2 綺麗になりたい
「朝か。起きないと」
早朝の布団。彼女は爆発ヘアで起き上がった。鏡の中の顔は、疲れていた。
「さてと。頑張らないと」
そう自分に言い聞かせた彼女は、顔を洗った。1日の始まりだった。
翌朝。夏山愛生堂、中央第一営業所。
「おはようございます」
「おはよう。小花、ちょっとこれを見て欲しいのだか」
今朝も早起きの姫野はスマホの画像を彼女に見せた。
「ゴミ邸ですか?」
「そう思うだろう?だか、これは二十歳のお嬢さまの部屋だ」
「……」
絶句した小花は、もう一度写真を見た。
「だって。ベッドの高さまで、物がありますよ?」
ふうと姫野は溜息を付いた。
「俺の得意先のお嬢様の部屋でな。俺は掃除を頼まれたんだ」
「これは。プロの片付けの方にお願いした方が良いのでは」
心配そうに見上げた彼女。姫野はそうもいかないと苦しそうな顔をした。
「すでに一度頼んだが、すぐこの調子だそうだ。世間体もあるので今では夫婦で定期的に掃除をしているんだ」
「まあ……お気の毒というか、なんというか」
「そうなんだ。先生の奥方がすっかり参ってしまってな。今度の休みに先生が一人で片付けるというので、俺と風間も手伝う事にしたんだが。また同じ事になるのではな……」
医薬品卸売のセールスマン。営業という苦行に彼は頭を悩ませてた。こんな彼にそうじのプロの彼女は真顔で答えた。
「そうですね。多分すぐこうなると思います」
「お前もうそう思うか」
うんと彼女はうなずいた。しかし。姫野は予言を当ててもしょうがなかった。
「どうすればいいと思う?俺もさすがにこれは」
「……良い方法、と言いますか。掃除の先輩が言っていた究極の方法ならありますが」
小花は仕事を終えた後、話をすると言い、営業所を出て行った。
◇◇◇
その夜。会社帰りの姫野は風間と小花と三人で打ち合わせを兼ねて、人気ハンバーグ店に来ていた。
「小花は何を食べる?」
「今日はランチが遅かったので、私はサラダで結構ですわ」
「そうか?じゃあ、俺達は……」
オーダーをした後、彼女は究極の方法を打明けた。
「それができればそれがいいかもしれないが」
「でも先輩。あの先生が入っている商業ビルって、先生がオーナーですよね。だったらできるんじゃないのかな」
「首都圏では実際にこの方法をされている方がいるんですよ。お金が掛かりますが、部屋が散らかる事は無いですし」
「……事前に先生に聞いてみるか」
「あ。ハンバーグが来た。小花ちゃんはサラダだね?」
「はい!」
こうして打ち合わせの食事会は済んだ。
風間を自宅に降ろした姫野は、彼女を乗せ夜の札幌の街を走っていた。
「しかし。どうしてあんなに散らかるんだろうな」
「姫野さんは綺麗にしてそうですね」
「物の場所が決まっていないと、面倒だからな。実家にいた時は弟達が物を使って適当にそこらへんに置くから俺はいつも捜し物係だったよ」
「捜し物係?フフフ、面白い!」
「お前は笑うけれどな、双子だから被害も二倍なんだ」
「良いですね、家族賑やかで」
「……済まない。家族の話なんかして」
小花は家族はおらず祖母は施設。無神経な話に彼は謝った。
「どうして?ああ!私の事を気にかけておいでですか?そんな事ありませんわ。姫野さんの家族の話は楽しいですもの」
そうはいっても姫野は彼女の気を紛らわそうとした。
「そうだ。ソフトクリームを」
「いいえ。今夜は疲れたので、帰りたいですわ」
「そう?か、じゃあ帰るか」
彼女の求めに素直に応じた姫野。この夜はこうして終った。
そして、数日経ち。お嬢さまのお部屋掃除の日になった。
「悪かったな、休日なのに」
「いいえ!良い運動、じゃなかった?良い勉強になりますから」
「しかし。今日の小花ちゃんのジャージカッコイイね」
「嬉しいです!これを着ると気分が上がるんです」
そう風間に言った彼女は黒いジャージ姿でぴょんとジャンプした。
