3 夜のジェラシー
……今度の彼女はラベンダー皮膚科の看護師か。
風間の多くの彼女と浮名を流すその気力を、姫野は感心していた。そんな金曜日帰宅途中。姫野の携帯が鳴った。
『ああ姫野君?あのね』
電話の向こう。塩川クリニックの夫人は、小花の為にケーキを焼いたので取りに来てほしいと話した。この時、ちょうど近くを車で走っていた姫野は、塩川クリニックに向かった。
「遅い時間に御免なさいね。私。明日から旅行に行くから、どうしても今日中に小花ちゃんに渡したかったのよ」
「お心遣いありがとうございます。彼女に渡しておきますので」
「……姫野君って。最近顔つきが変わったわね」
「そうですか?」
夜のクリニック。玄関前。夫人は微笑んだ。
「以前はもっとイライラした顔だったけど。最近は余裕があるというか、なんというか。落ち着きが出てきたというか」
「いいえ。まだまだ自分は、勉強中ですので」
塩川夫人は姫野に紙袋を手渡し、車まで付いてきた。生ぬるい夜風が吹いていた。
「気を付けてね、それと彼女に宜しく」
「確かにお預かりしました。夫人もご旅行、お気を付けて」
そういって姫野は愛車を走らせた。
少し先のコンビニの駐車場で、姫野は小花に電話をした。
『……はい。どうしました?姫野さん』
彼女の背後から聞こえる雑音。この夜、彼女はどこかの店内にいると姫野は悟った。
「今、電話大丈夫か?」
『はい』
声の向こうのBGM。気にせぬように彼は集中した。
「塩川夫人に君へのケーキを預かったから届けに行きたいのだが、今、外出先か?」
『ちょっと待って下さい』
すると彼女は受話器を押さえたようだ。
『姫野さん。どのくらいで着きますか?』
「今、二条市場の傍だから。夜だし20分くらいかな」
彼女は誰かに確認しつつ答えた。
『……私も。これから自宅に戻りますので。待っていて下さいますか?』
「お前はどこにいるんだ」
彼女がどこにいるのか。心配な彼は苛立つ声を抑えながら尋ねた。小花は素直に話した。
『ここは……ススキノです。ジャスマックプラザホテルのそばです』
「今すぐそこに行く」
返事を聞かずに電話を切った。が、確かに彼女の傍には誰かがいた。
……デートか?まさか……。
姫野は息を吐くと、誰も居ない駐車場でスピンターンで向きを変え、小花の元へ向かった。
彼女はホテルの玄関前に一人で立っていた。
「ありがとうございました」
「いいから乗れ。急で悪かったな。予定は……もう良いのか?」
「はい。失礼します」
彼女は車に乗り込むとシートベルトをした。それを横目で確認した姫野は、車をスタートさせた。
「飲み会だったのか」
「……はい」
しかし。
彼女から漂う煙草の香りに、なぜか無性に腹が立った姫野は、とうとう我慢できす中島公園の駐車場で車を停めた。
「姫野さん?」
姫野は思わず彼女の長い髪の先をつまんで匂いを嗅いだ。
「この煙草の匂い。お前は……こんな時間にどこに行っていたんだ?」
「え?あの。ちょっとお食事に」
「誰と」
「……言えませんわ」
彼は怒って車を降りてしまった。残された小花は驚いて降りた。
「あ。待って?」
足早に進む彼。小花は外灯の下にいた姫野のシャツの背をつまんだ。
「待って!私、恋の悩みを聞いていたんです。でも姫野さんが知っている女性なので、名前は言えないです」
立ち止まった彼。まだ彼の思いは収まらなかった。
「そう言う事なら仕方ないが、お前は未成年なんだから、そんな店に遅い時間までいちゃ駄目だろう」
「すみません」
なぜ彼女が謝るのか、姫野も分からなくなってきた。
「車に戻るぞ」
自分が飛び出したくせに姫野はそういって彼女の肩を抱いて車まで戻ってきた。しかし、彼女は俯いていた。
「……いいです。私、ここから歩いて帰ります。ケーキをありがとうございました」
「小花?」
「いいんです。もう近くですし」
そういうと彼女は紙袋を持ち、ぱっと駆け出した。夜の公園の小道。姫野は慌てた。
「おい!待て」
小花は必死で走ったが、あっという間に姫野が追い付き、彼女の手を握った。
「すまん!……俺が悪かった」
「はあ。はあ。はあ。離して下さい」
「離さない」
姫野は彼女を思わず抱きしめた。
「すまない。なんか知らないが、無性に腹が立ったんだ……」
その声を耳元で聞いた小花は、姫野の背をポンポンと叩いた。
「……そうですか。姫野さんも一緒に行きたかったのですね……」
「そうなのかな……?」
彼の情けない声。小花は彼の胸にそっと手を付けて離れると、彼と手を繋いだ。
「今度一緒に行きましょう。ね?」
その無垢な笑み。姫野もうんと頷いた。
「ケーキは無事か」
「何とも言えませんわ」
さっきのダッシュで紙袋は破れかけていた。
「まあ、味は変わらないだろう。ん?」
車中。気が付くと小花がじっと姫野の顔を見ていた。
「どうした?」
「怒ったり。笑ったり……」
「そ、それは誰でもそうだろう」
「困ったり、とぼけてみたり……」
「仕方ないだろう!」
「開き直ったり、不貞腐れたり……」
「あのな?」
「お気持ちが、まっすぐで。羨ましいです」
シートベルトを締める彼女。その優しい笑顔に、姫野は溜息をついた。
……何をやっているんだ俺は。
恋人として交際しているわけではない。彼女は職場の年下の女性。しかし、その健気な彼女を心から応援したいと思う気持ちは本物だった。
今はまだ。職場の頼りになる男として彼女に信用してもらいたい。そのために彼女の前では紳士であらねばならないと姫野は見上げた星に誓った。
「ところで。そのケーキは一人で食べきれるのか」
「まあ?私は姫野さんに半分持って行ってもらおうと思っていました」
「お前がもらったんだから。責任持って食えよ」
「でも姫野さん。塩川夫人に感想を聞かれるのは姫野さんですよ。これ、少しは食べて行って下さい」
自宅に上がれと話す彼女。姫野は喜びをなんとかこらえた。
「……少しだぞ」
「はい!」
まだ恋色の二人が乗った車は、生ぬるい夜風の中を掛けて行った。
fin
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