中央第一営業所では彼がこれを読んでいた。

「先輩。『全社員へ。マサチューセッツ工科大学の発音をマスターするように』とありますよ」

「風間は言えるんだな」

姫野の声。風間は回転椅子を回した。

「当然ですよ?松田さんは?」

名が出た彼女。コーヒーサーバーの前で答えた。

「マサチューセッツ、工科大学」

「……なんか間が合ったんですけど。まあ、言えてますね。あ?石原部長。手本をお願いします」

部下の視線の先。今まで起きていたはずの石原は、風間の声に目をつぶった。

「グーグー」

「あ。また寝たふりだ?」

石原の渾身の技。新人社員の風間はふわと紙飛行機を飛ばした。

「全く、ぐーぐーなんて言いながら寝る人なんて。漫画の世界ですよ」

「フフ、あ、すみません!?……フフフ」

この間。営業所の鏡を磨いていた彼女は、口に手を当てた。そして風間が飛ばした紙飛行機を拾った。

「ねえ。小花ちゃんも言ってみてよ」

「あら?風間さん。私はここの社員ではありませんよ」

 これに姫野は片眉を上げた。

「言えないんだよ。きっとこいつは」

安い挑発。小花は彼を向いた。

「姫野さん、そのような事はありませんわ……おほん」

彼女はすううと息を大きく吸った。みんなが耳を澄ました。

「マサチューセッチュ」

「ほら?言えないじゃないか」

嬉しそうな姫野。彼女はムッとした。

「姫野さんの事、嫌いになりました!」

ふんと彼女はそっぽを向いた。そして掃除道具を持って出て行った。

「ねえ。これって良いんですか先輩」

「後で土下座でもなんでもして謝るさ」

「嫌いになってってことは……今まではその逆だったって事だから。姫野係長に任せましょう」

こうして松田女史は、今日の予定を説明し始めた。


◇◇◇

「すいませーん」

数日後の午後。中央第一営業所に総務部の蘭と美紀がやってきた。

「松田さん。例のマサチューセッツ工科大学の件なんですけど。社長命令で、一人一人ちゃんと言えるか、確認しないといけないんですよ」

「全員か……大変ね」

「でもここは合格でいいですよね?」

「あ。待って」

松田女史は二人の持つ書類を手に取った。

「この男は、この名簿から外してくれない?一生言えないと思うから」

「いいんですか?」

「いいのよ。これで」

そういうと松田は、中央第一営業所の部長の欄を油性マジックで塗りつぶした。

「はい!これで中央第一は百パーセント達成よ」

「助かりました!ありがとうございます!」

こうして一日中、発音確認に追われた二人は、名簿の最後の駐車場係りをチェックしてようやく玄関まで戻ってきた。するとそこは背の高い外国人が立っていた。彼は英語で話しかけてきた。