「いいから。始めるぞ。藤井先生、今日は宜しくお願いします」
「こちらこそよろしく。済まないね、うちの樹里亜のために。娘は旅行で今日は帰って来ないし、許可はもらっているから」
わがまま娘の父親は三人に笑みを見せた。すると、軍手をはめた風間が藤井を向いた。
「先生は腰痛があるんですよね。ここは俺達に任せて奥さんの所にいてください。何かあったら呼びますから」
「そうかい?じゃ頼むよ」
藤井は申し訳なさそうに部屋を出て言った。
「さ!開始ですよ」
上着を脱いた三人は風間が用意した防塵マスクを顔に掛けた。
各自担当の物をダンボールに詰めて行った。小花は衣類、風間はマンガ本。姫野は書類。それらを詰めた後は、アクセサリー、クレジットカード、そして化粧品を分け、残ったのは食べた後のゴミが主だった。
これだけの作業で三時間を費やした結果。部屋は見事にベッドの他は家具だけになった。
暑い日のマスクを付けた肉体労働に疲れた三人は、藤井に遠慮するのと作戦を立てるため、このマンションの下階にあるカフェでランチにした。
「しかし。信じられない量!マンガだって同じ巻が三冊あったし」
「見つからないから買うんだろうな。それにしても凄い量だった」
姫野は二杯目の水を飲んだ。
「想像以上でしたね。でも姫野さん。作戦通りに行きそうですか」
「ああ。書類を見た限りでは問題なさそうだ」
「マンガも綺麗でしたし。これなら大丈夫ですよ」
そこへウェイトレスが料理を運んで来た。
「……小花は、またサラダだけか?」
「口に口内炎ができていて。食べるとしみるので、今日はこれでいいです」
「言ってくれば、うちの薬局から薬を持って来たのに」
風間はそう言って自分の料理を食べ始めた。が、姫野はじっと小花をみていた。
「わ、私も食べます!いただきます……」
疑うような目の姫野を気にしないふりをしながら、彼女はレタスにフォークを刺した。
ランチを済ませた三人は樹里亜の部屋に戻ってきた。何もない部屋。今度は掃除しはじめた。そこへ藤井とその夫人がやってきた。
「みなさん。すみません。娘のために」
顔色の悪い夫人は、申し訳なさそうに三人に頭を下げた。
「何も無ければ、こんなに綺麗なのに。うち娘はどうしてあんなに片づけられないのか、私も悲しくて」
藤井は妻をベッドに腰かけさせた。
「実はね。姫野君達から提案を受けたんだけど。お前も聞いて欲しいんだよ」
「は?」
すると姫野は、作業の手を止め、夫人に向かった。
「奥様。この部屋はこのまま何も置かないようにしませんか?」
「何も?」
床を拭いていた風間も立ち上がった。
「そうです。だからこの家具も片付けたいんですよ」
「片付けるって……では衣類とかは、どこに?」
「無しですわ」
「はい?」
「すべて処分ですわ」
小花の顔に、夫人は卒倒しそうになった。
「私から説明します。はっきり言って、お嬢様は物の管理は不得手です。だから他に任せるのですよ」
「他って?」
風間が藤井夫人に書類を渡した。
「それに全部書いてありますが。これから、服はこのビルに入っているブティックが始めたレンタルにします。樹里亜さんが大学に着て行く服は、店が選んで届けてくれます。樹里亜さんは洗濯をせず、そのまま返すだけです」
「全部って、下着は?」
「奥様。下着と部屋着は今まで通りですがここでは無く、脱衣所に置いていただきます。そしてマンガ本は、このビルのマンガ喫茶でお読みいただきます。この部屋にあった本も買い取ってくれますし、なによりも樹里亜さん専用の小部屋を用意しました」
「他は?あの大学の教科書とか」
姫野は首を横に振った。
「すべてネットで同じ内容を勉強できます。パソコンが有れば教科書は不要です」
「お化粧品は?アクセサリーもあの子は好きなのよ」
「このビルの美容室でヘヤスタイルからメイクまでやってくれます。店長は自宅もこのマンションですので、24時間対応です。アクセサリーだけは、貴重品ですので、樹里亜さんに管理いただきます」
