3-1

 日が明けて木曜日。

 風邪を引かずに済んだ丈夫な身体に感謝しつつ早朝から取材に勤しんだ私は、放課後になる頃には既に干し柿のように萎れながら、旧文芸部室の机に身体を預けていた。

 週刊連載の小説も書かねばと執筆に勤しみつつ、私はスマートフォンから聞き慣れた音が鳴るのを今か今かと待っていた。今日は、何かが起きるかも知れないのだ。

 事前に報告する形で部活動を休んだ神渕桃子は、この放課後に一体何をしているのか。

 私自ら昼休みを利用し行った取材によると、神渕桃子はコンビニでアルバイトをしているが、彼女は毎週金曜と、時々土曜日にシフトを入れているのみであり、木曜の今日働くことはなく、普段であればアイドル部の練習に真面目かつ熱心に取り組み、爽やかかつ美しい汗を迸らせていること請け合いの一日であるはずであった。

 であるなら、彼女は一体どんな目的で部活を放り投げたのだろうか。

 人気アイドル部である21にーいちクラップは一見クールなアイドルグループであるが、パフォーマンスに懸ける想いは他のグループとは一線を画している。それは即ち膨大な練習を要するということであって、アルバイトを除いた全ての放課後は、その大半を練習に捧げることは必定。それは21にーいちクラップのファンの間では共通認識であり、またそのイメージに違わぬ努力を重ねていることは取材をした限りでは確かなようだった。

 神渕桃子は人気メンバーである。センターポジションに立ったことはないようだが、体育館ライブの客席では裁縫部とのコラボで製作された名前入りタオルが多く掲げられ、女性人気も高いらしく黄色い悲鳴があちらこちらから飛び交う。そんな彼女が無意味に部活を休むことがあるだろうか。

 私の中に二十四時間体制で蠢く記者魂は、何かある! と叫んでいた。

 とは言え、まだまだ未熟な記者であることを自覚する私は、ポジティブシンキングに感情の全てを委ねられるほど脳天気にもなれないことから、この加速する心臓の拍動の原因が、拭いきれない不安にあることを認めざるを得なかった。期待と不安が一つ屋根の下、1DKほどの狭い部屋で共同生活を営んでいる。何せこの件を見つけたのは他でもない春日雫なのだ。証拠はない。彼女が「見たのだ!」と叫んだ言葉一つで動いており、これを不安に思わぬ訳がない。

 だが、私は週刊言責の編集長であり春日雫の先輩である。背負うべき感情であることは自覚の上であった。

 そして、待ちに待った時が訪れる。

 スマートフォンが私に向けて軽快な音を響かせた。心臓がバクンと跳ね、呼応するように身体も弾み、言葉にならない声を漏らしながら私はスマホを手に取った。

 画面上部にメッセージを受信した旨の通知があり、そこには谷汲華奈とあった。華奈は本日も雫と共に行動している。

 スマホを危うく落としそうになるほど慌てたのは、期待と不安が共に大挙して押し寄せたからであった。精神の状態が身体に大きく影響を及ぼすという顕著な例であったことだろう。

 大きく息を吸って吐いて、緊張に因って一気に体温が失われた手のひらでディスプレイをスワイプし、メッセージを開く。

 そこには一枚の写真が貼り付けられていた。続けざまに、華奈のスマホを奪い取って雫が書いたに違いない文言が届く。

『ビンゴ! ほらね!』明らかに華奈ではない。

 その自信の根拠や如何に。送られてきた写真という点では前科のある雫のことであるから、まだ不安を拭えはしない。だがもはや関係ないのだ! 写真を見れば済む話しである!

 睨み付けるように画面を見た。そこには、当然のことながら神渕桃子が映っていた。後ろ姿ではあるが、確かにそうであると分かるように撮られているのだから、これは谷汲華奈の手に因るものに違いない。

「ここは、駅か!」

 昨日、私が湯之島誠吾と会っていたのは地元の駅近くであるが、写真の場所はそこから電車で二十分ほど行ったところにある別の駅であることは一目で分かった。恐らくは改札を抜け、エスカレーターを下りたところであろう。構内南口にあるケーキ屋が、神渕桃子の背中越しに見えている。

 だが待て! 問題はそこではない!

 被写体は神渕桃子だけであるか。否! 華奈は二つの背中にピントを当てている!

 神渕桃子の隣を、他人とは思えぬ距離感で歩く男が映っているではないか!

 スーツ姿ではない。非常にラフな格好の男性だ。顔は分からないが二十代半ば頃と見た!

 先日の雫の話と総合するに、二人はここで落ち合ったのだろう。つまり逢い引きである。前回は神渕の元に男がやって来たが、今回は神渕が男に会いに行ったのだ。

 不安が期待に塗り替えられていく。払拭する必要などない。不安を掻き消すのはいつだってそれを超える期待である。

 私は急いで部室を出る支度をした。学校のネット環境は世間から随分と遅れている! 快適なネット環境が必要と見たらばここに留まる理由などない!

 そして期待通り、華奈が撮ったであろう写真が、雫のスマホから再び送られてくる。今度はばっちり男の顔も映っているではないか。よくこの角度の写真をバレずに撮れるものだと感心しきりである。

 男の外見から受ける印象は、怪しい好青年、とするのが最も的確であろう。白いシャツにネイビーのポロシャツ、スマートな黒いズボン、万人が履いていそうなスニーカー。爽やかさを演出して人を騙していそうな如何にもペテン師といった風貌だが、私の主観では二十代男性はどんな格好をしていてもそのように思えてしまうことから、偏見が多分に含まれていることを留意して頂きたい。

 神渕桃子とは仲睦まじげな様子であるが、しかしどうにも違和感がある。彼氏彼女の間柄であったらば腕を組むくらいの距離であっても良かろう。付き合いたてが故の可愛らしい逡巡、ということであるなら良いのだが。

「何にせよ、端緒たんしょを得たり!」

 雫と華奈は尾行を継続するだろう。であれば私にできることは一つ。この男の正体を探ることなり! 顔写真を得たなら方法なんぞは幾らでもあろう!

 胸の高鳴りが実にポジティブなそれに埋め尽くされ、私の記者魂に点いた火は、マッチのように小さく、しかし触れてみたらば確かに熱い。

 まずは我々週刊言責が誇る藤橋姉の力を借りることを躊躇ってはいけない。平行して、私もできる限りのことはしよう。

 何より私は春日雫の先輩であるからして、彼女の復権に関わる大きなスクープを逃す訳にはいかず、その為の労力は惜しんでたまるかとの精神で今日に挑んでいた訳であるから、他の何を擲ってでも邁進するのは当然のことであった。

 だが如何せん、私の覚悟というものに横槍を入れる存在は一人や二人いるものである。

 本日の横槍投げの選手は、その世界では一流、日本代表をも視野に入れているとまことしやかに囁かれているとかいないとか。

「ねえ、久瀬くん」

 静かながら、背筋に冷たいものを走らせる声であった。

 声の主の名は、藤橋まいか。

 私が最も恐れる、当編集部の副編集長殿であった。

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