「やば!英語だし」

「翻訳ソフトってどうするんだけ?」

彼が困っているのはわかるが、事務員の二人は慌てていた。そこに彼女がやってきた。

「あ。小花ちゃん」

「なんでしょうか?」

トイレ掃除から出てきた小花に二人はすがった。

「あの人さ。困っているみたいなんだけど」

「そうですか?May I help you?」

「Oh!?」

小花が流暢な英語を話すので二人はビックリしながら意味不明の会話を聞いていた。

「蘭さん、美紀さん。この方は、監査役の阿部様にお会いしたいそうです」

「あべちゃん?わかった!うちらが連れて行くよ」

 エレベーターのボタンを押した小花は彼らを乗せた。客人は小花に礼を言った。

「Thank you!」

「See you!Have a niceday!」

三人が乗ったエレベーターのドア。これが閉まるのをお手振りしていた時、彼女は背後に人の気配を感じた。

「ヘイ!ガール!」

「はい?」

彼女がくるりと振り向くと、そこには石原が立っていた。

「掃除の姉ちゃん……ヘルプ、ミー」

「?何がどうしたんですか?」

「俺がマサツーを言えるように、特訓に付き合ってくれ」

 必死の石原は小花に縋ってきた。

「私ですか?」

「だって。今、英語話していただろう?」

 モップを持った彼女は困ってしまった。

「……松田さんに教われば」

すると石原は髪が飛ぶくらい首を横に振った。

「とっくに匙をぶん投げたよ……。でも、お姉ちゃなら俺を救えるはずだ」

「どうしてまた?」

「腑抜けの風間をまともにしたり、意地悪姫野を優しい男に変えたあんたなら。俺の事もきっと変えられるはずだ……この通り頼む……俺も男になりたいんだ……」

石原は、頭を下げた。この『姫野』という言葉に、この件で自分もからかわれた事を思い出した小花の判断は早かった。

「やりましょう」

「ありがとう!」

こうして二人の秘密の特訓が始まった。


しかし約束の昼休みの屋上。いたのは石原だけじゃなかった。

「……石原さん。この方達は?」

「マサツーが言えない、哀れな子羊達だ……」

中央第二営業所の男性社員や、渡部長もいた。

「俺は面倒だから自分たちでやれって言ったのに。勝手に付いてきたんだよ」

「お嬢。すまない!我々は子供や嫁、あげくはペットにもバカにされておるのです」

悲しく首を垂れる中央第二の社員達。彼女は覚悟を決めた。

「いいですわ。一人も十人も同じですし」

嘆き悲しむ中年営業マン達は、小花の天使の微笑みの前に平伏していた。

この日から洗濯物した雑巾が舞う昼休みの屋上は、秘密の特訓場となった。

小花達はネットで調べた舌のトレーニングを試したり腹筋運動など思い付いた事をやってみた。だがなかなか効果がでないので、禁酒を断行した男性社員達。そしてその日がやってきた。



「マサ チュー セッツ工科大学」

「言えましたわ!ねえ。みなさん聞きました?」

「……オッケーです!今のは動画で撮りました!石原部長が言えたので、これで全員達成だ!」

やった!やった!やった!と舌足らずイレブンは、手を繋ぎ輪になって喜んだ。

「お姉ちゃんよ……あんたは優しさでできているよ」

 涙ぐむ石原。彼女は謙遜した。

「そんな事はありませんわ。私達の努力の……賜物、いや勝利ですわ……」

「小花先生!」

「先生!」

 中年達の瞳。彼女は最後に手を叩いた。

「はい!それでは最後にみんなで。お空に向かって叫びましょう」

ビルの屋上。列になった彼らはせーので、叫んでいた。




「何か今、何か聞こえなかったか?」

「特に感じませんが。私は秘書室におります……」

秘書の野口が退出した社長室。慎也は椅子を倒した。その時、暇だった慎也は窓を開けた。

「『……マサチューセッツ!工科大学!バンザーイ。アハハハッハ……』」

窓の上から、楽しそうな社員の声が聞こえて来た。

「何をやっているんだ?」

慎也は3階の窓から身を乗り出して屋上を見たが、フェンスしか見えなかった。

この時、地上から声がした。

「社長!危ないですよ」

眼下。外にいた姫野と風間が、窓の下に駆け寄り慎也に叫んでいた。慎也は尋ねてみた。

「おい姫野!この上で何をやっているんだ?」

 窓の下にやってきた姫野は叫んだ。

「秘密練習です!」

「なに?」

「だから『秘密練習』ですよ!マサチューセッツ工科大学のボイストレーニングを秘密でやっているんですよ」

秘密だと暴露する大声。慎也はまだ状況を掴めずにいた。

「秘密って。みんな知っているのに?」

姫野と風間はうなずいた。

今度は風間が声を張った。

「あのですね。毎日、あの大声ですから社長以外みんな知っているんですよ。でも社長のために頑張っているんで。気付いているなんて誰も言えないです!!」

「それは言えないよな……そうか」

慎也は二人が見える窓をそっと閉めた。そして窓に背を向けた慎也は、亡き父の写真を眺めた。

「父さん……素晴らしい夏山愛生堂の社員を残してくれて、ありがとう本当に」

 慎也はにっこり微笑んだ。

「俺。社員を大切にして社長業、もっと頑張るよ!そして、早く鈴子を見つけて。必ず幸せにするからね……」

 太陽は眩しかった。札幌の街に夏が来ようとしていた。


Fin

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