夫人は信じられないと言う顔をした。
「お前。姫野君達は、この部屋のせいで家族がギクシャクしたり、お前が気に病む事の方が良くないというのだよ。だから今までの荷物はトランクルームに入れて置いて、これからは姫野君達の方法でやって行こうと思うんだよ」
「……どうしてこんな事に。私はちゃんと躾けたつもりだったのに」
みじめになったのか、夫人はしくしくと泣き出した。
「奥様……。樹里亜さんはしっかりしておいでですわ」
「何をいっているの」
「出てきた書類の中に、資格所得の申込用紙がたくさんありました。自立しようと何かお考えなのでは無いですか?」
「書類だけもってきても。また三日坊主よ」
「三日も続いたってことですよ?」
「小花!いいすぎだ」
ダメな娘と嘆く母。ジャージ姿の小花は続けた。
「私は両親を無くて一人ぼっちなので、奥様のようなお母様がいるのが羨ましいです。どんなに高価な贈り物よりも、家族といる時間の方が大切ですもの」
「お前。樹里亜はもう平気だよ。それよりもお前が子離れしないといけないよ」
「子離れ……私が樹里亜をこんな風にしたというの」
「そうじゃないさ。そうじゃない!全部仕事のせいにして家庭を顧みなかった私のせいだ。さ、姫野君そういうわけだ。ここを片付けてくれ」
「はい」
弱々しくうなだれていた夫人をつれて藤井が部屋を出たので、三人は気を取り直して部屋の家具を運び出した。
「本当にこれでいいんですよね」
ベッドとぬいぐるみ一個だけの部屋を見て、風間も不安になった。
「パソコンは隣室の先生のを使うしな。しかし、何も無いと殺風景だな」
「……ご挨拶をして帰りましょうか」
こうして終了した三人は藤井に挨拶をしに行った。
「ありがとう。妻は興奮しているけれど、時期に落ち着くと思うから心配しないでくれ。あ、それと小花君といったね。少し話をしよう」
診察室で書類の整理をしていた藤井は、姫野と風間が去った後、対面に座った小花の顔をそっと覗きこんだ。
「私はこれでも心療内科医だから。少し君の事が気になるんだよね。何か胸に抱えている事があるじゃないのかな」
「そ、そんな事は」
「そんな風に感情を殺してはいけないよ。寂しい時は寂しいものだ。悲しい時は泣けばいい」
専門家の声につい小花は涙が出て来た。
「自分では無理をしているつもりは無いのですが。母が亡くなって二年経つのですが、やはり寂しいと思う時があります。でも、それは乗り越えないと」
「それは苦労したね。一人でよく頑張ったね」
小花の目から涙が出て来た。
「無理して乗り越えなくていいさ。君はどうやら頑張りすぎだ。そうだな?今日一日頑張った自分を褒めてやりなさい」
「……はい」
「それと。顔色が悪いな。ダイエット中かな」
「確かに食欲はありません」
「よくないね。ちゃんと食べないと」
「スイカだけは食べています」
「美味しいけどね。ご飯も食べなさい」
医者はとにかく小花を褒めてくれた。
「ね。私がこんなに褒めたんだから。安心なさい」
「はい!」
「元気が出たな?今日はありがとう、助かったよ」
「こちらこそ。奥様によろしくお伝えくださいませ」
ふんふんと鼻歌を歌いながら廊下を歩くと、二人が待っていた。
「ずいぶん長かったが、何の話だった?」
「別に!それよりも私、お腹が空きましたわ」
「何か食べて帰る?でも小花ちゃん、口内炎が痛いんでしょう?」
「治りましたの」
「お前。何か隠しているだろう」
「?何の事、うわ」
姫野は小花を抱きかかえた。
「泣いた後のその顔。……亡くなったお母さんの事を思い出して悲しいのなら。その、いつでも俺の胸をだな」
すると風間が小花を奪うように胸にギュと抱き締めた。
「悲しい時は、いつでも俺が抱きしめてあげるよ!」
「風間さん?」
「おい!離せ」
「へーんだ。いつも先輩がくっついているから仕返しですよ」
「風間さん、苦しいですわ」
「あ、ごめん」
腕を解いた風間の胸から、今度は姫野が彼女の腕を引いた。
「おい!本当に何があったんだ」
あまりにしつこい姫野に、小花は先生に悩み相談をしたと打ち明けた。
「最近眠れなかったので。でも元気出ましたわ」
しかし。相談をしてくれなかった彼女に姫野は苛立った。この日はこうして解散した。
後日。ドクター藤井からは娘の片付けは成功していると姫野は感謝されていた。
「小花。ありがとうな」
「どういたしまして……失礼しました」
朝の清掃を終えた小花は、洗濯物を干しに屋上にやってきた。
……片付けか。いいな。
甘えられる家族がいる人の話。小花は羨ましかった。
「あーあ。いいな」
「どうしたの?」
「きゃああ?」
屋上の洗濯物の影。慎也が潜んでいたので小花は悲鳴を上げた。
「ごめんよ、驚かそうと思ってここにいたわけじゃ無いんだ」
「そうだとは思いますけど。ここで何をされていたんですか」
慎也はし!と指を立てた。
「ちょっとね。一人になりたくて」
スーツ姿の実の兄。名乗る訳がいかない妹の彼女は邪魔をしないようにしようと思った。
「あの。私、失礼します、どうぞごゆっくり」
そう言ってタライを持ち上げた。
「待って。今さ、なんか言っていただろう」
小花の独り言。気になると慎也は夏の風の中、ポケットに手を突っ込んでいた。彼女は屋上に設置したカラスよけの模型鳥、デストロイヤーをじっと見つめながら心をこぼした。
「私……家では一人なので、家族がいる人っていいなって」
「そうか。俺も一人だからわかるよ」
実の兄妹の二人、しかし慎也は知らずに肩を並べた。
「でも。どうして急に?そう思ったの」
背が大きな彼。傍にいるタライを持った小花を心配そうに見下ろした。
「自分が散らかしたところを、家族の人が掃除してくれていたんです。私がそんなことをしても誰もいないから」
「俺も人を見るとうらやましくなるよ、わかるよその気持ち」
屋上から見る札幌の空は青く澄んでいた。流れる白い雲の向こうには藻岩山が鎮座していた。
「はあ。でもさ、前に進まないとな」
「社長はお仕事たくさんありますのものね。私よりも責任重大ですもの」
俯く小花。慎也は彼女の顔を覗き込んだ。
「何を言うんだよ?仕事はどれも同じじゃないか?君の仕事だって、本当に助かっているんだよ」
「そうでしょうか。ここの社員の方。そんな風に思いながら社内を使っているようには全然思えないんですけど」
「みんな。君がいるから甘えているんだよ」
「じゃ、私が散らかしたら、誰がお掃除してくれるんでしょうか。それがちょっと、寂しいなって」
「……そうだな?待てよ」
慎也は腕を組んで考えた。
「姫野は忙しいし、風間は無理だ。石原さんは頼りになるけど、どうも外れてるし」
「おっしゃる通りですわ」
「渡さんは君に面倒をかけそうだし……あ?そうだ!俺か!?」
慎也はそう言って手をパンと叩いた。
「というわけで、行こう!」
「ど、どこへ?」
驚く小花。慎也は微笑んだ。
「野口にコーヒーを淹れてもらってさ。それから仕事をしよう!ね?ほら」
「でも。私は掃除のお仕事を」
すると慎也は彼女のタライを持った。
「そもそもね。君が元気を出してくれないと。どこも綺麗になんかならないよ?っというわけで。俺が君を元気にするんだ。さあ。早く早く」
慎也の笑顔に連れられて、小花は一緒に階段を降りた。
その広い背。階段を降りる早い足音。
……気の優しいお兄様。お兄様の気持ちが一番綺麗だわ。
「ねえ。小花さん。タライはどこに置くの」
「給湯室でいいです」
「給湯室ってどこ?」
「ふふふ」
札幌の夏。老舗医薬品卸会社の5階。窓から入る日差しは今日も穏やかであった。
fin
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